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城下町、お寺めぐり

去る2月12日。
好天に恵まれた祝祭日明け、私は大分県北部、
福岡との県境に接する街・中津市へ行って
参りました!
豊かな自然風景の楽しめる耶馬渓(やばけい)が著名な
同市ですが、今回私が探訪先に選んだのは
城下町の風情が色濃く残る旧市街

その中でも見所となる、寺院が並ぶ「寺町通り」や、「お札の顔」となっている
有名人の旧宅、そして名軍師ゆかりの城を中心に巡って参りました!
そこで見分した風景を、複数回に分けてお届けします。
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大分市内から普通列車に揺られること2時間弱。
海辺や山を越えて辿り着いた・・・
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中津駅!
お隣・福岡県が目と鼻の先という立地の中津市、その中心駅。
明治30(1897)年、豊洲鉄道(ほうしゅうてつどう)の駅として開業。
昭和52(1977)年には高架化工事が行われ、現行となる3代目駅舎が完成しました。

中津市の中心駅として、博多‐大分を結ぶ特急ソニック
全列車が発着する他、この駅を起点として北九州市の
小倉駅門司港駅方面へと向かう列車と
大分駅方面へ向かう列車とで、
普通列車の系統分離が行われています。
名店街も併設されている、典型的な地方都市の駅。

久しぶりの街歩き、元気よく参りましょう!
歩き出した私を北口前で出迎えてくれたのは・・・
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「一万円札の顔」でお馴染み、福沢諭吉先生の像。
ここ中津は、近代化の時代の中で思想的・学問的に重きを成した
偉人の郷里。

中津の街が産んだ人物は次回に取り上げますので、
その人となりの詳述は今回はパス
城下町散策、まず足を向けるのは・・・
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整えられた街並みが美しい、中津市寺町
読んで字の如く、「寺町通り」と称される路地に沿って、幾つもの
寺院が建ち並ぶ区画。

城下町構築とともに形成されたこのような寺町は
ただ単に寺院を集めることだけが目的ではなく、
城下町の外縁を囲うことで、街区そのものを防衛線とする
狙いが有りました。

名軍師・黒田官兵衛(くろだ かんべえ)によって開かれた
中津の寺町も、そんな築城主の意図を反映する様に、
細い道幅と入り組んだ路地が軍勢の通過を容易ならざるものとしています。
今回はこの寺町でも観光パンフレットに記述のある寺院に立ち寄りながら、
歩いて参ります。
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立ち寄り寺院一つ目、合元寺(ごうがんじ)
創建は天正15(1587)年、天下人・豊臣秀吉に仕え、
主君・秀吉、さらに幕府開創の偉業を成し遂げた徳川家康にも
軍才と謀略を恐れられた黒田孝高(くろだ よしたか)の
命による。
この孝高こそ、軍師官兵衛その人。
剃髪(ていはつ、出家や贖罪のために頭髪を剃り落とすこと)後に
名乗った如水(じょすい)の名でも知られています。

孝高は開山に当たってご本尊となる阿弥陀如来を故郷・姫路より移し、
開祖となる空誉上人(くうよしょうにん)を招いたという。
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そんな由緒正しいお寺ですが、一つ「異色」とも言い得る特徴が有ります。
それがこれ、白壁が美しい寺町通りに在って、一際目を引く赤い壁
一見高い装飾性を感じさせる塗色ではありますが、
実はこれには悲劇的な物語が有ります。

天正15(1687)年、天下人・豊臣秀吉の命により
豊前・中津12万余石の領主として入封となった黒田官兵衛
しかしこれを良く思わなかったのが、現在の福岡県築上町(ちくじょうちょう)に在った
城井谷城(きいだにじょう)主・城井鎮房(きい しげふさ)

鎌倉以来父祖伝来の地を守り続けていた鎮房は、
伊予国(いよのくに、愛媛県)今治への転封と城井谷城の引き渡し、
並びに家宝(小倉色紙)の秀吉への引き渡しを拒否

最終的には城井谷城の明け渡しに応じた鎮房でしたが、
所領安堵の嘆願は、鎮房に対して不信感を抱いていた秀吉には
受け入れられませんでした。

かくして所領と名族としてのプライドを守るため、鎮房は挙兵
ただちに城井谷城を奪回し、
城井氏討伐のため進軍して来た官兵衛の息子・長政(ながまさ)率いる軍勢を
打ち破ります。

その後は持久戦となりますが、城井谷城の食糧不足もあり、
毛利家による仲介の下和睦
戦いは一応の終結を見ることとなります。

しかしながら後代の禍根が残ることを良しとしなかったのが、
仇敵黒田家

天正17(1589)年、長政と鎮房の娘・鶴姫
婚約関係を祝う祝宴として、鎮房を中津城へと招きます。
当然これは黒田家によるであり、
鎮房は少数の家臣ともども討死

城井家臣たちが待機していたここ合元寺にも黒田兵が大挙して押し寄せ、
戦いの末ことごとく討ち取られました

庫裏には乱戦の際に付けられた刀傷が残る他、
血の付いた壁を幾度塗り直しても血の色
浮かんで来る為、とうとう壁を赤く塗ってしまった
という逸話が伝わっています。
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悲劇の舞台となった、合元寺。
境内には城井家臣たちを弔い、三体の地蔵を祀った延命地蔵菩薩堂
建てられています。
主君に殉じて烈死を遂げた城井家臣たちの安息を願い、合掌

ちなみにこの地蔵堂、福沢諭吉先生が「学業成就」の祈願をした場所でも有るそうで、
堂内やお堂の周辺には願掛けの絵馬がびっしり
受験シーズン真っ只中の今!
学業で立身を果たした人物にあやかるのも、一手かも知れません。
若人カモ~ン!
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合元寺を後に、「寺町通り」を歩きます。
石畳が敷かれ、白壁が続く路地がイイ感じ
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立ち寄り参拝二カ所目は、円応寺(えんおうじ)
合元寺と同じ天正15(1587)年、こちらも黒田官兵衛による開基。
開山の祖となった見道和尚(けんどうおしょう)もまた、
官兵衛より招かれてこの地に移り住んだそう。

この寺で有名なのが、河童の墓
江戸時代中頃、寂玄上人(じゃくげんしょうにん)が
河童たちを仏道に入らせ、修行の末三匹の頭目に戒名を授けた。
これに感謝した河童たちはご恩返しとして寺を火災から守った
という言い伝えがあるそう。

この「河童の墓」、他のお墓と並んで墓所の奥に祀られています。
なので墓所に入らない訳には行かず、
周りのお墓に内心ペコペコしつつ、おっかない気持ちでお墓参り
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こちらが河童の墓
雨風を凌ぐ祠の中に小さな五輪塔が建てられ、
その前には一つの木札が置かれています。
そこに記されているのが、河童の頭目たちに与えられた戒名なのでしょう。

末尾には「信士」の字が2つ、「信女」の字が1つ。
オス二匹メス一匹という割合だった様子。

なおこの河童の墓、城井鎮房謀殺の際、鎮房に最初に手傷を負わせた
野村太郎兵衛祐勝(のむらたうろべえ すけかつ)の墓という
説もあるそうな。

現実とロマン、皆さんはどちらを求めますか?
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「河童の墓」の近くには、河童の池と呼ばれる
場所が残されています。
残念ながら干上がってしまって「池」としての姿を見ることは叶わなかったものの、
湿り気を帯びた土の様子から、かつては確かに水が存在していたことを
窺うことが出来ます。

仏道に帰依し、寺を災厄から守った河童たちも、ここを棲み処として
いたのでしょうか。
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立ち寄り参拝三カ所目は、圓龍寺(えんりゅうじ)
寛永9(1632)年頃、細川氏の後を受けた
小笠原長次(おがさわら ながつぐ)公入国の折に
専譽上人(せんよしょうにん)を招いての開山。
阿弥陀如来を本尊として祀る、浄土宗の寺院。
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小笠原氏による開山故か、山門の扉には小笠原氏の家紋・
三階菱(さんかいびし)の紋が刻まれています。
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山門を潜って左手には、安産と幼児の成長を守護する
子安観世音菩薩(こやすかんぜおんぼさつ)を祀った観音堂
その隣には閻魔さまの像を安置する焔魔堂が建てられています。
ここでお参りするのは・・・
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こちらの閻魔大王(えんまだいおう)
死後の世界の王にして、亡者に地獄行きか
極楽行きかの裁定を下す審判者

元はヒンドゥー教に於ける冥界の王・夜魔(ヤマ)が
仏教に取り入れられたもので、地蔵菩薩の化身ともされています。
つまりあの優しげな表情で掌を合わせているお地蔵さまは、
憤怒の相を浮かべる閻魔さまと同一という、
意外な事実。

激しく燃え立つような形相は、見る者に勧善懲悪を示す怒りだけでは無く、
閻魔さま自身が「亡者を裁く」という罪によって苦しんでいるためだとか。
罪への怒りと自ら受ける地獄の責め苦
慈悲の心と断固たる決意を秘めた表情こそが、
「裁定者」たる閻魔大王の心の表れなのでしょう。

ここで気になったのが、閻魔大王の隣に座っている
髪を垂らし、怪しげな笑みを浮かべる女性。

大王に負けず劣らず、なんだか恐ろしい風体のこの人物は、奪衣婆(だつえば)
またの名を葬頭河婆(そうずかのば)
その役割は、三途の渡しにやって来た亡者から衣服を剥ぎ取り
衣領樹(えりょうじゅ)という木の上で待つ相方・懸衣翁(けんえおう)に
渡す、というもの。変態という訳ではない

この亡者の衣を懸衣翁が衣領樹に掛け、枝がしなる具合によって
生前の罪の軽重を測るという。(コトバンクより)
この女性は、地獄の裁きの一端を成す番人の片割れ、という訳。
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境内の見所をもう一点。
観音堂の傍に立てられた織部燈籠(おりべどうろう)

この形式を考案したとされるのは、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に仕え、
茶人としても名を馳せた古田重然(ふるた しげなり)
官名に由来する織部(おりべ)の名でも知られています。

上部が膨らみ、下方へは直線的に伸びた形状や
下部に彫り込まれた人物像は、十字架やキリスト教の聖人
想起させるとも、いやいや僧侶の形をした茶人の姿であるとか、
平安時代の遊女を題材とした謡曲・熊野(ゆや)に
題を取った形である、等諸説あるそうな。

この燈籠は平成28(2016)年に中津市殿町のお宅より
寄進されたものだそうで、
昭和34(1959)年には大分県の有形民俗文化財指定を
受けたお宝

少々アップするのが遅くなってしまいましたが始まりました中津散策、
次回は諭吉先生が住まいとした旧居と、
その目の前に店を構える素敵なカフェにお邪魔したいと思います。
それでは!

コメント

こんばんは。、

黒田孝高、長政といえば、大河ドラマ「黒田官兵衛」を思い出します。
それまで黒田父子のことをあまりよく知らなかったので、興味深く見ました。
今回、ac802tfkさんの記事を見て、大河ドラマや、2年前に行った福岡城へ行ったことを思い出しました。
いつものように、詳細な記述、ありがとうございます。
参考になりました。

No title

yamashiro94さん
コメントありがとうございます。
豊臣秀吉の下で智謀の限りを尽くした
孝高、関ヶ原にて戦と策謀の双方に貢献した
長政と、黒田家が戦国の収束に果たした役割は
とても大きなものだと思います。

福岡城をお訪ねになられた事が有るのですね!
実はあの場所は外からしか見たことが無い
のですが、石垣からその規模が窺えますね。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。