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大友氏、栄華と凋落の痕

ようやく溜まりに溜まっていた「旅行記」を片付け、
久々にまっさら状態で大分市中心部へと「お出掛け」。
もちろんただ出掛けるだけでは面白くないので、
今回は一人の歴史上の人物と、その行跡が残る
場所を訪ねます。
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今回の主役となるのが、大分駅前にて銅像として顕彰されている・・・
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大友宗麟(おおとも そうりん)
本名・義鎮(よししげ)、幼名・塩法師丸。
その他、宗滴・三非斎・玄非斎等、多数の別名有り。
特に著名な「宗麟」の名は、出家(仏門に帰依し、剃髪すること)の際に
名乗った法号

享禄3(1530)年、大友氏第20代当主・義鑑(よしあき)の
長子として豊後国(ぶんごのくに、大分県の大部分)府内(いまの大分市)にて生を受ける。
天文9(1540)年、10歳の時に元服(成人)。
時の室町幕府12代将軍・足利義晴より「義」の字を賜り、
義鎮(よししげ)を名乗ります。

そのまま大友氏の嫡子として育っていくかに思われた義鎮ですが、
20歳を迎えた天文19(1550)年に大騒動が勃発。
当時大友家中では後継者問題が発生しており、
父・義鑑は粗暴な義鎮では無く三男・塩市丸(しおいちまる)への
跡目相続を企図し、自身と塩市丸を支持する家臣たちと共に
「義鎮派」の家臣を殺害。

このことに身の危険を感じた義鎮派の家臣たちは蜂起
主君である義鑑の居館を襲撃し、
塩市丸とその生母を殺害
さらに義鑑にまで重傷を負わせ、この傷が元で二日後に義鑑は
この世を去ることとなりました。
二階崩れの変と呼ばれるこの政変により、
義鎮は(義鑑の遺言もあって)大友氏第21代当主の座に着きました。

大友氏当主となった義鎮は、勢力拡大に着手。
翌天文20(1551)年には家中の内乱によって当主不在となった
隣国の大内氏に次期当主として弟・晴英(はるひで、大内義長と改名)を
送り込み、周防国・長門国(山口県)にまで影響力を拡大、
さらに貿易港・博多の確保にも成功します。

天文23(1554)年には叔父・菊池義武(きくち よしたけ)を
討って肥後国(熊本県)も支配下に組み入れました。
その後は不安定な領内での家臣の反乱や、
大内氏を滅ぼして北九州を窺う毛利氏と戦いながら、
室町幕府との密な親交により官位と信頼を獲得。

また政治と戦においては名将・立花道雪(たちばな どうせつ、
本名・戸次鑑連  べつき あきつら)、歴戦の士・吉弘鑑理(よしひろ あきただ)、
外交と武略の両道に才を揮った臼杵鑑速(うすき あきすみ、
もしくは、あきはや)の三家老
軍師・角隈石宗(つのくま せきそう)や無双の忠義と武勇を誇った
高橋鎮種(たかはし しげたね、のち紹雲と号す)、
長老格・吉岡長増(よしおか ながます)といった
優秀な家臣団の活躍も有り、周辺諸大名と
渡り合いながらも、筑前・筑後(福岡県西部・南部)、豊前(福岡県東部と大分県の一部)、豊後、
肥前(佐賀県)・肥後(熊本県)の6ヶ国の守護として、
広大な勢力圏を築くこととなります。

こうして大友氏の全盛期を築く一方、
義鎮は戦国大名の中でもいち早く西洋文化を取り入れた、開明的
人物でもありました。
天文20(1551)年、兼ねてより西洋文化に興味を抱いていた義鎮は、
当時山口に滞在していた宣教師、みんな大好き
フランシスコ・ザビエルを豊後府内へ招き、
キリスト教の布教を許可しました。

ザビエルが布教のためインドへと旅立った際には、ポルトガル国王への
親書を託し、それをきっかけに
南蛮貿易がスタート。
大友氏側から美術品や鉱物・刀剣等を輸出する一方、
当時最先端の武器や硝石、菓子や洋酒といった嗜好品
ガラス製品や絹織物といった物品を入手し、莫大な富を獲得しました。

また貿易に止まらず、府内の町に日本初となる西洋式の病院を開設
(しかも身分の別なく無料という太っ腹!)
した他、育児院や学校(コレジオ)、教会等を建設し、
豊後の地に国際都市を築き上げました。
西洋音楽や演劇が持ち込まれたのも、彼の治世下のこと。
これらの政策もあって、義鎮の庇護下に在った西洋人たちは
豊後の主を指してと呼称したそうな。

また布教を赦すだけでなく、後年には彼自身キリスト教に改宗し、
洗礼名ドン・フランシスコを名乗りました。
(その頃彼が発行した文書には、「府蘭」の署名が確認されているそうな)

そんな一見聡明な君主に見える彼ですが、
実の叔父や家臣から強奪する等7人の側室
抱えていた他、政治を放り出して酒宴や女遊びに耽る
見世物の猿をけしかけて家臣を襲わせるといった
ヤバい一面も持っていました。

・・・超絶前置きが長くなってしまいましたが、今回は西洋への門戸を開き
国際交流の礎を築いた宗麟、ならびに大友氏の、
栄華と衰亡の名残を止める場所を目指します。

大分駅前の通りを右に折れ、直進。住宅街を進みます。
その途中で見つけたのが・・・
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デウス堂跡
天文22(1553)年に建てられた府内教会、その推定地
信徒の間では「わが慈悲の聖母(ノッサ・セニョーラ・ダ・ピエタデ)教会」と呼ばれていました。

府内では盛んに行われた布教活動の甲斐あって、弘治3(1557)年には
2000人に及ぶキリシタンが存在し、
教会内では毎日ミサが執り行われ、
聖歌隊による演奏や宗教劇が催行されていたそう。
当時日本最先端の国際都市、その跡地。
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大分駅から徒歩15分、やって来たのは国指定史跡・大友氏館跡
敵味方入り乱れる「南北朝の争乱」真っ只中の14世紀後半、
大友氏10代親世(ちかよ)の頃、
大友氏の豊後統治と居住の場として造営されました。
以後歴代の大友氏当主がここに座し、宗麟の祖父・義長(よしなが)から
父・義鑑の代には庭園が整備されました。

大友館が最盛期を迎えたのは、やはり宗麟存命の折。
息子・義統(よしむね)への家督移譲を控え、
天正元(1573)年頃から館の大規模改修に着手。

東西200m四方、「土囲廻塀(どいまわりべい)」と呼ばれる塀や土塁、水堀を
廻らせた大規模な外郭施設を擁し、
大おもてなる200人をも収容可能な
巨大施設、多数の建築物、この頃にはさらに整備・拡張された庭園等、
「6ヶ国の太守」に相応しい規模の施設が誕生することとなりました。

平成8(1996)年の発見以後現在に至るまで発掘・調査が続けられている館跡では、
交易の証となる中国製の陶磁器の他、
多数のかわらけ(釉薬を掛けない素焼きの土器。
祭司や饗宴に用いた)が出土し、この地の繁栄と賑わいの跡を窺わせます。
まさに大友氏の栄華の象徴とも言うべき場所。
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電車からも見えます。
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広大な「大友氏館跡」の一角、JRの高架線脇に建てられた
南蛮BVNGO交流館(なんばんぶんごこうりゅうかん)
大友氏館跡の一角、「宗麟の生きた時代を体感できる施設」を
コンセプトに、昨年9月20日にオープン。

館内を5つの「ゾーン」に区分し、映像や復元された茶室、当時の衣装等を
通して大友氏館の成り立ちや大友宗麟の半生を追体験出来る文化施設。
館内最奥に設けられた「庭園デッキ」からは、現在発掘調査を終えて
2020年度に向けた復元計画が進行中の
庭園を眺めることが可能。

名称の由来はヨーロッパ初の日本地図に記された、BVNGO(豊後)の文字。
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入口前では、宗麟公の胸像がお出迎え!
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館内へ入ると、学芸員さん(?)によるご案内。
「大友宗麟」や「府内の町」、「大友館」について、歴史好きでも
知らない事まで詳しく説明してくれます。

まず案内されたのは、館内左手の歴史ゾーン
大友館内の様子を再現した床の間の前には
幕が掛けられ、そこへ戦国時代を追体験出来る映像が投影されます。
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床の間に現れたのは、なんと大友宗麟公ご本人!
(もちろん役者さんですが)
彼自身の口から自らの半生が語られます。
ナルシストっぽい語り口が、いかにも名家のお坊ちゃんといった感じ。

約7分間の映像を観た後は、宗麟と南蛮文化の関わりや
版図の拡大、アジア諸国やポルトガルとの貿易の形が
分かりやすく示された展示を見て回る。
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続いては建物右手のシアターゾーンへ。
大画面のモニターには10分あまりの映像が流され、
宗麟公治世下、和洋入り混じる独自の文化が育まれた
府内の町の様子を知ることが出来ます。
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今からおよそ450年前、最盛期の府内の姿。
大友氏当主の住まう大友館を中心として、
中国人等が居住した唐人町(とうじんまち)や
多数の社寺が設けられ、その周囲を無数の町家が取り巻いているのが
分かります。

山上には戦時の居館として上原館(うえのはるやかた)が築かれ、
府内に近い港には明(中国)やポルトガルからの貿易船が来着し、
盛んな交易が行われていました。
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こちらが府内の中枢となる大友館
200m四方、塀や築堤で囲まれた広大な敷地を有していました。
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大友館の中枢に設けられた、大おもて(大表)
200名を超える家臣たちを収容できる大規模な施設で、
政治や儀礼を執り行う大切な空間でもありました。

22代当主・義統(宗麟の長子)の頃に書かれた、大友氏の年中行事をまとめた
當家年中作法日記(とうけねんちゅうさほうにっき)には、
新年の儀式と参列した家臣たちを招いての饗宴が行われたことが
記されています。
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「シアターゾーン」に隣接して設けられている茶室ゾーン

戦国~江戸時代に掛けて「茶の湯」が武家の嗜みであったことは
島根県松江市の「武家屋敷」で触れた通り(昨年12月21日記事参照)ですが、
遊び人の「やんちゃな殿様」宗麟公には、諸芸に通じた文化人としての
顔も有りました。

彼は「似たり茄子(なす)」や「上杉瓢箪(うえすぎひょうたん)」、
「新田肩衝(にったかたつき)」といった唐物(中国製品)の
茶道具を多数所有し、茶会を通して泉州(大阪府西南部)堺や博多の
商人と盛んな交流を持っていました。
(情報収集の為か、はたまた単なる趣味か・・・)

茶人・宗麟の名声は上方(京都・大坂)にまで伝わり、
公家やかの千利休(せんの りきゅう)にも
高く評価されています。

この茶室はそんな「文化人」・宗麟が
大友館内に設けたであろう茶室をイメージした空間。
ただしイベント以外は上がることは出来ません
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茶の湯ならでは、詫びの精神を表した躙口(にじりぐち)
幅65cm、高さ70cm程度の出入り口は、
「誰もが自然に頭を下げた、謙虚な姿勢となって出入りする」という
意味合いを含んでいます。
木戸の下には履き物の脱ぎ履きをしやすい様、沓脱石(くつぬぎいし)が
置かれています。
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畳上や炉に置かれた茶道具
この内赤字で記した3点、信楽焼(しがらきやき)で出来た
水指(みずさし)、瀬戸物の天目茶碗(てんもくぢゃわん)、
中国産の建水(けんすい)は府内町の跡から発見された出土遺物
もしかしたら宗麟公も、このような茶道具を所持していたかも知れませんね。
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施設中央部、「交流ゾーン」の一角に設けられた衣装コーナー
宗麟公やザビエル等をイメージした衣装を身に着けての
記念撮影が出来ます。
皆さんもここを訪れる機会あらば、戦国時代に府内を行き交った人々の
気分になって、「思い出の一枚」を撮られてはいかがでしょう?
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大友氏館跡の発掘現場に面した屋外に造られた、庭園デッキ
開放的なウッドデッキからは、発掘調査を終えて2020年度の復元を目指して
検討が重ねられている庭園の様子を見て取ることが出来ます。
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大友館が存在した当時の想像図。
敷地の南東部分を占めていた庭園。その中心には東西67m、南北30mほどの
があり、その中央に築かれを二分する中島を境として
「動的」な東側と「静的」な西側に分けられていました。

外側に配置された築山には、ゴヨウマツクロマツヤマザクラ
シダレヤナギカエデ等が植えられ、見る者の目を
楽しませていたことでしょう。
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「南蛮BVNGO交流館」を出て、反対側の道路沿いから「大友氏館跡」を眺める。
継続的に発掘調査が行われている史跡では、昨年5月より
第38次となる調査を実施中。

大分市によると、2030年度を目途に「大おもて」等の中心建造物や館の門、
唐人町等の復元・整備を行うとのこと。
約450年の歳月を経て甦る、大友館。
落成の時が待ち遠しい♪
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大おもて跡と推定される場所。
等間隔、かつ広範囲に配された礎石が、ここに大型建造物があったことを
物語っています。

ここからは大友宗麟(義鎮)の転落の後半生と、大友館の最期をご紹介。
元亀元(1570)年、肥前国にて勢力を伸ばしていた
龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)を討つべく
軍勢を送り込んだ宗麟でしたが、今山の戦いにて
大友軍は指揮を執った大友親貞(おおとも ちかさだ、宗麟の弟)を
討たれる等の大敗を喫し、徐々に影響力を失って行きます。

天正4(1576)年、息子・義統に大友氏の家督を譲り、隠居
自らは丹生島城(にうじまじょう、臼杵城)に身を移しますが、
なおも家中に影響力を残した二元政治でもありました。

天正5(1577)年、薩摩(鹿児島県)の島津氏
隣国・日向国(宮崎県)への侵攻を開始。
日向の領主・伊東氏からの要請を受けた宗麟は、自ら大軍を率いて出陣。
「キリスト教国建設」を掲げて日向国内の寺社を
ぶっ壊しながら進軍するという破天荒ぶりを見せつけるも、
耳川の戦いで島津軍に大敗
この戦で多くの重臣を失った大友氏はいよいよ斜陽へと向かい、
家臣の離反や宗麟と義統の対立は、衰退にますます拍車を掛けました。

その後は上方で勢力を伸ばしていた織田信長(おだ のぶなが)に
接近。
島津氏との和睦を斡旋してもらう代わりに毛利攻めへの協力を約束する等
協力関係を築きますが、本能寺の変で信長は横死。
宗麟の外交努力は水泡と帰してしまいます。

天正13(1585)年、大友氏の要となっていた
重臣中の重臣・立花道雪が病死
これを好機と見た島津氏は、本格的な北上を開始。
各地で敗れた大友氏は、滅亡寸前にまで追い込まれます。

窮した宗麟は天正16(1586)年、
時の天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に謁見。救援の約定を取り付けます。
しかし四国の将士を中心とした豊臣軍の先遣隊は
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)にて島津軍に敗れ、義統は府内を退去
宗麟は居城・臼杵城(うすきじょう)を囲まれながら、自慢の大砲を活用しつつ
籠城を続けます。

この頃府内の町は侵攻した島津軍によって焼き討ちに遭い、
町もろとも大友氏による豊後支配の象徴・大友館も、
灰塵と化してしまいました。

翌年に豊臣秀吉自ら率いる本隊が九州に到着。
すぐさま戦線を押し戻し、島津氏は旧状に復することとなりました。
秀吉の命により豊後国は大友領として安堵され、
当主・義統は焼け落ちた府内へと戻ることとなりました。
宗麟は島津と豊臣の戦いの渦中、
津久見(つくみ)にて病死、享年58。
(以上戦国武将列伝Ω参照)

なんとか豊後一国を取り戻した大友氏でしたが、
秀吉が朝鮮へ兵を送った文禄の役にて
大友義統が無断で撤退するという
大失態を犯し、これが秀吉の逆鱗に触れたことで所領は
召し上げとなり、400年に亘る大友氏の
豊後支配は終わりを告げました。
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最後に大友氏と関わり深い場所を、もう一つ。
ここは旧万寿寺跡(まんじゅじあと)
徳治元(1306)年創建の臨済宗の寺院で、大友氏の菩提寺の一つです。
室町期には多くの名僧の他、水墨画の大家・雪舟(せっしゅう)も
ここを訪れ、府内に画楼(アトリエ)を構えていたそう。

九州最大の規模を誇る寺院として、朝廷や幕府が定める
禅宗寺院の格付け、五山十刹(ござんじっさつ)にも
選ばれた大層なお寺でしたが、天正16(1586)年の島津軍侵攻の際に焼失
東西約250m、南北およそ360m、およそ7.2haもの敷地面積を誇った大伽藍は、
あえなく焼亡の憂き目となりました。

跡地はグラウンドや道路、病院等に利用され、もはやかつての
大寺院は見る影もありません。

栄枯盛衰は世の習い。しかし大規模な館や寺院の跡を見るに付け、
そのような建造物群が失われたことの惜しさ、
そして大名家の繁栄と衰退の儚さに、思い至ります。
しかしながら現在精力的な発掘調査や復元計画が
進行中の大友氏館跡、その復活の時が今から楽しみでなりません!
次回は・・・未定(笑)
それでは!
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大分駅前の広場に、1594年にベルギー人地図学者の
ペトラス・プランシウスによって造られた
ペトラシウス世界図を模した陶板画が
設置されています。
「JAPAN」と書かれた島々の中に・・・
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Bungoの文字!

コメント

No title

こんばんは!

大友宗麟、聞いたことがあるようなないような方ですw

歴史の教科書で出たかな…

中々の生き様だったようですね、戦国時代の人たちは何かしらのストップや逸話があるので、好きな人はとても詳しいですね(^ω^)

この施設に限らずですが、映像や物で人物を説明してくれるのは1番頭に入りやすいですね(^J^)

何年か後には大河ドラマになってるかも(笑)

私、戦国時代はあまり興味が無いのですが、跡地を見ると少し興奮します(゜_゜)

跡地はグランドですか、残しておいたら歴史を感じる場所になったかもしれませんね~

こんばんは。

大友宗麟については、高校の教科書にでてくる事柄については知っていました。
詳しく書かれており、とても参考になりました。
かなり波乱にとんだ人生だったのですね。
ありがとうございました。
大分市へは、一度しか行ったことがありません。
今度行く時は、「交流館」へ是非立ち寄ってみたいものです。。

No title

コメントありがとうございます!
大友宗麟や大友氏については大まかな
部分は存知していましたが、今回大友氏館跡や
交流館を訪れ、それをブログにまとめるに当たり、
私自身大いに勉強させて頂きました。
「学ぶ」というのは良いものですね。

別府や湯布院界隈と比較して、大分市は
「商業都市」や「工業都市」というイメージが
強いですが、じっくり回ってみると結構
面白い場所が有りますよ。
「交流館」、是非お訪ねください。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。