日本人が、否、日本に住む人皆が
日頃手にしているであろう
紙幣その右側に人物像が描かれているのも、そして描かれている人物の
名前も、当然ご存知のことと思います。

細菌研究に生涯を捧げ、自らも病に倒れた「医聖」・
野口英世(のぐち ひでよ)

短い期間に眩い輝きを放った女流作家・
樋口一葉(ひぐち いちよう)

慶応義塾の創始者となり、新時代を迎える幕末~明治の日本に於いて
学問・思想の面で重きをなした
福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)
今回の中津散策は、この一万円札でお馴染み、福澤諭吉先生にスポットを
当てて行こうと思います。
前回歩いた「寺町通り」を抜けた突き当りから左に折れ、
しばらく進んだ先に広い駐車場が見えて来ます。
その奥に佇んでいるのが・・・
福澤諭吉旧居享和3(1803)年に建てられた、木造茅葺き、平屋建ての家屋。
ここで若き日の諭吉先生は、16歳~19歳までの
青春時代を過ごしました。
以後福澤家の拠り所として彼が帰郷のたびに立ち寄ったであろう
旧宅は、中津の地が育んだ偉人ゆかりの遺構として、
今も大切に保管されています。

諭吉少年が幼少期を送った家屋は
現存していないものの、
その跡地が駐車場横に
福澤家旧宅跡として示されています。
諭吉先生は後年、幼い頃の記憶を基に
旧宅の図面を
作成しており、石組みによって再現する上での参考とされています。
窓口で中津城との
共通券(600円)を購入し、入場。

旧居裏手の中庭では、早速
福澤諭吉の胸像がお出迎え。
紙幣で目にするイメージそのままのブロンズ像は、昭和5(1930)年に初代が
作製されました。
その後戦時中には
金属供出により一度失われてしまったものの、
戦後間も無い昭和23(1948)年、初代と同じ彫刻家・
和田嘉平治(わだ かへいじ)氏の
手で甦り、こうして故人の功績を顕彰し続けています。

ここで諭吉先生の生涯を簡単におさらいしておきますと、
天保5(1835)年、大坂(今の大阪)・堂島に在った
中津藩蔵屋敷にて、
中津藩の下級武士・
福澤百助(ふくざわ ひやくすけ)の次男として
生を受けました。
父・百助は
廻米方(かいまいがた)という
中津藩の
蔵屋敷(幕府や大名、寺社、旗本等が自領の
年貢米・特産物等を売買した、倉庫と取引所を兼ねた施設)の管理を担う
役職に就いており、
年貢米の収納・換金の他、大坂の豪商を相手に藩の
借財の交渉を
業務としていました。
平成27(2015)~28(2016)年に掛けて放送され、大ヒットとなった
朝ドラ・
あ〇が来たの主人公・「あさ」のモデルとなった
実業家、
広岡浅子(ひろおか あさこ)の嫁ぎ先である
加島屋(かじまや)とも、百助は懇意にしていたそうな。
(慶應義塾保険学会より)
しかし諭吉が1歳6ヶ月を迎えたころ、最初の転機が訪れます。
父・百助が44歳の若さで
死去一家は両親の郷里である中津へと移住します。
最初の旧宅で気ままな日々を送っていた諭吉少年ですが、
14歳の頃から勉学に目覚め、19歳の時、当時最先端の学問である
蘭学(オランダ発祥の学問、芸術、文化)を学ぶべく
長崎へ遊学に出ます。
翌安政2(1855)年には大坂へ出て緒方洪庵(おがた こうあん)主宰の学問所・
適塾(てきじゅく)に入門。
数々の人材を輩出した学府に在って、
2年後には10代目となる
塾長の地位に就きました。
諭吉23歳となった安政5(1858)年、中津藩の命により江戸へ出仕、
藩主・奥平家の中屋敷に蘭学塾を開きます。
これが後の
慶應義塾の起源となりました。
そんな諭吉に再び転機が訪れたのは、安政6(1859)年、24歳の折。
当時幕府と米国の間に締結された
日米修好通商条約によって
開港され、国際都市への第一歩を記し始めていた
横浜を、
諭吉は見物。
この体験でこの先
英語が必要になると実感した諭吉は、
英学へと舵を切ることとなります。
翌年には
咸臨丸(かんりんまる)にて
渡米、
さらに文久2(1862)年には幕府の
遣欧使節団に同行して
ヨーロッパ各国を巡り、
慶応2(1866)年にはこれらの体験をまとめた
西洋事情を刊行。
ここへ至るまでに西洋事情に通じた諭吉は、幕府より
翻訳方にも任命されています。
慶応4(1868)年、営んでいた学習塾の名称を年号にちなみ
慶應義塾と改名。
ここに現在へと至る学府の名が誕生しました。(この年のうちに「明治」と改元されましたが)
明治5(1872)年37歳の時、
天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らず・・・の
書き出しで有名な
学問のすゝめを刊行。
旧来の封建制度の支えとなっていた
儒教の考え方を批判し、
開明的な世に則した実証的な学問を推奨しました。
明治8(1875)年、現慶応義塾大学三田キャンパス内に現存する
三田演説館を開館。
諭吉先生は大衆の前に立ち、自らの意見を述べる
演説を
取り入れた、
最初の日本人でもありました。
明治13(1880)年、職業の別なく知識・意見を交換する場としての
社交場、
今も存続する組織・
交詢社(こうじゅんしゃ)を設立。
7年後には政治的・思想的中立を謳った新聞組織として
時事新報を創刊。
事業展開や人的交流にも積極的でありました。
(しかし政治とは終生距離を置いていました)
明治27(1894)年、20年ぶりの帰郷を果たした諭吉が
耶馬渓(やばけい)を
散策した際、景勝・
競秀峰(きょうしゅうほう)が
売りに出される事を聴き、景観保護の為
土地の購入を決意。
自らの名を出さぬよう、3年がかりで少しずつ土地の権利を手に入れました。
これは
自然保護活動の先駆けと言われ、
彼の先見性と自然観を窺わせます。
晩年は病と闘いながら執筆活動に勤しんだ諭吉翁でしたが、
20世紀が明けて間も無い明治34(1901)年、
脳出血症により
帰らぬ人となりました。享年66。
(以上福澤諭吉旧宅・記念館パンフレット、交詢社ホームページ、
洞門.comより)
動乱の幕末から文明開化の明治に掛け、いち早く西洋文化を取り入れる必要性を
見抜き、最先端の学問や思想、経済や社会活動の必要性を
説き続けた福澤諭吉という人物は、現代に通ずる道筋を付けた
偉大なる先人でありました。
さて、もう
記事1個分書いた心地でありますが、
この記事を完結させるため、まだ書き進める必要が有ります。
という訳で・・・

旧居にお邪魔しちゃいましょう!
写真左手、台所の部分から入ります。中庭に咲いた
梅が美しい♪

内部は襖で仕切られた4つの部屋。これに台所と雪隠(せっちん、トイレ)と
お風呂場といった水回りの設備が付属します。
じっくり見学したいところですが、畳の部分には
上がることが出来ません遠目から諭吉青年の住まいを観察。

表側に設けられた小さな庭。
若き頃や帰郷の折、諭吉先生も縁側に座ってこの庭を眺めたのでしょうか。

中庭から座敷を眺める。
福澤家が使用した物でしょうか?
火鉢と
糸車が
残されています。

中庭に残る木造茅葺きの
土蔵は、諭吉少年には欠かせない場所でした。
この旧居への転居から長崎遊学までのおよそ
4年間、
ここで米を突いたり、2階で勉学に励むという日々を送りました。

土蔵内部、狭く急な階段を登ると・・・

狭い空間に、勉学に勤しむ諭吉少年の姿を再現した人形が
こんにちは!一心不乱に書を読み耽る姿をイメージしたその足下には、
彼の行跡や学業にあやからんとした来訪者により、小銭が供えられています。
折角なので、私もお供え。

旧居を見た後は、隣接する
福澤記念館へ。
旧居と併せて故人の遺徳を偲ぶ館内には、諭吉先生が残した
直筆の原稿や知人・友人に宛てた手紙、刊行当時の著書から
関係者の遺品、諭吉先生の生涯等、多様な展示物を通して
その人となりを知ることが出来ます。
入口付近に展示された諭吉翁を刷り込んだ一万円札、その記念すべき
一号札は必見!
諭吉先生、と言えば晩年の穏やかな風体が世間一般でのイメージと
なるのでしょうが(私もここを見るまではそうでした)、
若い頃を写した
眼光鋭い風貌や
自らを批判するものへの
挑戦的・攻撃的反論からすると、
彼自身はなかなか
素敵な性格であった様子。
一方で家族を愛する
子煩悩な面もあったようで、
察するに「敵に厳しく、身内に優しく」、といったところだったのでしょうか。
幼少期はかなりの「やんちゃ坊主」だったそうで、これらの展示を通して
知った
人間・福澤諭吉の姿は、
却って好感を持ちうるものに思えました。

福澤諭吉旧居を巡ったところで、諭吉先生と関わりある人物の故地をご紹介。
ここは
増田宋太郎先生誕生之地この
増田宋太郎(ますだ そうたろう)とは、
昨年の大河ドラマのラストを飾った
西南戦争に際し、
西郷軍に加わった
中津隊の
隊長を務めた人物。
諭吉先生と同じ中津藩士の家の出で、家は
隣同士、
血筋は
またいとこ同士という間柄でした。
幼少の頃より国学(日本古来の歴史・思想を基とした学問)を学び、
幕末には
尊王攘夷運動、明治となってからは
自由民権運動に身を投じました。
明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると同士たちと
中津隊を結成、
戦いへと身を投じました。
4月に西郷軍と合流した中津隊は各地を転戦するも奮戦実らず、
8月には西郷隆盛自身によって全軍に
解散命令が出されます。
皆が進退を憂う中で西郷に心酔する増田は
最期を共にすることを決意、
鹿児島へ流れ着いた後の同年9月4日、米蔵に夜襲を掛けた際の
戦いで
戦死を遂げました。
彼と、行動を共にした中津隊士の墓は、志を同じくした西郷翁とともに
鹿児島・城山に残されています。
少々しんみりした後は、お昼ごはん。
素敵な佇まいで福澤諭吉旧居へ入る前から気になっていた(&お店の人に招かれた)・・・
心の駅NPO法人が運営するカフェで、朗らかにして穏やかな自称「雇われ」店長さんが
仕切る、地域に根差したお店。
店内では軽食やデザート、ドリンクの他にパンや小物の販売が行われて
いる他・・・

毎週火曜日には店頭で地元産野菜の販売が行われているそう。
私が訪れた日はちょうどその販売日に当たり、
涼やかながら穏やかな日陰に野菜が並ぶ、こんな光景も目にすることが出来ました。

入口横には、なんだか旅情を掻き立てられる素敵な看板が。
古風なお店の造りですが、実は
古民家を改装したものだそうで、
それ以前は
遊郭として使われていたとか。
昔日の賑わいは大層なものだったようで、嘘か真か「
歓楽街を残すために
米軍は中津の市街を爆撃しなかった」、なんて話も。
無論そんな成り立ちの町には負の側面も有ったのでしょうが、
こうして古風な建物や町が残っている辺り、ある意味では
感謝すべき事なのかも知れません。

そんなお店で頂くのは、
チキンピラフ(チキンライス)300円。
小ぶりなお皿に盛られているのは、ケチャップ少々のあっさりした味わいに
仕上がったご飯と、柔らか鶏肉というシンプルなもの。
「もうすぐ休憩だから」とのんびりモードの店長さんと話しつつ、ゆっくり頂く。
しかしながら「書き入れ時」の火曜日、パンや野菜を買い求める
地元の人がしばしば来店。
気さくに話かけ、地元の話を聞かせてくれるお母さんの親切心が
身に沁みる。
後ほど
あんパンも購入しましたが、
もっちりとした生地にほんのり甘い餡が包まれた、
美味なる一品でございました。

最後に諭吉先生ゆかり(?)の場所を、もう一つ。
市立南部小学校の一角、校門の一つとして現役バリバリながらも
場違い感漂う
この建物は、
生田門(しょうだもん)
高さ5.56m、幅6,6m、東大の
赤門や以前取り上げた
(昨年10月2日記事参照)富山城千歳御門と同じ
薬医門(やくいもん)という
形式で、
江戸時代には中津奥平藩の家老・
生田家屋敷の門として
使われていました。
明治4(1871)年、福澤諭吉先生の建議により、諭吉先生やその片腕として活躍した
小幡篤次郎(おばた とくじろう)氏によって整備が進められた
西日本初の英学校、
市学校旧来の厳格な身分制度を嫌いながら中津の風土とそこで生まれた優秀な
人材を評価していた諭吉先生は、慶應義塾を手本とした規則を制定。
最盛期には
生徒数600人を数えました。
その後の西南戦争や学制の施行で「市学校」は閉校となりますが、
江戸、そして明治の世を見届けた生田門は、今は
平成の学童たちを見守り続けています。
で・・・説明書で関連付けられてはいるが、
この門が
市学校で使われたのか否か、明言されていない。
果たしてどちらなのでしょう?
江戸の封建体制から文明開化へと移り行く時代が生んだ傑物・
福澤諭吉中津の誇る人物の成した大功と人柄に触れた探訪となりました。
いずれ大阪に残る適塾なども目にしてみたいもの。
次回は軍師官兵衛ゆかりの城・
中津城へ!
わずかに残った遺構の姿と、模擬天守内の豊富な展示を
ご紹介します。
それでは!

「福澤諭吉」と言えば、やっぱり
この言葉!(実は故郷・中津の人々に向けた言葉だったりする)