
門司港散策2日目。
「春の嵐」が吹き荒れた前日とは打って変わり、この日は好天。
グランドオープンから一夜明けた
門司港駅も(
ス〇バを除けば)平穏を取り戻し、
優美な外観と落ち着いた色彩を放っています。
この日一件目の観光スポットはそんな
門司港駅の向かい、
駅舎と対照的な暗色系の色調が目立つ・・・
旧門司三井倶楽部大正10(1921)年、日本有数の大財閥・三井財閥(現三井グループ)の中核を成す
三井物産、その門司支店の
社交倶楽部として
建設されました。
当時は門司港の山手に当たる
谷町地区に位置し、
同支店の接客・宿泊施設として利用されました。
昭和24(1949)年、戦後の
財閥解体に伴い
国鉄が管理者となり、小規模な改装を施した上で
門鉄会館という
宿泊施設へと転身することに。
平成2(1990)年、所有権が北九州市へと譲渡され、3月には建物が
「大正期の近代化を示すもの」として国から
重要文化財指定を
受けました。
現在地への解体・移築が行われたのは平成9(1997)年のこと。
これに合わせて内装や屋根の装いも当時に近い物へと
復元され、
門司の発展とかつての巨大財閥の富を示す社交場は、
公共施設としてわれわれの目と感性を楽しませてくれます。
実は「ある人物」とも縁のある施設なのですが、それはまた
後ほど
「旧門司三井倶楽部」は接客用、洋風建築の
本館と
それに隣接する和様の
付属屋の2棟から構成されています。
外観は1階と2階で装飾が変えられており、1階は人造石を用いた
洗い出し壁という左官の技が試される技法で、
2階と出窓部分は
ドイツ壁と称されるモルタルを掃き付ける工法で
仕上げられており、各階ごとに異なる印象を持たせるとともに
外観上のアクセントとなっています。
また2階と出窓部分には、前回ご紹介した「大連友好記念館」と同じ
ハーフティンバー様式が
用いられ、木の枠組みを生かした変化に富んだ見た目を生み出しています。
屋根は門司港駅舎の緩斜面部分同様のスレート(石膏)葺き。
(「日本遺産 関門“ノスタルジック”海峡」参照)

内玄関。この先にはかつての社交場が広がります。
扉の上部に施された船の装飾が、国内外へ積極的な事業展開を行った
建築主らしさを醸しています。
扉を潜った先は、広大な
ホールここから既に華やかな社交場の名残りが見られます。(常にたくさんの人が居たため
画像は無し)
1階部分は
無料ですが2階の拝観は
有料となるので、
全部見たい!という方は受付にて100円を支払いましょう。

じっくり見られないホールの代わり(?)に、お隣の
多目的ホールへ。
一歩足を踏み入れた瞬間に飛び込んでくる、
別世界今はイベント用の椅子が並べられているものの、細かな装飾の光る暖炉、
分厚い生地が用いられたカーテン、天井から吊り下げられた灯火器、
天井や床の文様といずれも格調高さを感じさせる設え。
日本が外国に学び国を強化せんともがいていた時代の情熱と、
社交場特有の華やかな空気が漂います。

足下に視線を落とせば、鮮やかな
赤に浮かび上がる花柄模様。

こちらはかつての
食堂先ほどの「多目的ホール」と比べると落ち着いた色調ながら、
所々施された装飾にはやはり目を瞠るものが有ります。
1階にはこの他、ふく(フグ)料理を始め海鮮料理を扱う
割烹 まんねん亀運営の
和洋レストラン 三井倶楽部が入居しており、
お得意の「ふく」や各種食材を用いた会席料理の他、
海鮮焼きカレーがオススメの様子。
ホームページを見るとしっかり当時の設えが残されているようで、
「オシャレ空間でいいモノを食べたい!」という方は、
こちらでお食事なさるのも良いかと思います。

いざ、2階の有料エリアへ!
この本館は内外に亘って「アール・デコ」調が取り入れられており、
正面階段にもその直線的・幾何学的な意匠が見られます。

階段を上がった先では、順路に従い正面の部屋に入ります。
その部屋の名は
アインシュタイン メモリアル・ルーム皆さんもうお分かりでしょう。
20世紀前半に科学界で革命的活躍を果たし、「相対性理論」、「光量子説」に
代表される研究・理論の他、数多くの研究成果を世に送り出した
天才科学者、
アルバート・アインシュタイン博士が
滞在した部屋。
博士は大正11(1922)年、
山本実彦(やまもと さねひこ)主宰の
出版社・
改造社(現在は書店)の招きに応じ来日。
11月17日~12月29日の延べ43日間を日本で過ごし、
各地で講演会の演壇に立ちつつ移動。
ここ「門司三井倶楽部」は、門司港滞在の際の
宿所となりました。
現在彼とエルザ夫人が過ごした居間・寝室・浴室が保存・公開されており、
「光と影」に彩られた偉人の息吹に触れることが出来ます。
(説明書きで多用されていた「ア博士」の略称が、なんかおもろい)

こちらは来日前、日本郵船所属「北野丸」で上海から日本への移動途上に撮られた、
アインシュタイン博士とエルザ夫人の写真。
この船上で博士は「光電効果の発見」を称える
ノーベル物理学賞受賞の一報を知らされ、
大層喜んだという。
(その裏には元妻への慰謝料として、ノーベル賞の賞金を渡す
約束をしていた、なんて事情があったりする)

居間に並ぶ調度品の数々。
そのどれもが格調高い品々であり、ここ「門司三井倶楽部」に
凝らされた贅の数々や、それらを総動員しての「ア博士」への
もてなしの様子を窺わせます。

居間の一角には、博士が書き留めた
手紙が遺されています。
折角&なかなか印象深い一文であったので、その日本語訳を以下にご紹介。
「私の日本旅行についてのあれやこれや
ここ数年、私は世界中のいたるところを旅して回ってきた。
本当にそれは一学者にとって与えられたもの以上のものである。
私のような類の生活をおくる者は、本来は、静かに部屋の中に座して研究すべきなのである。
そのため、私が旅に出るときは、昔は、必ず一種の言い訳を不可欠とした。
言い訳をすることによって私の、それほど敏感とは言えないかもしれないが、
気持ちをゆっくりと落ち着かせるためである。
だが、山本氏(※改造社社長・山本実彦氏)から日本への招待状が届いたとき、
言い訳をするまでもなく、私はこの数か月もかかる大旅行に赴く決意を即座にした。
私が自分自身の目で日本を見る機会を失したならば、
自分を許すことができないほど後悔しなければならなかっただろう。
私がベルリンで、日本に招待されたことを知られた瞬間ほど、私の生涯において、
本当に人から多くうらやましがられたことはないだろう。
なぜなら、この国ほど、われわれにとって、神秘の謎のベールに覆われた国は
他にどこもなかったからである。
わが国でも、孤独に生活し、懸命に勉強し、かつ親しみをもった笑みを浮かべる
日本人を見かけることはできる。
こうした保身的な笑顔の背景に隠れた感情は、誰でも理解しにくいものである。
そして、その背後には、日本様式で示されるような、われわれとは異なった精神が
隠れ(隠され)ていることに気づくのである。
それは、数多くの(わが国で見られるような)日本の小さな日用雑貨や・・・(中略)
・・・に見られるものである。」
まだ飛行機が一般的な移動手段と成り得なかった時代、
ヨーロッパから極東の島国へ渡り来るには、大変な
時間と労力を
必要としました。
そんな時代にあってなお、その労を惜しまぬ博士の
日本に対する
想いとあこがれ・・・
この手紙からは、そんな博士の真摯な心意気が伝わります。

こちらが博士夫妻が起居したであろう
寝室1ヶ月以上に及ぶ講演旅行の後12月23日にここ門司港に辿り着いた博士は、
一晩を博多で過ごしてからここへ戻り、日本を発つまでの
計5日間を
この部屋で送りました。
さすがに長期の講演旅行で25日に戻った際には
疲労困憊だったという
博士ですが、ここ門司港では子供たちとの交流やバイオリン演奏、
滞在最終日には餅つきに参加する等、
大いに旅の時間を楽しんだそう。
そして大正11年12月29日午後3時、
「もう一度やって来たいが、なにしろ万里離れている。
これが最後になるだろう」という別れの言葉を残し、門司港を後にしました。
事実その後博士の日本再訪が叶うことは無く、
激動の時代に
博士自身呑まれていく事になるのですが、ここでは取り上げません。

博士夫妻が寝床とした2つの
ベッド画面外、左手に置かれた衝立共々、博士滞在
当時のもの
浴室。広く取られた空間に、小さな浴槽と洗面台、鏡、衣類カゴが
置かれています。
窓辺にはカーテンが掛けられているのですが・・・
湿気らなかったのだろうか2階には「放浪記」や「牡蠣」等を著した、門司出身(下関説あり)の女流作家・
林芙美子(はやし ふみこ)女史を
取り上げた、
林芙美子記念室が併設されています。
残念ながら展示室内は
撮影禁止であったので
簡単に概略を記すだけとなりますが、
流転と愛情の生涯を送った林女史の足跡・遺品・
著書などから、彼女の真っ直ぐで情熱的な感性、
人となり、生き様を知ることが出来ました。
門司港の地で華を咲かせた社交場と、20世紀にその名を記した
科学界の偉人の足跡。
良く保たれた空間の中でこうして身近に感じられることは、
大いなる発見と感謝の機会となりました。
これもまた、一種の「旅の出会い」と言えましょうか。
次回は近代建築と昭和モダンの入り混じるビルディングと
「美」の息づく洋風建築、そして海を眺めながらの
グルメに舌鼓。
それでは!

春の息吹きが、ここにも。