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幕末志士が夢の跡

さて、当初予定では新地中華街を取り上げる
手筈だったのですが・・・
訳有って変更
楽しみにされていた方には申し訳無い限りでは
ありますが、何卒お付き合い頂きたく存じます。

長崎小旅行3日目。
前日の出島に続いて、この日も港町・長崎の歴史に
触れる旅。
今年、2018年は江戸幕府が朝廷に大政を奉還、
元号が「明治」に改元されてより150年
幕末・明治初期の史跡や人物と縁有る場所では
大々的なイベントや観光キャンペーンが行われていますが、
私も今回、ある人物の足跡へと赴くこととしました。
その人物とは坂本龍馬(さかもと りょうま)
混沌と騒乱に満ちた幕末に於いて、薩長同盟の斡旋、
亀山社中(後の海援隊)設立、薩摩藩・長州藩への
洋式武器の流通、新政権樹立後の国政の在り方を
定義した船中八策等、立場や思想に捉われない
行動と見識で時代に一石を投じ、最期は
凶刃に倒れた傑物。
その人物と成し遂げた、あるいは成さんとした
事績から、今なお日本上屈指の人気者として
人々に愛されています(疑義や異論もありましょうが、
ここでは問外とさせて頂きます)。
今回はそんな龍馬が残した足跡を辿って
歩いて参ります。
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この日の移動手段として選んだのは、市内の要所や
観光名所を4つの路線で網羅する路面電車・
長崎電気軌道
短い車体にどこか愛嬌すら感じさせる電車が、
目的地まで快適に運んでくれます。
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繁華街に位置する築町から乗り込み、新大工町電停で下車。
ここから長崎名物・坂道に挑みます。
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電停から少し歩いたところでに突き当たります。
その畔に在るのが・・・
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上野撮影局跡
文久2(1862)年、絵師の家系に生まれ、オランダ人医師ポンぺやフランス人ロシェから
撮影技術を学んだ上野彦馬(うえの ひこま)が
開いた、わが国初の営業写真館
当初は屋根の無い小屋で営業していましたが、後にガラス張りの
写真館が完成しました。
ここで坂本龍馬高杉晋作
桂小五郎(後の木戸孝允)、トーマス・グラバー
いった幕末の人物達が、その姿をバインダーに留めています。
本来写真館が建っていたのは狭い車道を挟んで向かい側だった
ようですが、ここに説明書と共に当時のカメラと
偉人達がもたれかかった台のレプリカが置かれ、
幕末志士になった気分で記念撮影が出来ます
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住宅地を抜けて行くと、見えて来ました。
長崎名物・坂道
元々周囲をに囲まれた長崎の街は、
拡大に伴いへは埋め立てによって、へは
斜面を切り開く事によって土地を確保。
その結果、坂や階段だらけ、配達員泣かせの宅地が
出来上がりました。
この龍馬ゆかりの地へと続く通りも、必然的に階段地獄の様相を
呈しています(笑)
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通り(?)には龍馬通りの名が付けられ、
周辺の名所への案内標識やイラストが設置されています。
ただ・・・顔のパーツが崩れてない?
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もちろん苦しみばかりではありません。
一息吐いて振り返れば、家や樹木、お墓(!)の合間から、
長崎の街が顔を覗かせます。
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新大工町電停から徒歩およそ15分。
やって参りました、亀山社中記念館
この場所こそまさに、龍馬が志を同じくする者達と共に設立し、
日本初の商社とも称される、亀山社中の跡!
・・・と言われています。
幕末の建築で「亀山社中の跡」と言われていた建物を、所有者のご厚意に
より、当時に近い姿に再現、資料館として一般公開されています。
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亀山社中が設立されたのは、慶応元(1865)年夏のこと。
薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の支援の下、
ここ「亀山」の地で焼き物(亀山焼)の関連施設を
借り受ける形で始められました。
その地名に仲間・結社を指す「社中」を合わせ、
亀山社中と呼ばれました。
慶応2(1866)年には薩摩藩名義で長州藩向けの
小銃や蒸気船を購入し、薩長同盟への道筋を付けることに成功。
討幕、そして新時代への潮流を生み出しました。

館内の展示室は二つ。手前の座敷は龍馬の遺品のレプリカが
展示されている他、記念撮影のコーナーが置かれ、
奥の展示室には龍馬自筆の物や亀山社中のメンバーによる
文書、亀山社中(後の海援隊時代も含む)の公文書等が
置かれています。
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龍馬遺愛の紋服とブーツのレプリカ。
ブーツは残念ながら残されていないものの、
龍馬が京都に於ける居所としていた近江屋(暗殺された場所でもある)に
置かれていた紋服は現存
京都国立博物館に保管されています。
正装に用いたのでしょう、坂本家の家紋が入った、
礼に則ったもの。
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こちらも遺品の複製、龍馬の愛刀・陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)と
拳銃
愛刀は刃渡り71.5cm。大正2(1913)年に北海道釧路市で火災に遭ったそう
(明治になってから、坂本家は北海道に新天地を求めました)。
龍馬は長兄・権平(ごんぺい)より譲られたこの刀を常に帯び、
慶応3(1867)年、京・近江屋にて中岡慎太郎と共に絶命に至らしめた
刺客たちが襲来した際にも、身に着けていました。
一方の拳銃は、アメリカ・スミス&ウェッソン社製のもの。
慶応2(1866)年1月23日、伏見・寺田屋にて伏見奉行所の捕方に
襲撃された際には、高杉晋作より贈られた銃で応戦し
難を逃れています(その時の銃は、戦闘と逃走の混乱の中で
紛失したそうです)。
後に龍馬は自身と妻・お龍の護身用として一丁ずつを所持し、
霧島へと旅行に出かけた(これが日本初の新婚旅行と言われています)際には、
狩猟にも用いたとか。

奥の展示室は残念ながら撮影禁止
しかしながら、自由にして力強い筆跡の残る龍馬自筆の手紙(複製ですが)や、
当時の亀山社中や海援隊の活動の手掛かりとなる公文書(こちらも・・・以下略)
を目にすることが出来、満足!
で、こちらの展示室で目に付くのは、部屋の中央に陣取る
階段。それを上がると・・・
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何と隠し部屋が!ここは「中二階」と呼ばれる空間で、
非常時に隠れ潜むには格好の場所。
かつては敷地内に土蔵と馬小屋も有ったそう。
あるいは、幕府側が踏み込んで来ることも想定していたのかも知れません。
ちなみにパネル写真の左から3人目が龍馬。

亀山社中、その後土佐藩に組み入れられ海援隊と名を変えた
彼らの活動期間は、3年ほど。
しかしその短い期間の中で彼らは確かに歴史の潮流の中に在り、
龍馬と志を共にし、薫陶を受けた構成員の中からは、
陸奥陽之助(むつ ようのすけ、後の宗光)、長岡謙吉(ながおか けんきち)、
石田 英吉(いしだ えいきち)、中島信行(なかじま のぶゆき)等、
政治家・軍人・実業家として身を立てる優秀な人材が
輩出されました。
その点でも、ここ亀山に龍馬が蒔いた種は
実りあるものだったに違いありません。

次回は長崎を一望する絶景スポットを目指し、
その途上にある龍馬ゆかりの神社と、
西洋文化が芽吹いた跡を辿ります。
それでは!

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。