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寄り道、坂道、切通し。

このところ晴天続きの九州でしたが、昨夜は久々の雨が
大地を濡らしました。
われわれの目を楽しませてくれた色彩の季節も、
まもなく見納めでしょうか。

儚き花に思いを馳せながら綴って参る今回は、
臼杵市山手の丘陵地を切り開いて造られた細い路地。
その左右に建ち並ぶ寺院や武家屋敷と織り成す景観が印象的な
「二王座歴史の道」を歩きます。

前回巡った「八町大路(中央通り商店街)」を通り抜け、
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厩戸王(うまやとおう、=聖徳太子)を祀った三重塔・太子塔を戴く
龍原寺(りゅうげんじ)の前を過ぎ、住宅街を抜けて山手へ。
その一角に細長く伸びているのが・・・
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二王座歴史の道(におうざれきしのみち)
城下町の背後に広がる丘陵地で、阿蘇山から流れ出した火山灰が凝固して
形成された岩石・凝灰岩(ぎょうかいがん)を切り開いて出来た、
切通しの町。

狭く曲がりくねった道や切通しは城下への軍勢の侵攻を阻む
としての役目も帯びており、
ここ臼杵を隠居の地としつつも軍事拠点としての用途も意識した、
大友宗麟(おおともそうりん)公の配慮が窺えます。

実際戦国末期に島津軍が豊後の国(大分県中・南部)へなだれ込んで来た際には、
迎え撃つ大友軍との間で激戦が繰り広げられたとか。
江戸時代には周辺に寺院が集められ、趣ある景観が出来上がると共に
その防衛線をより強固なものとしています。
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臼杵城とは反対側からこの歴史地区へ入ると、最初に立ちはだかるのが
甚吉坂(じんきちさか)
島津軍がここ臼杵に押し寄せた時、この坂にて奮迅の働きを見せて
敵を押し返した大友家臣・吉岡甚吉(よしおか じんきち)が
名前の由来。

左手に立ちはだかる石垣で固めた崖、武家屋敷の高い塀に囲まれた
隘路の周りには、
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海上交通の神様を祀った金毘羅宮(こんぴらぐう)の足下から
流れ出る清水・金毘羅水(こんぴらすい)や・・・
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武家屋敷(旧加納家下屋敷)を改装したカフェが点在しています。
ちなみにこのCafe Delicatte(カフェ デリカッテ)というお店、
お茶の間を賑わす俳優・斎藤工さんのご両親
経営しており、気軽に楽しめるドリンク・デザートの他、
食事にピッタリな多国籍料理も扱っている様子。

運が良ければ、銀幕の主役に会える!・・・かも?
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甚吉坂の途中で、二軒続きの長屋を発見。
左手はお土産屋さん、一方の右手は昭和初年に兵庫県明石にて
発見され、長年考古学界に論争を引き起こすきっかけとなった
明石原人(あかしげんじん)の発見者・直良信夫(なおら のぶお)氏の生家。

ここ臼杵の貧しい家に生まれ、勉学と独学での研究の末に大発見を成した
人物の功績を称え、その生家が直良信夫顕彰記念館として
保存・公開されています。
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記念館内部。
元士分の家・村本家の次男として生を受けた信夫少年は、
この狭い長屋内で両親と7人の兄弟姉妹と日々の暮らしを送っていました。
頑張り屋で勉強家でもあった彼にとって狭く騒々しいこの家は
勉学に励み得る場所では無かったようで、
家事手伝いの傍ら近くの寺院の門前や武家屋敷の石段に腰掛け、
教科書をめくる日々を過ごしていたようです。

記念館となった今もその「手狭感」は変わらず、展示品は
土間や壁面までフル活用して公開されています。
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こちらが直良信夫氏。
青年期から仕事と勉学での無理がたたって体調を崩しがちだった
信夫氏は、病気療養のために移り住んだ兵庫県明石市の海岸で
石器や化石の採取に励みます。

石器と思しき石塊や象の臼歯片などの発見を通して
「日本にも旧石器時代が存在する(当時の学会では日本に旧石器時代と
分類し得る地質的・文化的存在は無いとされていた)」という思いを
強めていた信夫氏は、昭和6(1931)年に化石化した人骨を発見
考古学・人類学に一石を投じ得る発見に期待を膨らませた信夫氏でしたが、
突きつけられたのは「山師(詐欺師)」や「役者」といった悪評ばかり。

戦後にようやく再評価する動きが生まれ、化石人骨は明石原人と命名されて
研究と議論の的となります。
以後も研究を重ねた信夫氏は、故郷・臼杵への帰還を願いつつ昭和60(1985)年、
83年の激動の人生を終えました。
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こちらが明石原人・・・の、写真。
昭和6(1931)年、明石市の西八木海岸で発見された
左腰部分の骨。高さ17.3cm。

ただちに信夫氏はこの人骨を東京帝国大学(現在の東京大学)人類学教室の
松村瞭(まつむら りょう)博士に送付、
「間違いなく人類の物で、16,7歳ぐらいの年齢、化石化の程度や色合いから見ても、
太古のものである」という返答を受け取りました。

しかしこの「原人」の骨が当時の学会で評価されることは無く、
第二次大戦中の空襲によって焼失
戦後の昭和22(1947)年、東京大学の人類学教室に残されていた
石膏模型を長谷部言人(はせべ ことんど)教授が分析、
ニポナントロプス・アカシエンシス、すなわち明石原人
命名され、再評価の動きが始まりました。

現在では研究も進み日本列島に於ける旧石器時代の存在も
実証されていますが、「実物」自体が現存しない「明石原人(もしくは明石人)」の
価値そのものは不明確なまま。
いずれにせよ自身の研究と採集から発見と著作を成し、
学会に波紋を投げかけた直良信夫氏の功績は、
消えることはないでしょう。

「直良信夫顕彰記念館」の先で「見晴らしのいい場所あり」という
看板を見つけ、進路変更。
そこも両側が切り立った斜面となった「切通し」。
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その斜面の中に、ボコボコと開いた穴の痕を発見。
これは第二次大戦時の昭和18(1943)年、
米軍の空襲から身を隠すために作られた防空壕の跡。
たまたま通りかかった戦争体験者(!)である住人の方によると、
穴は1つ30人ほどが入れる大きさで、当時は
反対側の壁面にも同様の壕が掘られていたそう。
(現在そちらの壁はコンクリートで固められており、内部の
様子を知る術はありません)

当時列島そのものが戦地の様相を呈していた日本。
ここ臼杵市も例外ではなく、昭和20(1945)年7月2日には
平清水(ひらそうず)地区や土橋地区(今の上臼杵駅周辺)が爆撃を受け、
25軒前後の家屋が全焼するという出来事が起こっています。
(臼杵市公式サイト参照)
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この坂道の上に在るのが、万葉しおりの店
江戸末期からの武家屋敷を改装し、和雑貨や衣装を販売する他
懐かしの電化製品、雑誌等が並ぶお店(あるいはお宅?)
お家の方に招かれるまま、敷地内へ。
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こちらが「万葉しおりの店」の主屋。
元は旧小牧家武家屋敷として文久3(1863)年に
建てられたもの。
外壁は少々くたびれ気味で改築された部分もあるようですが、
個人の手で貴重な建築が守られているのは、意義あること。
お店(お家?)のお母さんは「管理が大変!」と朗らかに笑う。

注:お店の方の意向により、座敷内は撮影禁止
ルールを遵守し、清らかな気持ちで拝観しましょう。
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臼杵の町でも高台に位置するこの場所。
主屋の前に広がるお庭からは市街地や寺院、
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桜まつり」で賑わう臼杵城を見渡すことが出来ました!
(お城の方角から、情景に似合わぬポップな音楽が流れて来る・・・)
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私もお庭ので、プチ花見。

風情ある道筋が防衛拠点としての役割も兼ねていた「二王座歴史の道」。
土地の開発や戦いの歴史、土地の偉人の足跡に
想いを馳せながら、歩みを進めて参ります。
次回も「二王座歴史の道」を散策。
切通しや石畳の路地の情感、武家屋敷跡で楽しむ
ティータイムを取り上げます。
それでは!

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。