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猛者をも阻む!浮城の構え

さて、結局一週間に及ぶ移動の途上、更新が滞ってしまい
記事を楽しみにされていた方々には、大変申し訳なく思います。
私は現在、北の大地・北海道のさらに先端付近に
来ているのですが、そこへ至る道中はまた後日お届けいたします。

さあ、久々の記事へと参りましょう!
「二王座歴史の道」を抜け、満を持してやって来たのは・・・
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町のシンボル・臼杵城!
戦国乱世真っただ中の弘治2(1556)年、豊後(大分県中・南部)の主・
大友義鎮(おおとも よししげ=宗麟)によって築かれました。

現在こそ埋め立てによって市街地とは陸続きですが、
当時城が位置する丹生島(にうじま)は三方を海に囲まれ
周囲が切り立った崖となる浮島のような状態であり、
島全体を城塞化することによって攻めるに難く、
守るに易い立地となっていました。

実際天正14(1586)年に島津氏が豊後へ攻め入った折、
宗麟は城の地形と南蛮貿易を通じて入手した
大砲を駆使し、豊臣秀吉軍の来援まで持ち堪えています。

文禄2(1593)年に息子・義統が改易となって大友氏が
豊後を追われてからは、石田三成の娘婿・福原直高(ふくはら なおたか)が、
慶長2(1597)年には太田一吉(おおた かずよし)が城主に着任。
関ヶ原の戦い後に稲葉貞通(いなば さだみち)が
臼杵藩主として入城し、以後明治維新まで臼杵藩5万石の
城となりました。
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稲葉氏2代のうちに近世城郭としての体裁が整えられた臼杵城。
明治になってからほどんどの建物が破却され、
周囲は埋め立てた上で市街地へと変わってしまいました。
しかし迫る者を拒む断崖絶壁とそれを固める石垣、
近年進められた整備事業により、その威容を取り戻しつつあります。
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堅牢な石垣が聳え立つ古橋口から城内へ。
現在この古橋口が城域への入り口となっていますが、
実は本来の正面入り口は別の場所
城の玄関たるべき大手口はその形跡も残されてはおらず、
その跡地は大手門公園として整備されています。

大橋口の横に構え、城門に目を光らせていた亭櫓跡
その石垣に登ると・・・
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大手門跡に広がる「大手門公園」が良く見えます。
咲き誇る情景に、和風の東屋がよく似合う。
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上に視線を転ずれば、現存櫓の一つである畳櫓
桜の海に浮かんでいるかのような光景を
目にすることが出来ます。
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敵が真っ直ぐ侵攻出来ない様、右に左に折れ曲がっている通路。
その行く手には垂直に近いほどに立ち上がる崖と石垣、
その上には櫓や塀が構えられ、侵入者を迎え撃ちます。
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畳櫓も、城の防衛体制をアシスト。
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通路の途上、石段横の壁面に石で塞がれた穴を発見。
これも防空壕の跡でしょうか?
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古橋口から続く坂道の終点近く、二ノ丸入口へ至る手前の
関門となる中門櫓跡
往時はここに櫓門が建ち、周囲の櫓や塀と合わせ
防衛線を構築していました。

現在は門の礎石と思しき石材が残る他、
城内二ノ丸にて歴代藩主と稲葉家の祖・良通(よしみち、一鉄の名でも知られる)を
祀った臼杵護国神社の鳥居が建てられています。
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中門櫓付近も、彩がいっぱい♪
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こちらが現存櫓の一つ、畳櫓
大手口と古橋口、中門櫓を睨む要所に配されています。
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城の重要部である二ノ丸への入り口、大門櫓
稲葉氏入城後に建てられた櫓門で、宝暦13(1762)年の
大火で焼失、明和5(1768)年に再建され、
明治維新後に破却されるまでその威容を誇っていました。

近年現存櫓や城を描いた古絵図、明治初めころの古写真、
発掘調査などを参考に復元され、かつての城の雄姿を
偲ばせてくれます。

ここで再び石垣の上へ。そこからは・・・
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大門櫓と畳櫓
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越しに見る市街地
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二つの河川の合流点を跨ぐ臼杵大橋を望むことが出来、
とっても良い気分♪

注:現在城郭内の石垣は一部を除いて自由に登ることが出来ます。
しかし手すり等の防護設備は無いため、
くれぐれも散策の際はお怪我などなさいませんよう、ご注意ください。

ここから真っすぐ二ノ丸を突っ切っても良いのですが、
ここで敢えて脱線
城の防備をより確かなものとする石垣を観察するべく、
二ノ丸下の外郭部分へ向かいます。
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桜のトンネルを潜り、本丸方向を目指す。
右手の塁上が二ノ丸、左手の崖下が市街地(かつての)となります。
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しばらく歩いていると、ひときわ高く聳え立つ石垣に遭遇。
これは着見櫓台(つきみやぐらだい)
二ノ丸の外縁部に構えられ、城外と外郭部分から二ノ丸へと
迫る敵勢を監視・迎撃する位置に在ります。

「着見」という名前からすると、あるいは城の周囲を行き交う船を
監視する役目も帯びていたのかも知れません。
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櫓台の上から。この辺りは二ノ丸周辺でも特に高く
石垣が積み上げられており、崖に面した反対側より劣るであろう
防御性を高めるとともに、ここが防衛上
重要視されていたことを示しています。
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この場所からも、市街地が一望の下。
手前の住宅と比べ、いかに臼杵城が高い場所に築かれているのかが
分かります。
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花見客が集う二ノ丸へと戻って参りました。
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二ノ丸の奥、本丸へと続く部分は現在、多目的広場となっています。
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私が訪れた時は、臼杵城址桜まつりの真っ最中!
(4月7日(日)まで。既に終了)
多目的広場もたくさんのに囲まれ、花見客向けの出店や
それを見て回る人々で、大変な賑わいとなっていました。
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二ノ丸に置かれていた、フランキ砲という大砲の複製品。
天正4(1576)年、当時南蛮貿易を奨励し、キリスト教の布教を認めていた
大友宗麟に、ポルトガル副王より大砲が贈られました。
日本人が初めて手にした大砲を
宗麟公は国崩しと命名、自国内で量産したものを
ここ臼杵城に据え付けていました。

この「国崩し」が臼杵城防衛の上で重要な役割を果たしたのは、既出の通り。
大友氏が誇った大砲の一部は仇であった島津氏の手に渡り、
明治維新後に靖国神社に献納されたと伝わるそうな。

「豊後の王」・大友宗麟公もう一つの拠点、臼杵城。
2年ぶりに改めて歩いてみると、その堅牢さ、
守りの工夫を再確認することが出来ました。
次回は城の最重要部・本丸へ!
城の象徴だった天守の跡、海へと通じていた裏手の現状を
お伝えします。
それでは!

コメント

こんばんは。

臼杵城はやはり立派な城ですね。
北海道の記事、楽しみに待っています。

No title

こんにちは。
コメントありがとうございます。
難攻不落の城と色付いた桜、素晴らしい
組み合わせでした。

明後日あたりから北海道までの道中をアップ
出来るかと思うので、少々お待ちください。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。