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「日本人」・八雲の懐に飛び込む

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小泉八雲(こいずみ やくも)
本名パトリック・ラフカディオ・ハーン
1850年、ギリシャ・レフカダ島にてアイルランド出身の父、
ギリシャ人の母の間で生を受けました。

ハーン2歳の時、一家はアイルランドへと移住。
その後まもなくハーンは祖母の妹、大叔母に当たる資産家・
サラ・ブレナンの下に預けられ、
養育を受けることとなります。

ハーン4歳の時、弟・ジェイムズを懐妊した母ローザが
ギリシャへ帰国。
後に両親が離婚したこともあり、
彼は生涯産みの母親と再会することは有りませんでした。

13歳の時、イギリスのカトリック系の学校に入学。
厳格なキリスト教に基づいた教育の中で反感と
疑念を抱きます。
この時期の体験が、後年多様な文化への理解と
共感へと繋がります。

16歳の時、友人との遊戯中の事故により左目を失明
以後彼を写した写真では、常に顔の右側をカメラに向けた
もののみが残されています。

17歳の時、遠縁の親戚に出資していた大叔母サラ・ブレナンが
その親戚の投機の失敗により破産
これによりハーンは学校の中退を余儀無くされ、
19歳でアメリカへと渡ります。

苦難の生活の中で文才を磨いたハーン。
やがてその才が認められ、ジャーナリストとして筆を
揮うこととなります。
初めはシンシナティ、その後ニューオーリンズ、
カリブ海・マルティニーク島と移り住み、
文化の多様性に魅力を感じるように。

明治23(1840)年、英訳された古事記を通して
日本文化に興味を抱くようになっていたハーンは、
ついに横浜にて日本の土を踏むこととなりました。
当初は精力的に取材活動に勤しんでいましたが、
6月には当時所属していた会社への不満から、絶縁
アメリカで築いた伝手を頼って、松江に在った
島根県立尋常中学校(じんじょうちゅうがっこう、現在の高校相当)の
英語教師として松江の地に赴きました。
ここ松江では合計1年3ヶ月ほどの月日を送っています。

その後は教師として熊本で、ジャーナリストとして神戸で、そして大学講師として
東京で暮らしたハーンは、54歳で死去するまでの
生涯を、日本の地で過ごしました。
(小泉八雲記念館のパンフレット、並びに公式サイトより)

そんな彼が日々の暮らしの中で出会ったのが、松江にて
使用人として仕えていた小泉セツ
明治29(1896)年には正式に結婚し、日本に帰化
小泉姓を名乗り、八雲と名を改めました。
彼は妻・セツとの間に3男1女をもうけています。(記念館で
家族の写真を見ましたが、美男美女揃い!)

彼は日本の文化に触れ、さまざまな風景を見て、
各地の伝承を聞く内に説話や怪談といった類に興味を持ち、
「怪談」「耳なし芳一」「雪女」といった物語や、
彼自身が目にした明治日本の風景をまとめた
「知られぬ日本の面影」といった随筆集、
文芸批評や民俗学といった多様な作品を後世に残しています。

さて、めちゃくちゃ前置きが長くなってしまいましたが、
今回は「日本人の心を持った外国人」、小泉八雲の行跡を
辿ってみたいと思います。
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松江城天守から降りて、江戸時代の武家屋敷街が残る
「塩見縄手」へと向かっていた私。
そんな私を招くかのように現れたのが、
城山稲荷神社(じょうざんいなりじんじゃ)

祭神は言うまでも無く全国各地に社を持ち、
「お稲荷さま」として広く親しまれる宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
これに「八幡神」として武家より篤い信仰を受けた
誉田別尊(ホムタワケノミコト、応神天皇)が
合祀されています。

堀尾吉晴公が亀田山に松江城を築きし折、
この地に在った若宮八幡宮を祀ったのが始まり。
城主が松平家となり、その祖となる松平直政公が
松江に入城すると、藩内の平穏を祈願して稲荷神社を創祀。
若宮八幡宮と合祀して城の鎮守の社と定めました。

以来歴代藩主よりの崇敬篤く、祭祀や社殿の造営・維持等は藩費によって
賄われた他、松平直政初陣の甲冑
6代宗衍(むねのぶ)直筆の額
7代治郷(はるさと、不昧公)直筆の額等の
宝物が収められています。
(以上境内由緒書より)

また偶然かあるいは必然か、今回の主役である小泉八雲とも縁深く
しばしば参拝しては境内に居並ぶ狐像をおもしろがり、
著書に社伝を記した他、入手した神札をかの大英博物館へと
送付したりしていたそうな。
10年に1度催行される神事、ホーランエンヤが著名。
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「お招き」に甘え、境内へ。
まず目を引いたのが拝殿前に佇む随神門(ずいしんもん)
門前にちょこんと座る石狐は、八雲の没後百年に当たる
平成16(2004)年に、彼のお気に入りであった初代と置き換える形で
復元された2代目。
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城山稲荷神社社殿。
神仏習合(神道の神々と仏教の仏を同一視する思想)が健在であった
時代の創建故か、神社と言うより仏堂のような造りが印象的。
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松江藩主・松平家は、徳川家に連なる血筋。
軒下に巡らされた幕には、徳川家やその親族での使用が赦された
葵の紋が見られます。

その両脇、「若宮八幡」「稲荷神社」と大書された筆額は、
6代藩主・宗衍(むねのぶ)公と、
不昧公(ふまいこう)として今も松江の人々に慕われる
7代藩主・治郷(はるさと)公によるもの。
(どちらがそれぞれの作かは判じかねますが)
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社殿の裏手からぐるっと一周。
まず驚かされるのが、大小さまざま、ずらりと居並ぶ狐像
その数なんと一千体

八雲の時代にはさらに多い数千体もの像が
置かれていたというのだから、その信仰の篤さたるや
想像を絶する
彼が見た光景もまた、神秘的かつ壮観であったことでしょう。
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こちらが八雲お気に入りの石狐
今では随神門の守護という大役を「2代目」に譲り、
境内裏手でひっそりと保管・展示されています。
八雲は数多の狐像の中でも特にこの二体を褒め、
気に入っていたという。
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お堀に架かる橋を渡り、城外へ。
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次の散策へ移る前に、お昼ごはん。
立ち寄ったのは「塩見縄手」の向かいに建つ松江ごころ

内部は土産物店となっており、地酒の試飲も可能な販売カウンター、
小物や食品といった山陰みやげを販売するお店、
日本海の向こう、隠岐島(おきのしま)の大地が育んだ
特産牛・隠岐牛(おきぎゅう)の料理の料理の他
各種スイーツやドリンクが味わえるカフェ、
つまみ細工の販売や製作体験が出来るショップと、充実の内容。
お土産探しには、ピッタリ?
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店内の飲食スペースでは松江城の水堀を眺めながらの
飲み食いが可能。
時折窓の外を堀川遊覧船が通り過ぎ、
景色と合わせた風情が楽しめます。
ここで頂くのは・・・
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隠岐牛丼!
日本海の浮き島で育った牛の肉は、
食感やわらかく、余分な脂分の無いあっさりとした味わい。
これに同じくあっさり目、薄味のタレが絡みつく。
あっという間に完食!
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折角(?)なので、お酒の販売コーナーで試飲させて頂くことに。
こちらでは松江市内・石橋町の造り酒屋・李白酒造(りはくしゅぞう)の
各種商品をラインナップ。
気になる品々を飲み比べすることが出来、お気に入りの一本が選べます!
実際に呑んでみた印象としては、全体的に香り柔らかく、さっぱりと
クセの無い味わいに感じました。
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ついでに土産物も買い込み、道を渡って反対側の塩見縄手へ!
かつて松江藩の中老格に当たる武士たちが
住まいとした屋敷群。

名前の由来は諸説有るそうですが、主なものは
松江藩にて中老(家老の下に位置する役職)を勤めた塩見小兵衛(しおみ こへえ)の
屋敷が在ったため、と言われています。
お堀に面して並ぶ松並木と紡ぐ情景が見事。
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道の向こうまで続く長屋門や土塀。
江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ります。
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まずはこちら、小泉八雲旧居へ。
ここは旧士族の根岸家が所有していた屋敷で、
家長が他所への赴任で留守にしていた屋敷を八雲が借り受け、
後に妻となる使用人・セツと5ヶ月ほどの時をここで過ごしました。

八雲退去後も屋敷は根岸家の手元に有りましたが、
彼と師弟関係に在った根岸磐井(ねぎし いわい、
当時の家主の長男)やその子孫たちの手によって大切に守られ、
八雲在居の頃を止める記念館として今日に伝えられています。
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前庭を横切り、母屋へ。お邪魔しま~す
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前庭には俳人・高浜虚子(たかはま きょし)が
ここを訪れた際に詠んだ句が残されています。
「くわれもす 八雲旧居の 秋の蚊に」
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中へ入ると、奥まで続くお座敷が。
八雲は手前を居間、奥側を書斎として使っていたそうな。
書斎の右手には、セツ夫人が過ごした部屋も残されています。
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この屋敷の特色は、母屋の周囲をぐるりと巡るように設けられた庭。
八雲は畳敷きの部屋から眺める庭の情景を気に入っていたそうで、
公開するに当たって、彼が愛した庭を楽しめるように
座敷やセツ夫人の部屋が公開対象とされています。

縁側に佇んで手入れの行き届いた庭を眺めていると、和服を着込んで寛ぐ
八雲の姿が見えるよう。
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座敷には床の間の掛け軸や額、屏風絵等の美術品が、当時のままに
残されています。
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八雲が文筆活動に用いた書斎
手前に置かれた背の高い机は、彼がここで暮らしていた折に
作られた特注品
少年期に片目を失明し、右目の視力も優れなかった八雲は、
この机に顔をこすり付けるようにして筆記や読書を
行ったという。

机上には東京住まいの折、セツ夫人を始めとする家族を
呼ぶ際に用いたほら貝が置かれています。
これはセツ夫人が江ノ島にて買い求めた品だとか。
しかし何かに付け吹き鳴らされるほら貝・・・
近所迷惑にならなかったのだろうか。

なお彼が遺愛したこれらの品々は、隣接する小泉八雲記念館(後述)に
実物が収蔵・展示されています。
ここに置かれているのは、言わばレプリカ
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書斎より中庭を眺める。
八雲もこの景色を楽しみながら、執筆活動に勤しんだのであろうか。
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お次は旧居のお隣、小泉八雲記念館へ。
開館は昭和9(1934)年。
きっかけとなったのは、先ほども登場した
根岸磐井(当時根岸家当主となっていた)を始めとする
教え子たちによって組織された八雲会の活動。

その活動の中で記念館建設の機運が高まり、松江出身者の尽力や
募金運動の甲斐あって、古代ギリシャ建築を思わせる初代記念館が
完成しました。

それから82年、八雲が「日本人」として帰化して120年となる
平成28(2016)年に施設の拡張・建て替えを経て
リニューアルオープン
開放的なホールやミュージアムショップ、ライブラリーを併設した
本格派施設として再生しました。
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記念館入り口の右手には、八雲が英語教師として赴任した
島根県尋常中学校の礎石が残されています。
当時は今の島根県警察本部付近に校地が
設けられており、明治20年(1887)年築の木造校舎が
建っていました。
(ハーンが赴任したのが明治23年なので、当時はまだ
新築同然の趣だったことでしょう)

校舎は島根県師範学校、商業高校として使用された後、
島根県教育会館として保存されていましたが、
昭和51(1976)年、老朽化のために惜しまれつつ解体されました。
跡地ともどもその頃の面影は残されてはいませんが、
ここへ移された校舎の礎石が、昔日の証として
立っています。

さて、館内の様子ですが、内部は撮影禁止のため文章でのご紹介。
(なんだか今回はいつも以上に書きまくっている気がします)
入ってすぐのエントランスで、まずは八雲の生涯を大まかに
解説した映像を閲覧。
ここはミュージアムショップも併設されており、
八雲グッズや著書の数々をその場で購入できます。

一番手前の展示室1では
「その眼が見たもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」という
コンセプトの下、その生涯を紹介。
誕生から幼少期、波乱に満ちた青年期からアメリカでの暮らしと
交流、日本での足跡が遺愛の品々とともに記されています。

続く展示室2では、
八雲の事績や思考の特色を複数の切り口から解説。
彼の著書に出てくる文章が床に投影される
照明システムが美しい展示スペースには、
著書や遺品が展示されている他、
音楽付きで作品の朗読が音声として流される
再話コーナーが設けられ、
日本の物語や彼の世界観に迫ることが出来ます。

その隣、展示室3は企画展用スペース。
ここでは今年6月27日から来年(2019年)6月9日まで
八雲が愛した日本の美と題し、
八雲と親交を持ち、明治期に彫刻、日本画、国学、書道、
金工等多彩な才を発揮した芸術家・荒川亀斎(あらかわ きさい)の
作品を始め、八雲と親交のあった芸術家や
彼らに関係する品々を展示。

八雲が日本人の持つ技巧と発想に驚かされる
きっかけとなった、気楽坊人形(きらくぼうにんぎょう)は
必見。

人種や国籍に捉われない広い視野を持ち、日本文化に
深く帰依した人物・小泉八雲。
あるいは彼こそが、真に「日本に魅せられた外国人」の
走りなのかもしれません。

次回は引き続き縄手通り散策から。
江戸時代の武家の暮らしぶりを止めるその名も「武家屋敷」を
廻り、夜はご馳走とお酒を求めて街へと繰り出します。
それでは!
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夕焼け照らすお堀と遊覧船。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。