古代ロマンに浸る
- 2018/12/30
- 21:21
いよいよ2018年も、終わりに近づいて参りました。
年末のごあいさつは明日に取っておくとして、今日も
徒然なるままに書き綴って行こうと存じます。
さて、県境を越えて宮崎県へと入った親子旅。
まず向かったのは同県中部の町・西都市(さいとし)
宮崎市にほど近いこの地には、全国有数の規模を誇る
ある遺跡が眠っています。その場所とは・・・

こちら!西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)
今からおよそ1700~1300年前、紀元3世紀末~7世紀末に相当する
約400年間、日本各地に古墳と呼ばれる巨大な墳丘墓が
築造されました。
この古墳に代表される、一大権力の形成とその存在が示された時代を
古墳時代と称するのは、皆さんご存知の通りかと思います。

わけてもここ西都原古墳群は、東西2.6km、南北4.2kmの範囲に
319基もの古墳を有する、
全国有数規模の古墳群。
ご覧の様に、周囲を見回すだけでも、あちこちに大小さまざまな
古墳が点在しております。
またその形式も、円墳、方墳、前方後円墳、地下式横穴古墳・・・等々、
大きさや形も千差万別。
その全てを一日で見て回るのは、きわめて厳しいでしょう
(古墳群の中央付近に位置する「ガイダンスセンター このはな館」にて
レンタサイクルを借りられるので、不可能とは言いませんが)
という訳で、到着が夕刻近くということも有り、
行く場所を絞ることに。
「このはな館」から車で移動し、少しの場所に在る・・・

宮崎県立 西都原考古博物館
開館は平成16(2004)年4月。
常に新しい情報を開示する常新展示と
ユニバーサルデザインの徹底をコンセプトに、
南九州各地から出土した古代の品々を時代ごと、
文化や人々の暮らしの発達とともに展示した博物館。
見ごたえたっぷりの展示品や丁寧な解説がありがたい施設ですが、
入館料はなんと無料
県営とはいえこの充実ぶりにして完全負担。
宮崎県、太っ腹である

入口から中へ入ると、仄かな明かりに照らされたスロープが。
「悠久の時の流れ」をイメージして造られた空間は
左右に出土品や古墳を象ったレリーフが設けられ、
展示室へ向かう途上のわくわく感だけで無く、
ちょっとしたタイムトラベラー感を味わうことが出来ます。

スロープの途中に設けられている部屋。
その足下を覗いてみると、そこはなんと古墳の横穴
ただしこれは本物ではなく、古墳群内・4号地下式横穴墓の
様子を再現したレプリカ
とはいえその存在感、照明を用いた演出も相まって、
つかみとしてはバッチリ!
1.旧石器時代

いよいよ展示室内へ。
日本に於いて人間による生活の原点と言い得る、まだ稲作の到来していなかった時代。
人々にとって生活の糧となったのは、
これらの石器を用いた狩猟・採集でありました。
2万年もの時を刻んだこれらの品々は、
原初の人の暮らしを思い起こさせてくれます。
一方でこの時代、南九州にとっては災害の時代でもありました。
今の鹿児島湾北部、東西23km、南北17kmに
及ぶ範囲に存在する姶良カルデラの大噴火は、
半径70kmにも達する火砕流や遥か東北地方にまで
降り積もる火山灰をもたらし、シラスと呼ばれる堆積物から成る
地層を生み出した他、西日本に居住していた旧石器人を
壊滅へと追いやったと見られています。
(「企業実務オンライン」より)
2.縄文時代

ここ九州は大陸に近く、文化の伝来、発達も早熟と呼べるものでした。
およそ6000年前のものと考えられるこれらの
土器は、考古学界に一石を投じる一大発見となりました。
(しかも最初に発見したのは、小学生だったとか)

一般的に縄目を用いた文様を付けたことから縄文土器と
称される土器の数々。
しかしここ南九州においては、縄文時代初期の土器は大多数が
貝文土器(かいもんどき)と呼ばれる形式で作られています。
呼んで字の如く、生成途上の土器の表面で巻き貝を回転させたり、
二枚貝を押し付けることで独特の文様を生み出したそう。

こちらの石は、「最古の調理法」と称される石蒸しに使われたもの。
その方法とは、「幅広の葉にくるんだ食材を焼け石で覆い、
その熱で蒸し上げる」、というもの。
この調理の跡は集石遺構と呼ばれ、
一つの遺跡で数十基単位の遺構が検出されています。
数千年の間に分布するこれらの痕跡は、旧石器時代から縄文時代初期に掛けて
営まれた祭祀の跡と考えられていますが、
縄文時代に燻すという調理法が編み出されてからは、
大方姿を消すこととなりました。

縄文時代は、まだ狩猟が活発な時代でもありました。
その際に多用されたのが、落とし穴猟
あらかじめ逆茂木(さかもぎ)という先端を尖らせた丸太を
仕込んだ落とし穴に獲物をおびき寄せ、穴へと落とす。
これらの石鏃(せきぞく)や石匙(いしさじ)は、
矢や槍の先端に取り付けることによって、
獲物に止めを刺す凶器となりました。

南九州ならでは、「貝文土器」の展示・・・と思いきや!
こちらに並んでいるのは、一般的な縄文土器
もちろんこれらの品々はこの地域で作られたものでは無く、
遠く瀬戸内地域より数百キロの距離を隔てて届けられた交易品

古くから行われた、異なる地域・文化の壁を越えた交流。
それが数千年の昔より行われていたと考えると、
なんだかロマンを感じます

みんな大好き(?)、土偶(どぐう)
宮崎県内では唯一、「天孫降臨の地」として知られる
高千穂町より出土した一品。
北部九州へ稲作が伝来した時代、
旧来の暮らしを続けんとする人々の間に軋轢が
生ずることとなりました。
そこで着目されたのが、祭祀に依る精神性に則った団結。
それまでの「生活の為の道具」と異なる文化が、
阿蘇カルデラの周囲に芽生えました。
この土偶は、そんな不安定な社会の中に活路を求めた
思索の跡なのかも知れません。
3.弥生時代

稲作の伝播とともに食料の貯蔵や加工の技術が発展へと向かった
弥生時代
その代表格とも言えるのが、弥生土器
その形状は縄文土器と比べて薄く、かつ正確に
形成されており、製造技術の進歩が窺えます。

これらの土器には、人の手によって動物や人物、建物といった具象的な題材、
あるいは円や三角形、渦巻き等の抽象的な図形を描いた
絵画が施されていました。
このような土器は絵画土器と呼ばれています。

こちらも古代文明ではおなじみのアイテム、銅鐸(どうたく)
のレプリカ。
朝鮮半島にルーツを持ち、青銅で造られた祭祀具は、
吊り下げて表面を叩いて音を鳴らす、という使われ方をしていたそう。
その表面に描かれた文様は、自然の霊力を表現するものだとも。
収穫の恵みと恐るべき災害をもたらす大自然に対し、
人々が抱いたであろう崇敬と畏怖の思いが伝わります。
弥生時代を代表する道具である銅鐸ですが、意外なことに
南九州での出土例は無し
これはこの地域に於いて、西日本各地に発達した
それとは異なる価値観が存在していたことを示しています。
ちなみにこの銅鐸ですが、レプリカのため実際に叩くことも出来ます
皆さんもここを訪れること有らば、太古の音色を楽しんでみては
いかがでしょうか?
(ただし周囲への気配りはわすれずに)

シラス台地や南洋の鬼界カルデラ(きかいカルデラ)より飛来した「アカホヤ火山灰」が
分厚く積もった南九州は、土木工事によって水田を開く
水稲耕作(すいとうこうさく)には不向きな土地柄でした。
しかしながら一部地域ではこのような痕跡が、しっかりと残されています。

稲の刈り取りや加工に使われた、石包丁や
打製石斧(だせいせきふ。ダセェ訳ではない)

人々に豊かで安定した暮らしをもたらした稲作ですが、
一方で貯蓄が可能になったことで支配する側とされる側という
構図が生まれ、また蓄えた富を集団同士で奪い合う戦いといった
負の一面をももたらしました。
それに合わせて戦いの道具も進歩し、青銅器や石器を用いた物から、
やがてはこのような鉄剣・鉄斧の様に
殺傷能力の高い武器が発達して行くこととなります。
4.古墳時代

ここ西都原のキーワード・古墳
これは鹿児島県大崎町の飯隈地下式横穴墓より
出土した、軽石製石棺(せっかん)
火山帯に囲まれた南九州ならでは、火山岩を加工した
モノホンの石棺
内面にベンガラを塗った石棺内からは、発見時人骨と鉄刀が
納められていたそう。

古墳時代の特色の一つが、馬の伝来とそれを乗りこなす
騎乗や飼育の技術。
4世紀後半~末までにもたらされたこれらの風習は、
新たな人類のパートナーを御するための馬具の製作へと繋がります。
稲作によって発達した集村型社会と異なる独自性を持った、
狩猟と畑作による散村型社会で成り立つ地において、
遊牧・騎馬社会は有用に働いたと考えられています。

古墳時代に入り、人々の生活に欠かせない道具は、より高度化・多様化します。
その中核となったのは装飾性を廃し、ろくろや窯(かま)を用いずに
作られた素焼きの土器・土師器(ほじき)と、
ろくろや登り窯(のぼりがま)を用いて焼き上げた硬質の土器・須恵器(すえき)
(コトバンクより)

県内小林市の上ノ原9号地下式横穴墓より
出土した鉄剣と装身具。

ゆるりと歩いていた私の目に飛び込んで来たのは、なんと人骨
えびの市内、島内地下式横穴墓群より
発見されたもので、右側が女性、左側が男性となります。
発見時、片方の人骨には大きな髪飾りの櫛が、もう片方には
小さな髪飾りが多数取り付けられ、
頭骨には小刀が刺されていたそうな。
死者に対しエグいことをしているようにも思えますが、
呪符(じゅふ)を固定するための、言わばまじないの
ようなもの。

この時代、戦いとそのための道具は、より高度化して行きます。
西都原4号地下式横穴墓より出土した、
横矧板革綴短甲(よこはぎいたかわとじたんこう)

照明を照り返すこちらの刀剣は、
日本刀の砥ぎ師の手により研磨されたもの。
匠の技によって輝きを取り戻した凶刃は、作刀から1500年ほどの
月日を経た今でも、切れ味を誇示するかの如く輝いています。
人の暮らしは、自然との共生、生活の向上と発展、
支配と享受、変革と争いの上に積み重ねられて来ました。
種としての成長と成熟がもたらす性(さが)・・・
「光と影」、長い営みの末に紡がれて来たものは、
果たしてその先に何をもたらすのでしょうか。
次回は古墳群でも際立つ大きさと存在感を誇る二つの古墳を
ご紹介。
夜は宮崎市内にて、様々な付帯設備が好評を博する
ホテルチェーンに泊まります。
それでは!
年末のごあいさつは明日に取っておくとして、今日も
徒然なるままに書き綴って行こうと存じます。
さて、県境を越えて宮崎県へと入った親子旅。
まず向かったのは同県中部の町・西都市(さいとし)
宮崎市にほど近いこの地には、全国有数の規模を誇る
ある遺跡が眠っています。その場所とは・・・

こちら!西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)
今からおよそ1700~1300年前、紀元3世紀末~7世紀末に相当する
約400年間、日本各地に古墳と呼ばれる巨大な墳丘墓が
築造されました。
この古墳に代表される、一大権力の形成とその存在が示された時代を
古墳時代と称するのは、皆さんご存知の通りかと思います。

わけてもここ西都原古墳群は、東西2.6km、南北4.2kmの範囲に
319基もの古墳を有する、
全国有数規模の古墳群。
ご覧の様に、周囲を見回すだけでも、あちこちに大小さまざまな
古墳が点在しております。
またその形式も、円墳、方墳、前方後円墳、地下式横穴古墳・・・等々、
大きさや形も千差万別。
その全てを一日で見て回るのは、きわめて厳しいでしょう
(古墳群の中央付近に位置する「ガイダンスセンター このはな館」にて
レンタサイクルを借りられるので、不可能とは言いませんが)
という訳で、到着が夕刻近くということも有り、
行く場所を絞ることに。
「このはな館」から車で移動し、少しの場所に在る・・・

宮崎県立 西都原考古博物館
開館は平成16(2004)年4月。
常に新しい情報を開示する常新展示と
ユニバーサルデザインの徹底をコンセプトに、
南九州各地から出土した古代の品々を時代ごと、
文化や人々の暮らしの発達とともに展示した博物館。
見ごたえたっぷりの展示品や丁寧な解説がありがたい施設ですが、
入館料はなんと無料
県営とはいえこの充実ぶりにして完全負担。
宮崎県、太っ腹である

入口から中へ入ると、仄かな明かりに照らされたスロープが。
「悠久の時の流れ」をイメージして造られた空間は
左右に出土品や古墳を象ったレリーフが設けられ、
展示室へ向かう途上のわくわく感だけで無く、
ちょっとしたタイムトラベラー感を味わうことが出来ます。

スロープの途中に設けられている部屋。
その足下を覗いてみると、そこはなんと古墳の横穴
ただしこれは本物ではなく、古墳群内・4号地下式横穴墓の
様子を再現したレプリカ
とはいえその存在感、照明を用いた演出も相まって、
つかみとしてはバッチリ!
1.旧石器時代

いよいよ展示室内へ。
日本に於いて人間による生活の原点と言い得る、まだ稲作の到来していなかった時代。
人々にとって生活の糧となったのは、
これらの石器を用いた狩猟・採集でありました。
2万年もの時を刻んだこれらの品々は、
原初の人の暮らしを思い起こさせてくれます。
一方でこの時代、南九州にとっては災害の時代でもありました。
今の鹿児島湾北部、東西23km、南北17kmに
及ぶ範囲に存在する姶良カルデラの大噴火は、
半径70kmにも達する火砕流や遥か東北地方にまで
降り積もる火山灰をもたらし、シラスと呼ばれる堆積物から成る
地層を生み出した他、西日本に居住していた旧石器人を
壊滅へと追いやったと見られています。
(「企業実務オンライン」より)
2.縄文時代

ここ九州は大陸に近く、文化の伝来、発達も早熟と呼べるものでした。
およそ6000年前のものと考えられるこれらの
土器は、考古学界に一石を投じる一大発見となりました。
(しかも最初に発見したのは、小学生だったとか)

一般的に縄目を用いた文様を付けたことから縄文土器と
称される土器の数々。
しかしここ南九州においては、縄文時代初期の土器は大多数が
貝文土器(かいもんどき)と呼ばれる形式で作られています。
呼んで字の如く、生成途上の土器の表面で巻き貝を回転させたり、
二枚貝を押し付けることで独特の文様を生み出したそう。

こちらの石は、「最古の調理法」と称される石蒸しに使われたもの。
その方法とは、「幅広の葉にくるんだ食材を焼け石で覆い、
その熱で蒸し上げる」、というもの。
この調理の跡は集石遺構と呼ばれ、
一つの遺跡で数十基単位の遺構が検出されています。
数千年の間に分布するこれらの痕跡は、旧石器時代から縄文時代初期に掛けて
営まれた祭祀の跡と考えられていますが、
縄文時代に燻すという調理法が編み出されてからは、
大方姿を消すこととなりました。

縄文時代は、まだ狩猟が活発な時代でもありました。
その際に多用されたのが、落とし穴猟
あらかじめ逆茂木(さかもぎ)という先端を尖らせた丸太を
仕込んだ落とし穴に獲物をおびき寄せ、穴へと落とす。
これらの石鏃(せきぞく)や石匙(いしさじ)は、
矢や槍の先端に取り付けることによって、
獲物に止めを刺す凶器となりました。

南九州ならでは、「貝文土器」の展示・・・と思いきや!
こちらに並んでいるのは、一般的な縄文土器
もちろんこれらの品々はこの地域で作られたものでは無く、
遠く瀬戸内地域より数百キロの距離を隔てて届けられた交易品

古くから行われた、異なる地域・文化の壁を越えた交流。
それが数千年の昔より行われていたと考えると、
なんだかロマンを感じます

みんな大好き(?)、土偶(どぐう)
宮崎県内では唯一、「天孫降臨の地」として知られる
高千穂町より出土した一品。
北部九州へ稲作が伝来した時代、
旧来の暮らしを続けんとする人々の間に軋轢が
生ずることとなりました。
そこで着目されたのが、祭祀に依る精神性に則った団結。
それまでの「生活の為の道具」と異なる文化が、
阿蘇カルデラの周囲に芽生えました。
この土偶は、そんな不安定な社会の中に活路を求めた
思索の跡なのかも知れません。
3.弥生時代

稲作の伝播とともに食料の貯蔵や加工の技術が発展へと向かった
弥生時代
その代表格とも言えるのが、弥生土器
その形状は縄文土器と比べて薄く、かつ正確に
形成されており、製造技術の進歩が窺えます。

これらの土器には、人の手によって動物や人物、建物といった具象的な題材、
あるいは円や三角形、渦巻き等の抽象的な図形を描いた
絵画が施されていました。
このような土器は絵画土器と呼ばれています。

こちらも古代文明ではおなじみのアイテム、銅鐸(どうたく)
のレプリカ。
朝鮮半島にルーツを持ち、青銅で造られた祭祀具は、
吊り下げて表面を叩いて音を鳴らす、という使われ方をしていたそう。
その表面に描かれた文様は、自然の霊力を表現するものだとも。
収穫の恵みと恐るべき災害をもたらす大自然に対し、
人々が抱いたであろう崇敬と畏怖の思いが伝わります。
弥生時代を代表する道具である銅鐸ですが、意外なことに
南九州での出土例は無し
これはこの地域に於いて、西日本各地に発達した
それとは異なる価値観が存在していたことを示しています。
ちなみにこの銅鐸ですが、レプリカのため実際に叩くことも出来ます
皆さんもここを訪れること有らば、太古の音色を楽しんでみては
いかがでしょうか?
(ただし周囲への気配りはわすれずに)

シラス台地や南洋の鬼界カルデラ(きかいカルデラ)より飛来した「アカホヤ火山灰」が
分厚く積もった南九州は、土木工事によって水田を開く
水稲耕作(すいとうこうさく)には不向きな土地柄でした。
しかしながら一部地域ではこのような痕跡が、しっかりと残されています。

稲の刈り取りや加工に使われた、石包丁や
打製石斧(だせいせきふ。ダセェ訳ではない)

人々に豊かで安定した暮らしをもたらした稲作ですが、
一方で貯蓄が可能になったことで支配する側とされる側という
構図が生まれ、また蓄えた富を集団同士で奪い合う戦いといった
負の一面をももたらしました。
それに合わせて戦いの道具も進歩し、青銅器や石器を用いた物から、
やがてはこのような鉄剣・鉄斧の様に
殺傷能力の高い武器が発達して行くこととなります。
4.古墳時代

ここ西都原のキーワード・古墳
これは鹿児島県大崎町の飯隈地下式横穴墓より
出土した、軽石製石棺(せっかん)
火山帯に囲まれた南九州ならでは、火山岩を加工した
モノホンの石棺
内面にベンガラを塗った石棺内からは、発見時人骨と鉄刀が
納められていたそう。

古墳時代の特色の一つが、馬の伝来とそれを乗りこなす
騎乗や飼育の技術。
4世紀後半~末までにもたらされたこれらの風習は、
新たな人類のパートナーを御するための馬具の製作へと繋がります。
稲作によって発達した集村型社会と異なる独自性を持った、
狩猟と畑作による散村型社会で成り立つ地において、
遊牧・騎馬社会は有用に働いたと考えられています。

古墳時代に入り、人々の生活に欠かせない道具は、より高度化・多様化します。
その中核となったのは装飾性を廃し、ろくろや窯(かま)を用いずに
作られた素焼きの土器・土師器(ほじき)と、
ろくろや登り窯(のぼりがま)を用いて焼き上げた硬質の土器・須恵器(すえき)
(コトバンクより)

県内小林市の上ノ原9号地下式横穴墓より
出土した鉄剣と装身具。

ゆるりと歩いていた私の目に飛び込んで来たのは、なんと人骨
えびの市内、島内地下式横穴墓群より
発見されたもので、右側が女性、左側が男性となります。
発見時、片方の人骨には大きな髪飾りの櫛が、もう片方には
小さな髪飾りが多数取り付けられ、
頭骨には小刀が刺されていたそうな。
死者に対しエグいことをしているようにも思えますが、
呪符(じゅふ)を固定するための、言わばまじないの
ようなもの。

この時代、戦いとそのための道具は、より高度化して行きます。
西都原4号地下式横穴墓より出土した、
横矧板革綴短甲(よこはぎいたかわとじたんこう)

照明を照り返すこちらの刀剣は、
日本刀の砥ぎ師の手により研磨されたもの。
匠の技によって輝きを取り戻した凶刃は、作刀から1500年ほどの
月日を経た今でも、切れ味を誇示するかの如く輝いています。
人の暮らしは、自然との共生、生活の向上と発展、
支配と享受、変革と争いの上に積み重ねられて来ました。
種としての成長と成熟がもたらす性(さが)・・・
「光と影」、長い営みの末に紡がれて来たものは、
果たしてその先に何をもたらすのでしょうか。
次回は古墳群でも際立つ大きさと存在感を誇る二つの古墳を
ご紹介。
夜は宮崎市内にて、様々な付帯設備が好評を博する
ホテルチェーンに泊まります。
それでは!