悠久なる天地を知る
- 2018/12/12
- 18:30
松江1日目は、神話と信仰、伝統を感じる神社めぐりからスタートしましたが、
今回は古代の松江地域を知ることの出来る歴史公園を
歩きます。
松江市南部、田園地帯と丘陵地が広がる大庭地区と竹矢地区
意宇平野(おうへいや)とも呼ばれる開けた土地では
古代より集落が発達し、奈良時代以後には出雲国府が置かれて
地域の政治の中心となった、歴史深き場所。
その丘陵上を古墳や史跡も内包した上で歴史公園としたのが・・・

島根県立 八雲立つ風土記の丘(やくもたつふどきのおか)
周辺地域や公園内からの出土品の展示や発展の歴史を解説した展示学習館を
メインとして、山代二子塚古墳のガイダンスや周辺に広がる古墳・遺跡の
見学拠点となるガイダンス山代の郷(やましろのさと)、
出雲の国風土記(風土記=奈良時代に
大和朝廷が支配下の国々に提出させた地誌。土地の様子や名産品等の
詳述を求めた)に登場する植物を収集した風土記植物園といった
施設が設けられています。

到着早々見つけたのは歴史の教科書でお馴染み、
庶民の住宅として縄文時代~奈良時代頃まで活用された
竪穴式住居を復元したもの。
この竪穴式住居、「風土記の丘」域内でもその痕跡が発見されており、
推定では地面から5~60cmの穴を掘り、その上に4本柱でささえた
茅葺き屋根を設けて、住居内北側の壁際に炉が設えてあったそう。

竪穴式住居内部。
じゃがみながら入って見ると、思いの他狭い
明かりも出入り口からのみ採り入れられており、なかなかの
閉塞感。
こういった空間で家族みんなが起居し、日々の生活を送っていたかと思うと、
古代の人も大変?
なお復元住居内にはバケツが置かれていたり、壁に注意書きが
貼ってあったりしましたが、ちょっと萎える

竪穴式住居の近くには、奈良時代の住居である
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)も。
その構造は地面に穴を掘り、そこへ柱を埋め立てて屋根を載せる、
というもの。
こちらの掘立柱建物は、東出雲町(現在は合併により松江市域)より
発掘された住居跡を基に推定復元されたもの。
島根県内ではこの掘立柱建物は弥生時代頃から増え始め、
奈良時代には一般的な住居となって、竪穴式住居を駆逐しました。
折角なので中も見たい!・・・ところでしたが、残念ながら内部は非公開

付近には、古墳時代に権力者の墓地として、またその権威と
財力の顕れとして造られた古墳も残されています。
こちらの岡田山2号墳は、高さ5.4m、直径44m。
円形に構築された円墳であり、2段の墳丘と
表面には葺石が施されていました。
古い文献には埴輪の存在も明記されているそうですが、
事実関係は不明。
内部は未発掘だそうですが、出雲地方では数少ない
大型円墳であること、また周囲一帯を見渡すことの出来る立地から、
重要な墳墓として位置付けられています。

岡田山2号墳の奥、一際目立つ位置に残る岡田山1号墳
全長24m、2段の墳丘を持ち、その表面に葺石を施した前方後方墳
古墳の形式はいくつかに分類されますが、前方後方墳は二つの
方墳(方形に構築された古墳)を繋ぎ合わせた
形となっているのが特徴。
6世紀後半に造られたと見られる墳丘は大正4(1915)年に発見され、
昭和40(1965)年には国の史跡に指定されました。
手前に見えているのが前方部分。

石室入口。
後方部分に設けられた被葬者の埋葬空間で、全長5.6mの横穴式
内部からは家形の石棺と刀や壷、鏡などの副葬品が
出土しています。
また後方部分上部には、埴輪や壷が並べられていたそうな。

石室の横には、入口を塞いでいた閉塞石(へいそくいし)が残されていました。

後方部分。丹念に石が葺かれ、2段に積み上げられた様は、まるでピラミッドのよう。
(規模は違いますが)

掘立柱建物の近くに無造作に置かれていた石棺。
野ざらしにされていた事から復元品かとも思いましたが、まさかの本物
松江市東津田町の東光台古墳より発見された箱式石棺
読んで字のごとく板状の石材を箱形に組み合わせた棺で、古墳時代の
石棺としては一般的な形式。
内部には朱(水銀を原料とした赤色顔料。体に悪そう)が施された
人骨が残っていたとか。
身体に朱を塗布したのは、色あせにくい塗料であるために
永遠の魂としての存在を祈ったため、と考えられています。
(これを見た同行者は、「狭そう」と感想をこぼしておりました)

一通り歩き回った(かな?)ところで、展示学習館へ。
出雲各地の遺跡からの出土品や松江地域の発展の歴史、また
この付近に置かれていた出雲国府(国ごとに置かれた地方行政府)についての
展示が行われている施設。
日常的に見られる常設展に加え、期間を決めての企画展も
行われており、我々が訪れた際には出雲国府やその周辺にスポットを当てた
企画展が、知られざる中世都市 出雲府中と題して
開催されておりました。(現在は終了)
ここからは、館内で目を引いた展示を紹介して参ります。

こちらは先ほど見て回った「岡田山1号墳」からの出土品
大正時代と昭和45(1970)年の2度にわたって行われた発掘調査により、
刀剣や鉄鏃(てつぞく、鉄製のやじり)といった武器の他、装身具や馬具といった
副葬品が発見されました。

中でも注目に値するのがこちらの円頭太刀

出土品の修復作業が進められていた昭和58(1983)年、X線検査に
掛けられていた刀身から、銀象嵌(刀身に溝を彫り、そこへ銀を
流し込むことによって文字や絵を表現する技法)を施した銘文が発見されました。
大多数の文字は判読が叶わなかったものの、確認出来たのが
額田部臣(ぬかたべのおみ)という一文。
額田部臣とは、額田部と言う部民(べみん。居住地や職業ごとに分けられ、
大和朝廷に奉仕した人々)の集団をまとめたリーダーの事。
古墳に埋葬された人物は、大和の大王(おおきみ)に支え、部民を
治めることを赦されていたのでしょう。
この円頭太刀は、それらの実在を示す最古の資料と言われています。
大正期に発掘された他の出土品とともに重要文化財指定を
受けています。

こちらが出雲国(島根県)の風土を記した出雲国風土記の写本。
天平5(733)年、神宅臣金太理(みやけのおみ かなたり)と
出雲臣広嶋(いずものおみ ひろしま)によって
編纂されました。(古代人の名前と読みって、ムズカシイ・・・)
当時日本に存在していた60余りの国から大和朝廷に提出された風土記ですが、
現存しているのはわずか5つ
そのうち完全な形で残っているのは出雲国のみとなっており、
国内の神社の数や郡家(当時の郡ごとに置かれた役所)から各郷までの距離、
郷の数といった統計が記載されています。
また朝廷によって編纂された「古事記」や「日本書紀」には見られない
神話も残されているそう。

出雲国府跡より出土した柱の付け根(柱根)
かつて松江市大草町周辺、意宇平野(おうへいや)と呼ばれる地域には
出雲国における地方行政の中枢である国府(こくふ)が
置かれ、朝廷から国府の責任者である地方官・国司(こくし)が
派遣されていました。
時代が下り律令制の衰退や荘園制(貴族や寺社が所有する私有地)の拡大、
対外貿易の発展などから役所としての「国府」から
町としての府中へと変化して行きました。
やがて国府の存在も過去の物となりましたが、研究の結果その跡地が
確定され、発掘調査も行われています。

律令制下で欠かせない要素の一つが、国ごとに置かれた
公的寺院・国分寺(こくぶんじ)
天平13(741)年に聖武天皇(しょうむてんのう、奈良・東大寺の大仏を
築かせた人物)の詔(みことのり、天皇の勅命)によって
建てられた寺院は、南北182.69m、東に111m~112.6m。
(西側の規模は不明)
南門に始まり中門、講堂、金堂、僧坊といった施設に加え
七重塔まで設けられた、その名に恥じない大寺院でした。
昭和30(1955)年~昭和46(1971)年に掛けて行われた発掘調査によって
建物の位置や寸法が判明した他、屋根瓦や土器等が出土しています。
ここに展示されているのが、実物の軒丸瓦(のきまるかわら)と
軒平瓦(のきひらかわら)

可愛らしいこちらの埴輪は見返りの鹿埴輪と呼ばれています。
その姿は狩人の気配を感じて振り返ったものとも捉えられていますが、
緩んだ口元は笑っているようにも見えます。
目元には先ほども登場した朱が塗られ、角は取り外し可能であるとか。
松江市矢田町の平所遺跡(ひらどころいせき)より出土したこの埴輪、
同様の造りの物は国内に3例しか存在しないそう。
国指定重要文化財。

周囲には他にも数点の埴輪が展示されています。
そのどれもが貴重な文化財。

展示品の中には奈良時代に朝廷により発行された銅銭、
和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう、とも読む)も!

展示品を見て回った後は、屋上に設けられた展望台へ!
出入り口から出て左手、建物より張り出した階段から登ります。
そこからは・・・

先ほど周った岡田山古墳群や復元住居といった公園内の施設・遺跡や・・・

意宇平野を見渡す事が出来ます!
古来より人々の心に寄り添い続けた神社、そして出雲の中心として栄えた
遺跡群を巡り、出雲、そして松江地域の信仰と歴史を学んだ一日。
人の営みは、ここにも厚く積み上げられているのですね。
次回は松江の街に趣をもたらす宍道湖の夕景と、
2泊を過ごした宿をご紹介!
リーズナブルながらもサービス豊富な施設を楽しみます。
それでは!

出雲の空を切り裂き、C-2(航空自衛隊の輸送機)が飛ぶ。
今回は古代の松江地域を知ることの出来る歴史公園を
歩きます。
松江市南部、田園地帯と丘陵地が広がる大庭地区と竹矢地区
意宇平野(おうへいや)とも呼ばれる開けた土地では
古代より集落が発達し、奈良時代以後には出雲国府が置かれて
地域の政治の中心となった、歴史深き場所。
その丘陵上を古墳や史跡も内包した上で歴史公園としたのが・・・

島根県立 八雲立つ風土記の丘(やくもたつふどきのおか)
周辺地域や公園内からの出土品の展示や発展の歴史を解説した展示学習館を
メインとして、山代二子塚古墳のガイダンスや周辺に広がる古墳・遺跡の
見学拠点となるガイダンス山代の郷(やましろのさと)、
出雲の国風土記(風土記=奈良時代に
大和朝廷が支配下の国々に提出させた地誌。土地の様子や名産品等の
詳述を求めた)に登場する植物を収集した風土記植物園といった
施設が設けられています。

到着早々見つけたのは歴史の教科書でお馴染み、
庶民の住宅として縄文時代~奈良時代頃まで活用された
竪穴式住居を復元したもの。
この竪穴式住居、「風土記の丘」域内でもその痕跡が発見されており、
推定では地面から5~60cmの穴を掘り、その上に4本柱でささえた
茅葺き屋根を設けて、住居内北側の壁際に炉が設えてあったそう。

竪穴式住居内部。
じゃがみながら入って見ると、思いの他狭い
明かりも出入り口からのみ採り入れられており、なかなかの
閉塞感。
こういった空間で家族みんなが起居し、日々の生活を送っていたかと思うと、
古代の人も大変?
なお復元住居内にはバケツが置かれていたり、壁に注意書きが
貼ってあったりしましたが、ちょっと萎える

竪穴式住居の近くには、奈良時代の住居である
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)も。
その構造は地面に穴を掘り、そこへ柱を埋め立てて屋根を載せる、
というもの。
こちらの掘立柱建物は、東出雲町(現在は合併により松江市域)より
発掘された住居跡を基に推定復元されたもの。
島根県内ではこの掘立柱建物は弥生時代頃から増え始め、
奈良時代には一般的な住居となって、竪穴式住居を駆逐しました。
折角なので中も見たい!・・・ところでしたが、残念ながら内部は非公開

付近には、古墳時代に権力者の墓地として、またその権威と
財力の顕れとして造られた古墳も残されています。
こちらの岡田山2号墳は、高さ5.4m、直径44m。
円形に構築された円墳であり、2段の墳丘と
表面には葺石が施されていました。
古い文献には埴輪の存在も明記されているそうですが、
事実関係は不明。
内部は未発掘だそうですが、出雲地方では数少ない
大型円墳であること、また周囲一帯を見渡すことの出来る立地から、
重要な墳墓として位置付けられています。

岡田山2号墳の奥、一際目立つ位置に残る岡田山1号墳
全長24m、2段の墳丘を持ち、その表面に葺石を施した前方後方墳
古墳の形式はいくつかに分類されますが、前方後方墳は二つの
方墳(方形に構築された古墳)を繋ぎ合わせた
形となっているのが特徴。
6世紀後半に造られたと見られる墳丘は大正4(1915)年に発見され、
昭和40(1965)年には国の史跡に指定されました。
手前に見えているのが前方部分。

石室入口。
後方部分に設けられた被葬者の埋葬空間で、全長5.6mの横穴式
内部からは家形の石棺と刀や壷、鏡などの副葬品が
出土しています。
また後方部分上部には、埴輪や壷が並べられていたそうな。

石室の横には、入口を塞いでいた閉塞石(へいそくいし)が残されていました。

後方部分。丹念に石が葺かれ、2段に積み上げられた様は、まるでピラミッドのよう。
(規模は違いますが)

掘立柱建物の近くに無造作に置かれていた石棺。
野ざらしにされていた事から復元品かとも思いましたが、まさかの本物
松江市東津田町の東光台古墳より発見された箱式石棺
読んで字のごとく板状の石材を箱形に組み合わせた棺で、古墳時代の
石棺としては一般的な形式。
内部には朱(水銀を原料とした赤色顔料。体に悪そう)が施された
人骨が残っていたとか。
身体に朱を塗布したのは、色あせにくい塗料であるために
永遠の魂としての存在を祈ったため、と考えられています。
(これを見た同行者は、「狭そう」と感想をこぼしておりました)

一通り歩き回った(かな?)ところで、展示学習館へ。
出雲各地の遺跡からの出土品や松江地域の発展の歴史、また
この付近に置かれていた出雲国府(国ごとに置かれた地方行政府)についての
展示が行われている施設。
日常的に見られる常設展に加え、期間を決めての企画展も
行われており、我々が訪れた際には出雲国府やその周辺にスポットを当てた
企画展が、知られざる中世都市 出雲府中と題して
開催されておりました。(現在は終了)
ここからは、館内で目を引いた展示を紹介して参ります。

こちらは先ほど見て回った「岡田山1号墳」からの出土品
大正時代と昭和45(1970)年の2度にわたって行われた発掘調査により、
刀剣や鉄鏃(てつぞく、鉄製のやじり)といった武器の他、装身具や馬具といった
副葬品が発見されました。

中でも注目に値するのがこちらの円頭太刀

出土品の修復作業が進められていた昭和58(1983)年、X線検査に
掛けられていた刀身から、銀象嵌(刀身に溝を彫り、そこへ銀を
流し込むことによって文字や絵を表現する技法)を施した銘文が発見されました。
大多数の文字は判読が叶わなかったものの、確認出来たのが
額田部臣(ぬかたべのおみ)という一文。
額田部臣とは、額田部と言う部民(べみん。居住地や職業ごとに分けられ、
大和朝廷に奉仕した人々)の集団をまとめたリーダーの事。
古墳に埋葬された人物は、大和の大王(おおきみ)に支え、部民を
治めることを赦されていたのでしょう。
この円頭太刀は、それらの実在を示す最古の資料と言われています。
大正期に発掘された他の出土品とともに重要文化財指定を
受けています。

こちらが出雲国(島根県)の風土を記した出雲国風土記の写本。
天平5(733)年、神宅臣金太理(みやけのおみ かなたり)と
出雲臣広嶋(いずものおみ ひろしま)によって
編纂されました。(古代人の名前と読みって、ムズカシイ・・・)
当時日本に存在していた60余りの国から大和朝廷に提出された風土記ですが、
現存しているのはわずか5つ
そのうち完全な形で残っているのは出雲国のみとなっており、
国内の神社の数や郡家(当時の郡ごとに置かれた役所)から各郷までの距離、
郷の数といった統計が記載されています。
また朝廷によって編纂された「古事記」や「日本書紀」には見られない
神話も残されているそう。

出雲国府跡より出土した柱の付け根(柱根)
かつて松江市大草町周辺、意宇平野(おうへいや)と呼ばれる地域には
出雲国における地方行政の中枢である国府(こくふ)が
置かれ、朝廷から国府の責任者である地方官・国司(こくし)が
派遣されていました。
時代が下り律令制の衰退や荘園制(貴族や寺社が所有する私有地)の拡大、
対外貿易の発展などから役所としての「国府」から
町としての府中へと変化して行きました。
やがて国府の存在も過去の物となりましたが、研究の結果その跡地が
確定され、発掘調査も行われています。

律令制下で欠かせない要素の一つが、国ごとに置かれた
公的寺院・国分寺(こくぶんじ)
天平13(741)年に聖武天皇(しょうむてんのう、奈良・東大寺の大仏を
築かせた人物)の詔(みことのり、天皇の勅命)によって
建てられた寺院は、南北182.69m、東に111m~112.6m。
(西側の規模は不明)
南門に始まり中門、講堂、金堂、僧坊といった施設に加え
七重塔まで設けられた、その名に恥じない大寺院でした。
昭和30(1955)年~昭和46(1971)年に掛けて行われた発掘調査によって
建物の位置や寸法が判明した他、屋根瓦や土器等が出土しています。
ここに展示されているのが、実物の軒丸瓦(のきまるかわら)と
軒平瓦(のきひらかわら)

可愛らしいこちらの埴輪は見返りの鹿埴輪と呼ばれています。
その姿は狩人の気配を感じて振り返ったものとも捉えられていますが、
緩んだ口元は笑っているようにも見えます。
目元には先ほども登場した朱が塗られ、角は取り外し可能であるとか。
松江市矢田町の平所遺跡(ひらどころいせき)より出土したこの埴輪、
同様の造りの物は国内に3例しか存在しないそう。
国指定重要文化財。

周囲には他にも数点の埴輪が展示されています。
そのどれもが貴重な文化財。

展示品の中には奈良時代に朝廷により発行された銅銭、
和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう、とも読む)も!

展示品を見て回った後は、屋上に設けられた展望台へ!
出入り口から出て左手、建物より張り出した階段から登ります。
そこからは・・・

先ほど周った岡田山古墳群や復元住居といった公園内の施設・遺跡や・・・

意宇平野を見渡す事が出来ます!
古来より人々の心に寄り添い続けた神社、そして出雲の中心として栄えた
遺跡群を巡り、出雲、そして松江地域の信仰と歴史を学んだ一日。
人の営みは、ここにも厚く積み上げられているのですね。
次回は松江の街に趣をもたらす宍道湖の夕景と、
2泊を過ごした宿をご紹介!
リーズナブルながらもサービス豊富な施設を楽しみます。
それでは!

出雲の空を切り裂き、C-2(航空自衛隊の輸送機)が飛ぶ。