富山旅2日目。この日は富山市街の郊外、
江戸時代に廻船問屋が軒を連ね、宿場町としても栄えた
海辺の町・
岩瀬地区を訪れます。

富山駅前から岩瀬地区へはこちら、
日本初の本格的
LRT(次世代型路面電車システム)
富山ライトレール大正13(1924)年開業の富岩鉄道(ふがんてつどう)を発祥とし、
富山駅と港湾地帯である岩瀬地区を結んでいた
JR富山港線(工業地帯の沈滞とともに利用客が低迷しつつあった)に代わる
交通機関として、各種代替案の提案と検討の末に
路面電車化が決定し、
富山港線の廃止と各種設備の改修・
整備の後、平成18(2006)年に富山駅北~岩瀬浜間にて
開業となりました。
ちなみにLRTとは
Light Rail Transitの略で、
車体と乗降場の高低差を無くした低床式車両の導入、
軌道・電停の改良による乗降の容易性、定時性・速達性・
快適性等で優れた面を持つ次世代の
軌道性交通システム(ここで言うところの路面電車)の事。(国土交通省のサイトより)
都市部に於ける道路混雑の緩和や交通事故の削減、
二酸化炭素や窒素化合物の削減にも効果の有る、
地域や環境に優しい交通システムでもあるそうな。
富山ライトレールに於いてはこれらの要件を実現すべく、
・低床車両の導入
・バリアフリー対応、新設の停留場整備
・車体の振動を抑制する軌道の採用
・運行ダイヤの改善(本数増加やダイヤの見直し)
・ICカードの採用
・車体や軌道・電停に及ぶトータルデザインの採用
・ライトレールと接続するバスの運行
といった施策が採られ、利用者に対し最大限の利便性を確保しています。
これからの日本の都市政策にも反映し得る交通システム。
その整備・実現を一地方都市(失礼)が叶えたこと、そしてその
決断に至った自治体の先見性に、
脱帽!
路線愛称は
ポートラム優しい響きとともに港町・岩瀬へのアクセス線であることを想起させる
ネーミング。
車両は
TLR0600形路線の開業と同じ平成18(2006)年に登場。
電停のホームと同等レベルまで抑えられた
低床車体に、
メインのカラーリングとして立山の新雪をイメージした
スノーホワイトを採用。
窓周りやドア周りには「富山の自然」や「地球の未来」、「子供たちの笑顔「」を
表現した、編成ごとに異なるアクセントカラーを用いています。
車内は明るい白をベースに蛍光灯の半間接照明、大きな窓の採用によって
開放的な空間を実現。
座席は富山港の色を想起させる
いのちのブルーに
彩色されています。
富山駅北電停を出発した「
ポートラム」は、しばらく
市街地を走行。この区間では一般道との併用軌道。
自動車と並んで走る姿は、一般的な
路面電車そのもの奥田中学校前付近から専用軌道に入り、住宅地の中を疾走します。

富山駅北電停から約20分、岩瀬地区への最寄り停留所の一つ、
東岩瀬電停に到着!
地面や電車との段座を廃し、バリアフリーに配慮した
ライトレールの
停留所では、トータルデザインの一環として電停周辺に
由来する
イラストが描かれています。
ここ東岩瀬電停では、岩瀬地区のメインストリート・岩瀬大町通りの
景観を表現。
JR線を再利用しながら、電停は新設とされた
ライトレール。
しかしここ東岩瀬では、数少ない往年の遺構を目にすることが出来ます。
それがこちらの
旧・東岩瀬駅舎開業は富岩鉄道時代の大正13(1924)年、駅舎は
開業当時のもの。
その後国鉄、
JRと運営元は変遷しましたが、
平成18(2006)年、
JR富山港線とともに同駅も
廃止長らく担ってきた役目を電停へと引き継ぎ、その役目を終えました。
それから1年後の平成19(2007)年、改修ののち駅舎は
休憩所として再生し、
ライトレール富山港線唯一の保存駅舎として
貴重な姿を留めています。

駅舎内。内外共に大正モダンの面影を残し、とても
ノスタルジック自由に出入り可能な内部には休憩スペースとしてテーブルや畳が
置かれている他、岩瀬地区や北前船、ライトレールについての説明が
掲示されています。

駅舎に接し、旧線時代のホームが一部保存されています。
こちらも駅舎同様木造、年季を感じさせる造り。
その横を次世代公共交通を象徴するLRTの車両が行き交います。
東岩瀬電停から徒歩およそ10分、
岩瀬大町通りに到着!
江戸末期から明治時代に掛けて北前船の寄港地として栄えた
岩瀬町の目抜き通り。
かつては加賀藩前田家の
官道として石畳が整備され、
藩主が参勤交代で通ったことも有るそうな。
その頃の風情を残す通りには、往時を偲ばせる廻船問屋の他、
老舗の菓子舗や酒造が軒を連ね、プチタイムトリップを楽しめます。

岩瀬町の伝統家屋の特徴の一つ・
出格子窓から張り出した格子には、屋号を彫り込んだ
透かし彫りが刻まれているそう。
その表面を竹で作った簾・
スムシコが覆い、外部からの
視線を遮断すると共に、中から通りを見ることが可能。
これは全国的にも
数少ない工夫だとか。
通りから家屋までの
敷地内に、御影石や金屋石によって
舗装が施されているのも、特徴的。

通り沿いには土蔵も残されています。

こちらが岩瀬散策の目玉・
廻船問屋森家(かいせんどんや もりけ)
森家はかつて北前船の船主や肥料を売買して栄え、明治期には金融業も
営んだ商家であり、屋号を
四十物屋(あいものや)、
当主は代々
仙右衛門(せんうえもん)を名乗りました。
現在の建物は明治6(1873)年に起こった「岩瀬大火」の後、
明治11(1878)年の
再建大正時代に富山港が整備されるまでは、家の裏手は
神通川(じんづうがわ)に面しており、船着き場が設けられていました。
その船着き場まで玄関から続く、
通り庭と呼ばれる
土間廊下が大きな特徴。
その文化的価値から、国の
重要文化財に指定されています。

入り口で観覧料¥100を支払い中へ入ると、とても開放的な空間が!
ここは
オイと呼ばれ、囲炉裏を囲んでの家族の食事の席として、
また客人をもてなす応接間、商談の席としての機能を持った場所。
一家団欒の場としてだけでなく、この家の
顔とも言える「オイ」では、
天窓から光差し込む高く広々とした吹き抜けや、計算と意図を持って
作り上げられた畳の配置にも注目!

こちらが森家に繁栄と富をもたらした、
北前船(きたまえぶね)
江戸時代から明治中期に掛けて、北陸地方を拠点に
大阪(当時は大坂と表記)や瀬戸内地方と蝦夷地(今の北海道)、
並びに航路上の町を結んで物産輸送や売買に当たり、
日本海を行き来した、
貿易船往路は畿内(関西)や瀬戸内の木綿、酒、塩、雑貨、
また北陸や奥州(東北地方)からは米を積み込んで蝦夷地へ運び、
復路ではニシン、昆布といった海産物を日本海側の町や
瀬戸内、畿内、遠く江戸にまで運んでいました。
その活動は商いに止まらず、
文化や情報をも伝達する
役割も担っていたそうな。
その恩恵に与かった森家、江戸時代の
長者番付で上位に入るほどの
隆盛ぶりだったとか。

商いの成功を願う上で、大切とされたのが
ゲン担ぎ母屋のあちこちにこだわりの仕掛けが施されている森家ですが、
坪庭に面した
マエザシキにも、その一端が。
写真では分かりづらいですが、天井の文様が、身をくねらせる
龍に見えるのだとか。
しかも一匹だけでなく、いくつもの龍の形の模様が浮き出ています。
商いの上昇と掛けた、
登り龍
坪庭から眺めると、延々と続く
座敷「マエザシキ」、「ブツマ」、「ザシキ」、3つの「ヒカエノマ」、さらには
中庭に面して設けられた「サヤノマ」。
森家の権勢を示すかのような、豪奢な造り。


座敷の一角には、当時の物と思しき遊具や朱塗りの家財道具が
残されていました。

ここ森家は、意外な家名と繋がりが有ります。
それが岡山県倉敷市を拠点に隆盛を誇り、
一財閥を形成していた
大原家(おおはらけ)
昭和24(1949)年、大原財閥2代・
大原総一郎(おおはら そういちろう)は、
富山に
倉敷レイヨン(現・クラレ)の工場建設を企図。
そのための宿舎を探していた折に森家の屋敷が手放されるのを知り、
その佇まいに魅了されて
お買い上げ晏山寮(あんざんりょう)と名付け、その後三十年あまり、
一切手を加えることなく大切に使い続けました。
後年富山工場の
閉鎖とともに
この屋敷も大原家の手を離れることとなりましたが、
今日こうして良好な保存状態と明治の佇まいを残しているのも、
総一郎や大原家の人々の手入れと敬愛あってのものでしょう。
その繋がりを示すように、座敷には倉敷紡績(現クラボウ)・倉敷絹織(現クラレ)、
中国合同銀行(現中国銀行)等の長を務め、
合理的かつ先進的な事業展開と地域への貢献で多大な功績を残した
実業家・
大原孫三郎(おおはら まごさぶろう、
総一郎の父)直筆の書が飾られています。

座敷には大原家と関わりの有る品が、もう一点。
大原総一郎が依頼し、世界に名の知られた版画家・
棟方志功(むなかた しこう)が手掛けた4点の版画が
掲げられています。
総一郎が愛読するドイツの哲学者・
フリードリヒ・ニーチェの
詩、
ツァラトゥストラはかく語りぬに題を取り、
総一郎と志功が好んだ
ベートーヴェンの第5番「運命」をも
イメージとして盛り込んだ作品は、それぞれ「黎明」、「真昼」、「夕宵」、
「深夜(運命)」と名付けられ、志功自身の手によって納められました。

「サヤノマ」から中庭と母屋の奥、そして土蔵を望む。

森家の特徴的な設備の一つ、
トオリニワ敷地を貫くように伸びる細長い
土間廊下であり、
往時は玄関から裏手の
神通川に面する船着き場まで
繋がっていました。

中庭に面して現存する
道具蔵重厚な造りと扉に施された細やかな彫刻が、ひそやかながらも
森家の権勢と財力を誇示しています。
近未来の日本の都市設計、それに対する回答たりうる次世代交通機関に
揺られ、古き町並みを訪ねた一日。
二つの要素が混ざり合い、そのいずれもを尊重し、
保存・発展させて行く。
ここ富山の臨港地区は、あるいは日本の地方都市が目指すべき
姿の、縮図なのかも知れません。
次回は岩瀬探訪の続き。
一風変わった形の「どら焼き」を売りとするお菓子屋さんと
圧巻の品揃えを誇る酒屋さん、
海と町、さらには山を見通す展望台を散策!
そして夜にはおいしい海の幸を楽しみます。
それでは!