また間隔が開いてしまい、ちと筆不精ぶりを反省中の
「西のノリ」です。
松本市郊外の古湯・浅間温泉への小旅行、2日目は
温泉街付近をぶらり散策。
歴史ある町らしい小道を抜けて参ったのは・・・
神宮寺(じんぐうじ)
隣接する温泉街の鎮守の社・御射神社(みさじんじゃ)の
別当寺(べっとうじ、
神社を管理する役目を帯びた寺院)として平安時代に創建され、
臨済宗妙心寺派に属し、医王山(いおうさん)を名乗ります。
社地と並ぶように構えられたその様は、
神仏分離令(1868年発布)以前に一般的であった
神仏習合(神道の神と仏教の仏を同一とする考え方)の名残を思わせる形態です。

山際に建つお寺には私以外の来訪者も少なく、静かな雰囲気。
山門を潜れば、石仏や花の彩、春の
緑がお出迎え。

重厚な破風(屋根の飾り)を持つ唐門の向こうに、本堂が建っています。

幅広に造られた廊下には・・・

「子供と牛」を題材とした襖絵が描かれています。
それぞれの関係と距離感が一枚ごとに変えられており、なんだか
微笑ましい。

本堂前は、広々とした
石庭整然と、かつ法則性を持って配された波紋状の石たちが、
巨石や立木、周囲を取り巻く
山の色と見事な調和を
見せてくれます。
本堂の縁側に腰掛け、「風の声」に耳を傾けてみれば、何だか自然の中へと
溶け込んで行きそうな感覚に。

規模では表側の石庭には及ばないものの、本堂と庫裏(くり)の間に設けられた
裏庭も、味があります。

境内には歌人・
与謝野晶子(よさの あきこ)や俳人・
上原三川(うえはら さんせん、正岡子規の弟子)の歌碑や句碑が残されており、
文人たちと温泉街の関わりを窺わせます。
こちらの上原三川の句碑には
五月雨や 山の温泉のさゝ濁り
とあります。

句碑の奥、石段を登った先には
薬師堂延宝2(1674)年、時の松本城主・水野忠直の生母、
清陽院の
祈願により薬師如来を戴くお堂として完成しました。
昭和23(1948)年、火災によって焼失してしまいましたが、十年後に
平安時代の建築様式に則って再建。
堂内に安置されている
薬師如来坐像は
像高73.6m、神宮寺創健当時に造られた由緒正しい仏様で、
松本市重要文化財に指定されています。

お寺の次は、隣の神社へ。
永く浅間の里にて鎮守の社として祀られて来た、
御射神社(みさじんじゃ)
古くは文治2(286)年編纂の「吾妻鏡(かがみ)」に記され、
春は里に下りて「田の神」として庄園(社寺や貴族が所有する領地)を守り、冬には
松本市と上田市の間に聳える
三才山(みさやま)を守る「山の神」となる
神様を祀っていました。
今から約650年前の建武年間(1334-35)に浅間郷の地頭(じとう、
鎌倉幕府とそれに続く室町幕府によって設置された、庄園を管理する役職)
・
赤沢氏によって諏訪の地から御射山神社を勧請し、改名。
浅間の社地は
春宮とされました。
緑に囲まれた高台に社殿が設けられています。
祭神は
大山祇命(おおやまづみのみこと)で、後に
諏訪大社の祭神である
建御名方命(たけみなかたのみこと)、
八坂刀売命(やさかとのめのみこと)、
事代主命(ことしろぬしのみこと)の
三柱の神々が合祀されました。
ご利益は地域の平安・家運長久・五穀長久・繁栄。
茨城県・鹿島神宮の祭神・
建御雷神(たけみかづち)と力比べを
したという大力の持ち主・建御名方命を祀る故か、神前に参ってみると、
境内に大きな「力」が溢れているように
感じました。ちょっと不思議な体験。

続いては
御殿山(標高860m)の山麓を巡り、山頂へも繋がる
遊歩道の入り口付近にひっそりと佇む、
小笠原家廟所(おがさわらけびょうしょ)
かつての信濃守護の後裔として父祖伝来の地へ復し、初代松本城主として「松本」の基礎を創った
小笠原貞慶(おがさわら さだよし)とその子・
秀政(ひでまさ)、
秀政の子・
忠修(ただなが)の小笠原家三代が、
浅間の地にて祀られています。
周囲を囲む石垣は
御霊屋(おたまや、先祖や貴人の霊を祀る
霊廟)の名残り。天保12(1841)年に建物は
焼失してしまいましたが、
敷地に残された五輪塔から、松本を治めた領主たちの先人たちへの敬意と尊崇の念を
感じることが出来ます。

こちらが小笠原家三代を祀る
五輪塔貞享2(1685)年、当時の松本城主・
水野忠直によって建立されました。
右側が秀政、中央が貞慶、左側が忠修のものとなっています。
それぞれ
臨済寺殿、
大隆寺殿、
法性寺殿と、
埋葬された寺院と関係の有る戒名が付けられています。
なお初代貞慶は上杉→織田→徳川→豊臣→徳川と信濃の豪族らしく
波乱万丈な遍歴を重ねた後、下総国(今の茨城県)古河にて
病死その子秀政は徳川家康の嫡子・松平信康(まつだいら のぶやす)の娘を
正室として迎える等、徳川家に於ける地位を築いたものの、
嫡男・忠修とともに大坂夏の陣(1614年)にて
戦死小笠原家の家督は秀政の次男・
忠真(ただざね)が継ぎ、
豊前(福岡県東部と大分県北部)小倉藩として幕末まで存続することとなります。

住宅地を通り、再び温泉街へ。
その一角はかつて宿場町・
浅間の宿が置かれていた場所。

宿場町時代の面影はごく薄いですが、路地の造りから僅かにその姿が
窺えます。

松本市街へと続いているかの様な坂道・
湯坂を下ります。

途上のお土産屋さんで、郷土のお菓子・
お新粉餅(おしんこもち)
しんこ(新粉)とは白米を粉状にしたもので、その新粉によって作られたお餅だから
お新粉餅。
かわいらしい見た目に成形された餅はもっちり。中には程よい甘さのこし餡が、たっぷりと
詰まっています。
この日は昼以降に
雨の予報が出ていたため、早めに温泉街散策を切り上げ
上高地へと撤退。
バスの車中より降り行く雨を見詰める事となりました。
次回は松本市内に出来た新スポット・信毎メディアガーデンへ。
期間限定で開催中のイベントと、オシャレ和食店での
お昼ご飯をお届けします。
それでは!

浅間宿跡に建てられた、明治~昭和に掛けて登山家・事業家・歌人として
活躍した、大町市生まれの人物・
百瀬慎太郎(ももせ しんたろう)氏の
歌碑。
私の趣味に「登山」は含まれてはいませんが、何だかぐっと来るものがあります。