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城と宝物

2月も終わりに近づいて参りました。
芽生えの春も、もうすぐです!

福澤諭吉旧居を散策した私は、かつて武家屋敷が並んだであろう
通りを歩き、中津川(岐阜県の街ではない)の畔にやって来ました。
そこで待ち受けていたのが・・・
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かつての藩政の中心・中津城!
天正15(1587)年に豊前国(福岡県東部・および大分県北部)12万3千石の
領主として入国した黒田官兵衛孝高(くろだかんべえ よしたか)は、
山国川(やまぐにがわ、福岡・大分県境。後代に起きた大洪水により河道が変わり、
城に接する河川は支流となった)の河口付近に当たり、
周囲の河川や周防灘(すおうなだ)を防御に生かせる要害の地に、
入国の翌年より築城を開始しました。

しかしながら城井氏の蜂起文禄・慶長の役(朝鮮征伐)等の
度重なる戦と賦役によって築城は思うままに進まず、
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでの戦功によって
黒田家は筑前52万石への加増・転封を受け、中津を去ることとなりました。

変わってやって来たのが、こちらも関ヶ原で戦功を立てた細川忠興(ほそかわ ただおき)
当初は中津を本拠として定めた忠興でしたが、慶長7(1602)年には
今の北九州市に在る小倉城(こくらじょう)へと居城を変更
さらに元和元(1615)年には幕府より一国一城令
(一つの国ごとに設けられる城を、原則居城一つのみとする制度)が発布され、
中津城の普請は一旦中止されることとなります。

幸い細川氏の働きかけもあって中津城の存続は認められ
元和7(1621)年には家督を譲った忠興の隠居城となり、
城や城下町の整備が進められました。

以後小笠原氏、奥平氏と藩主を代えながら存続した中津城でしたが、
明治4(1871)年に幕藩体制の終わりを告げる廃藩置県
断行され、ここ中津城は小倉県(それまでの豊前国の範囲を管轄)中津支庁舎として
再利用された御殿を除き、※解体されることとなりました。

※解体を提案したのが福澤諭吉先生だったりする。
封建体制の象徴とも言える城を好まないのは理解できるが、
城好きとしては何だか悲しい

こうして事実上役目を終えた中津城でしたが、明治10(1877)年には
西南戦争の兵火により残った御殿も焼失
そのため本丸周辺の石垣と一部の堀、
他に城の近辺に残る石垣と、城下を守った土塁・おかこい山から
当時の面影を計ることしか出来ません。
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現存建築物を持たない中津城ですが、
国中が前回の東京オリンピックで沸き立つ昭和39(1964)年、
旧藩主・奥平家の尽力や中津市民からの寄付により、
山口県の萩城(指月城)を基にした模擬天守
(天守の無かった、もしくは天守の存在が定かではない城に建てられた、
天守風建築物)が完成。
運営会社の変遷を経ながら、中津市の観光資源として
聳え立っています。
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幾度か藩主の交代を経験している中津城。
それを示すのが、本丸北側の石垣に刻まれたY字状の継ぎ目。
実はこれ、右側が黒田時代のもので、
左が後から入城・整備を行った細川氏の頃のもの。

黒田氏統治時の本丸の角を示す算木積みの石垣からさらに
継ぎ足しているため、こうした不可思議な継ぎ目
出来上がっているのです。

黒田側の石垣に使われている四角い加工石ですが、福岡県上毛町(こうげまち)の
丘陵上に築かれた古代の山城・唐原山城(とうばるやまじろ、
国指定史跡)
から運び出されたもの。この古代遺跡から石を運び出し、山国川
水運を利用してここまで運び込んだと見られています。

既存の物を利用し、短期間での完成を目指す。
策謀家・官兵衛らしい効率的な工夫。
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天に聳える模擬天守。復興櫓である大鞁櫓(だいひやぐら、
城主の馬具等を収納する施設)が、通路を挟んで向かい合っています。
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中津城本丸内には、神社がいっぱい。
こちらは中津大神宮
「神宮」の名の通り、ご祭神は日本の最高神・天照大神(あまてらすおおかみ)と、
最高神の食事の手伝いを担う穀物の神・豊受大神(とようけのおおかみ)
他二柱の神が合祀されています。

明治14(1881)年に三重県の伊勢神宮より御分霊
お迎えする形で神宮教(伊勢神宮崇拝を柱とする活動を行った、神道の一教派。
明治32(1899)年解散)の豊前教会として創始。
以後変遷を重ねながら豊前のお伊勢さまとして、
ここ中津城内に鎮座しています。

ここで気になったのが、社殿の手前に据えられている・・・
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こちらの砲弾。
台座に刻まれた説明書き(昔の書き方である為、解読に頭を使う必要あり)によれば、
日露戦争真っ只中の明治37(1904)-38(1905)年に
勃発した最大の激戦・旅順攻囲戦にて用いられた砲弾を、
戦勝記念としてこの社に奉納したようです。
意外な場所で見付けた、歴史の生き証人
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天守のすぐ傍に鎮座しているのは、奥平神社
中津城4つ目の主として入国し、廃藩置県までの150年ほどを
この地(と参勤先の江戸)で過ごした大名家・奥平氏

この神社ではその祖となる奥平貞能(おくだいら さだよし)、
長篠の戦いを始めとして、徳川家康の下で多くの武功を立てた2代信昌(のぶまさ)、
そして3代家昌(いえまさ)の3公を祀っています。
隣の中津大神宮が「豊前の鎮守の社」とするならば、ここは中津城の守り神
といったところでしょうか。神前の茅の輪を潜ってお参り。

城内にはこの他、ここで無念の死を遂げた城井鎮房(きい しげふさ)を祀った
城井神社(きいじんじゃ)が存在しています。
鎮房謀殺後、中津城内にその亡霊が現れたという逸話も有るそうで、
天下に名高き策士・黒田官兵衛も、亡霊にだけは勝てなかった
ということでしょうか(笑)

黒田家中ではよほどこの出来事を悔いたのか、転封先で福岡城を築いた際にも、
城内には城井神社が建てられたそう。
後に福岡藩に相次いで不幸が起こった際には、城井鎮房の呪いなんて
言われていたりする。
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・・・大いに脱線してしまいましたが、模擬天守内へと入って参りましょう!
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天守内部は奥平資料館として一般公開されており、
奥平氏の藩主や当主たちが着用した鎧や陣羽織、武具、古文書や
絵画の他、奥平氏が徳川家中で一目置かれるきっかけとなった
長篠の戦いにまつわる展示等、
貴重な遺産がずらり

福澤諭吉旧居との共通券を見せて一階へ入ると、
鎧や槍等の武具、奥平氏で用いられた家財道具といった展示品がいっぱい!
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2階への階段付近に存在感たっぷりに展示された、歴代藩主の甲冑
手前から中津奥平氏5代(奥平氏11代)昌高(まさたか)公、
同6代(同12代)昌暢(まさのぶ)公、
同9代(同15代)、中津藩最後の当主となった昌遇(まさゆき)公、
3代の品が遺されています。

実は中津奥平氏は後嗣不在により、2回(昌高公と昌遇公)ほど他の大名家より
養子を迎えており、それぞれ造りの異なる甲冑からは藩主たちの
趣味嗜好だけでなく、出自を表す生家の家紋といった意匠も見受けられます。
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戦陣にて武将がその存在と威光を示すために着用した、陣羽織(じんばおり)
こちらの陣羽織は、奥平氏2代・信昌公の4男・
松平忠明(まつだいら ただあき)公のもの。

江戸幕府の開祖・徳川家康公の養子となり
大坂の陣後の大坂城、大和国(奈良県)の大和郡山城、
姫路城といった要地の城主を歴任して幕閣に重きを成した人物で、
大阪名所・道頓堀の名付け親

そんな幕府創成期の重要人物が用いた陣羽織は、
薄手の生地で比較的シンプルな造りながら、細かな装飾の光る逸品。
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奥平氏2代・信昌公の陣羽織は、ビロード生地を用いた西洋の香り。
天文10(1541)年の南蛮船(ポルトガル船)の漂着は、
当時の戦国武士たちに交易による富と舶来の品々をもたらしました。

当時最先端と言える素材をふんだんに
使った武具や着物、こういった陣羽織は、戦国武将たちにとっての
洒落っ気の表れ。
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深い緑の生地に赤抜きの「大」の一字が映える陣羽織は、
信昌公の祖父・奥平貞勝(おくだいら さだかつ)公のもの。

元亀2(1571)年、武田氏の三河(愛知県東部)侵攻を受けた貞勝公は、
徳川を離反し、武田に臣従。
この陣羽織はその際かの武田信玄より下賜されたもの。
品の有る色合いと裾に付けられた金色の飾りが光る一品は、
強大な勢力の狭間に立たされ苦悩する、小領主の苦心の顕れ。
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一階奥に展示された武具や、火事装束。
最上段に掲げられた槍は白鳥鞘の槍と言って、
信昌公の孫(徳川家康の曾孫)に当たる忠昌(ただまさ)公が
病床に臥せる家康公を見舞った折、家康その人から拝領した奥平氏の家宝

平安時代末の作で、京都・三条の刀工
三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじ むねちか)の手によるもの。
刃先には平安時代に起きた保元の乱(ほうげんのらん)にて
豪勇を鳴らした弓の名手・源為朝(みなもとの ためとも)が
用いたという鏃が取り付けられています。

武名名高き鎮西八郎(為朝の別名)の鏃を戴く槍。
源氏の宝と言い得る名槍は、
それを所持する奥平氏に武門としての「格と名声」をもたらしたことでしょう。

中津城探訪はここで一区切り。
次回は奥平氏が歴史の表舞台に躍り出るきっかけとなった大合戦の
遺物と、天守最上階からの眺めをお届けします。
それでは!
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中津ゆかりの人物を取り上げた大河ドラマ・軍師 官兵衛
5年前に作られた人物劇の放送を記念し、こんな記念撮影グッズ
用意されておりました。

コメント

こんばんは。

黒田官兵衛が当地を去った後の歴史がよくわかりました。
いつもの詳しい解説、ありがとうございます。
模擬天守だそうですが、写真で見ても、なかなか立派ですね。

No title

yamashiro94
コメントありがとうございます。
細川氏転封後は周防灘から瀬戸内海、そして
海路大坂へと繋がる要衝の位置から、
譜代大名の統治に委ねられたそうな。

天守は周囲の情景ともマッチした、
良い造りでした。
最上階からの眺めも素晴らしかったです!

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。