中津城探訪パート2!
であると共に、しばし書き綴って参った中津散策も、
これで一区切りとなります。
今回は中津藩主・奥平氏の武名を高めた歴史的な合戦にまつわる
展示と、天守最上階からの眺めをご紹介!
中津城模擬天守2階へ上がった私が向かうのは、
特別展示室ここには歴史の教科書にも載っている「あの戦い」に関する
展示が用意されています。
その戦いとは、天正3(1575)年に起こった
長篠の戦い名将・武田信玄の遺志を継ぎ、西上を目指す
武田勝頼(たけだ かつより)率いる武田軍と、
長篠城の救援として駆け付けた
織田信長・
徳川家康率いる連合軍が三河(愛知県東部)・設楽原(したらがはら)にて激突した戦い。
多数の
鉄砲(火縄銃)を駆使した戦術と、
武田軍が誇る精強な騎馬隊の勢いを削ぐべく築かれた
馬防柵を
押し立てた防御陣地を活用し、織田・徳川軍が
大勝を収めた
一戦は、その後武田と織田の盛衰を分かつ
分岐点ともなりました。
そんな歴史の転換点において大きな役割を果たしたのが、
豊前中津藩4つめの大名家・
奥平氏特別展示室では、奥平氏の家名に燦然と輝く一戦を取り上げた
展示が行われています。

特別展示室入口で来館者を出迎えてくれるのは、明治維新後に
伯爵家となった奥平家で使用されていた
椅子旧貴族の家格に相応しく、各部に装飾を、座面と背面には
革を用いた
洋風椅子。
腰掛けてみると所々出来た裂け目や生地の劣化が気になるものの、
凝った造りも相まって良い気分♪
ただ座った感触はやや硬め。

展示室中央、どどんと陣取っているのは、
長篠合戦図江戸時代の慶安(1650年頃)年間に描かれた絵図で、
同一の物は大阪城と愛知県名古屋市の徳川美術館、
国宝・犬山城を治めていた成瀬氏、そしてこの奥平氏所蔵品の
4点が
現存しています。
日本の戦史に語り継がれる戦いを描いた、歴史資料。
そのうちの一点が奥平氏ゆかりの城に在るのも、彼らがこの戦いで
果たした役目故か。

ここからは「長篠合戦図」の細部を見て行きましょう。
絵図の一番右、武田軍に包囲されながら必死の籠城戦を続ける
長篠城主将・奥平信昌(おくだいら のぶまさ、当時貞昌と名乗る)と共に
徳川氏へと寝返った城は、三河国(愛知県東部)へ侵攻した武田軍によって
厳重に取り囲まれました。
1万5000と称される武田軍に対し、長篠城の守兵はわずか
500それでも信昌公指揮の下粘り強く戦い、1月以上に亘る防戦の末、
ついには城を
守り抜くことに成功しました。
この時命を賭して主君・家康への救援要請に向かい、最期は
共に戦う城兵たちに援軍の存在を伝えて処刑された忠臣・
鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の逸話は著名。
特別展示室内には、彼に関する資料も展示されています。

長篠城内で兵を鼓舞する
奥平信昌公。
今川氏から徳川氏、そして武田氏と地域の趨勢によって
主を変えていた奥平氏は、
武田信玄の死と
徳川家康からの勧誘を受けて徳川へと
鞍替えこの一事も発端となって、武田氏の後を継いだ勝頼は
三河への出兵を決断する事となりました。
しかし信昌公はわずかな手勢と共に武田軍の攻勢を凌ぎ、
主君・家康とその同盟者(信長)の勝利に貢献します。
この功によって信長からは「信」の字を頂戴し、信昌と
改名さらに家康の長女・
亀姫を妻として娶ることとなり、
徳川家中に確たる地位を築くこととなりました。

武田軍総大将・
武田勝頼元亀4(1573)年に父・信玄の死を受けて武田氏を相続した勝頼ですが、
「3年以内は己(信玄)の死を隠し、領国の保全に努めること」という
遺言を破り、軍事行動を開始。
長篠の戦いに於いては数で優る織田・徳川軍に果敢に決戦を挑みますが
大敗を喫し、領国へ引き上げる事となりました。
以後周辺諸国との協調・敵対の中で領国経営と
拡大に腐心するものの実らず、天正10(1582)年織田・徳川軍の攻撃を受け、
甲斐国(山梨県)・天目山にて妻子とともに
自刃ここに鎌倉以来の名族・甲斐源氏は
滅亡となりました。

連合軍に対し突撃を敢行するも、砲火に斃れる武田軍。
画像に映る武将は
真田信綱(さなだ のぶつな)と
真田昌輝(さなだ まさてる)
信玄公を鬼略を以て支えた
真田幸隆(さなだ ゆきたか)の子であり、
一昨年の大河ドラマで注目を集めた
真田昌幸(さなだ まさゆき)の
長兄と
次兄(さらに言えば真田信繁(幸村)の叔父たち)
この戦いで最前線で戦った「真田兄弟」は揃って
戦死真田の家督は残された3男昌幸(この頃養子として「武藤喜兵衛」を名乗り、
長篠の戦いでは勝頼の旗本として近侍していたため、無事だった)が相続することとなり、
彼が大大名の間で大立ち回りを演じる「天正壬午の乱」へと繋がって行きます。
※閲覧注意
馬から転げ落ち、首を刎ねられたのは武田家の重臣・
山県昌景(やまがた まさかげ)
彼自身の武勇や、麾下の兵を
赤色の甲冑や旗指物で固める
赤備えで
恐れられた猛将も、敢え無く
敗死武田軍はこの他、
馬場信春(ばば のぶはる、信房とも)、
内藤昌豊(ないとう まさとよ)、
原昌胤(はら まさたね)ら先代信玄公の頃からの重臣たちを多数失い、
後の衰退・滅亡の遠因ともなりました。

こちらは迎え撃つ連合軍。
前面に鉄砲隊を押し立て、馬防柵や
河川を利用した万全の備え。
画像に写っているのは
徳川軍で、
本多忠勝(ほんだ ただかつ)や平岩親吉(ひらいわ ちかよし)、
鳥居元忠(とりい もとただ)ら徳川家臣の姿が確認出来ます。

徳川勢の最奥、「神君」への遠慮故か名前こそ記されていませんが、
金扇の馬印(大将の位置を知らせる目印)や傍に控える伝令が掲げる
「五」の旗指物から、馬上の人物が
徳川家康公であると見て
間違いないでしょう。
長篠にて同盟者・信長とともに勝利を収めた家康は、
それまでの守勢から
攻勢へと転じて武田方の城・砦を次々と攻略。
武田滅亡時には駿河国(静岡県中・北東部)を確保し、
東海道きっての実力者としての地位を固める足掛かりとなりました。

こちらは織田勢。
馬を並べて指揮を執っているのは、
前田利家(まえだ としいえ)と
佐々成政(ささ なりまさ)
後年、柴田勝家(しばた かついえ)指揮下で北陸各地を転戦し、激動の中で
敵同士となる二人ですが、この時はまだ戦友同士。

織田家中の出世頭・
羽柴秀吉(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉。
画面上の人物)と
織田家筆頭格の重臣・
柴田勝家(しばた かついえ、画面下)
何かと比較され、終いには「賤ケ岳の戦い」にて雌雄を決する両雄。
やや離れ気味な陣立ても、
心の距離の表れ・・・か?

織田軍の最後方、南蛮(西洋)風の兜を小姓に掲げさせ、
余裕の構えの
織田信長公。
長篠以後も各地で戦いを続けた信長ですが、
天正10(1582)年には敵対勢力との戦いを優位に進め、
天下統一の偉業を目前としていました。
そんな絶頂に在った彼が
本能寺の変にて横死を遂げるのは、
武田氏滅亡からわずか3か月も満たない内のこと。
繁栄と衰退は、まさに表裏一体。

「長篠合戦図」の下には、実際に奥平軍によって使用された
法螺貝(ほらがい)や
足軽の被った
陣笠、
長篠合戦時の物ではありませんが、
火縄銃も展示されています。
このうち法螺貝については面白いお話があり、説明書によれば
「籠城戦の最中に法螺貝が
勝手に鳴り始め、
これを城の将士たちは
吉兆として喜んで
大いに士気が上がった。
今も
長篠の戦いの時期には中津城内から法螺貝の音が響き、
これを聴いた人には
幸運が訪れる」そうな。
ちょっとホラーな感じも有りますが、「幸運の法螺貝」の音色、聴いてみたい
気もする。

こちらは奥平信昌公が長篠合戦時に
着用していた甲冑。
過度な装飾を省いた質実剛健の趣は、忠義に篤く闘志盛んな
三河武士らしい出で立ち。
兜の頂部には、武士たちの間で「縁起物」として担がれた植物・オモダカを象った
沢瀉の紋の金物が取り付けられています。
ややくたびれ気味な形が、激闘の痕を思わせる。

展示室内で興味を引かれた展示物の一つが、慶長10(1605)年に
信昌公が息子・家昌(いえまさ、宇都宮城主)に出した
直筆の書状この年家康より三男
秀忠(ひでただ)に将軍職が
委譲されることとなりました。
それに当たって上洛(当時の都である京都へ上ること)する家康や秀忠、
徳川家の親類や譜代家臣たちの動向がこと細かに記されており、
大変
興味深い特別展示室には他にも家康が小田原攻囲の最中に発行した
陣触れ(戦の陣中で出す布告)や、
長篠の戦いの戦功として家康から信昌公へ下賜された銘刀・
大般若長光(だいはんにゃながみつ、国宝)の写しといった
各種資料が展示されています。
興味がお有りの方、是非一度足をお運びあれ♪
3階より上は、「撮影禁止」と書かれた展示物もあったので、
撮影自粛なのでざっと概要を記しますと、
3階は中津藩お抱えの医者であった
前野良沢(まえの りょうたく)が
編纂に関わった日本初の洋式医学書・
解体新書の経緯と
中津藩の関わりや、
「蘭癖大名」と呼ばれ、オランダ研究や語学の習得に熱心であった奥平中津藩5代・
昌高(まさたか)公と長崎・出島のオランダ商館長(カピタン)の交流、
オランダ商館医として日本に来航し、日本の植物研究や生物研究、日本人への洋式医術の
教育で多大な功績を残した
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの
娘・
楠本イネを保護した
福沢諭吉先生等の
展示が為されていました。
一方4階は中津藩から商人へ発行された商いの
許可証や
奥平氏の家紋が入った
鬼瓦や装飾品が
展示された小さな空間。
そしていよいよ・・・

天守の最上階・
5階へ!奥に見えている扉から廻廊へ出ると・・・

遮るものの無い、中津市の眺望!

海側へ目を向ければ、城の防御の一角を成していた
中津川や
遠く
瀬戸内海とも接する
周防灘(すおうなだ)

本丸を始めとするかつての城域・・・

中津の中心市街地までが、一望の下!
ただしこの日は大気の状態が良くなかったのか、豊前の
山並みがイマイチだったのが、
残念城を出た後はじっくり中津の街を歩き、日が暮れた頃に・・・
中津駅へ戻って参りました。
再び
日豊本線の普通列車(今度は直通!)に乗り込み、
大分市内へ戻ります。
中津の歴史と街の成り立ち、人の温もりに触れた
日帰り旅素敵な一日を与えてくれた、中津の街に
感謝!今度は
耶馬渓にも行ってみたいな。
次回は・・・未定です。
それでは!

中津のソウルフード・
からあげ!祝日明けで
休業日祭り開催の中やっと見つけた一品を・・・

焼酎と一緒に味わう!
くぅ~!