さて、今回から次のステージへ移るという事で、改めて
種明かし私が現在居りますは、北の大地・北海道の中でもさらに
北端近くの
日本海に浮かぶ離島・
利尻島!(りしりとう)
海に囲まれ、その清澄なる海原から獲れる海産物、
(利尻昆布が著名!)
「利尻富士」の異名を取り、急峻な頂部から緩やかに下がる稜線が美しい
利尻山に代表される大自然に抱かれた、
小さくも魅力に溢れた土地でございます。
今現在私にとっての「生活の場」となっているこの島の細部は
現在抱えているネタが片付き次第じっくり取り上げて参る所存ですが、
その前にそこへ至る旅程を
ご紹介!まずその初回となります今回は、西の商都・大阪のシンボルとして
広く親しまれている
大阪城!「太閤さん」によって築かれ、徳川泰平の礎として大改造された
巨大城郭を巡って参ります。
関西~九州間を結ぶ「阪九フェリー」でおよそ11時間30分、
到着日は関西国際空港(関西空港)での
飛行機撮影に明け暮れ、
(中継地点としての利用を除けば)2年ぶりに降り立ちました・・・

大阪の地!人口およそ272万9000人、面積225.21k㎡、合わせて24の
区に分けられた、言わずと知れた
西日本最大の都市古代から「難波津」として国内外への水運の拠点として栄え、
安土桃山時代に太閤・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)公によって
城下町が開かれた大坂(当時)の地は、江戸時代には物資の集積・
流通拠点として
天下の台所の異名を取るまでに発展します。
そして時が流れ「平成」から「令和」へと至らんとする今日でも、
首都・東京に次ぐ第2の都市として、また活発な経済活動が行われる
商都として、国内外より多くの人々が集い賑わいを見せています。
そんな大阪の街のシンボルにして、近代都市として発展していく上での
出発点となった場所が・・・

天下の名城・
大阪城(大坂城)
一向宗(浄土真宗)の本拠地として10年以上に亘ってあの
織田信長を苦しめた
石山本願寺の跡地に
天正11(1583)年、天下統一を推し進めていた
羽柴秀吉(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉)によって築城が開始されました。
中心となる本丸に高さ約39mの
天守を戴き、
周囲を2重3重の廓と
水堀、さらに城下町で囲った大城郭は、
秀吉その人が死去する慶長3(1598)年まで工事が続けられ、
総面積
約400万㎡にも及ぶ壮大なものでした。

そんな大坂城と豊臣家の栄華に翳りが見え始めたのは、
徳川家により
江戸幕府が開府されたから。
西国の一地方大名に落ちながらも「天下様」としての家格を誇る
豊臣家と徳川幕府との間に次第に緊張状態が高まり、
慶長19(1514)年冬と慶長20(1515)年夏の二度に亘って
繰り広げられた
大坂の陣を経て豊臣家は
滅亡へと至り、
絢爛豪華な天守も城もろとも
焼け落ちてしまいました。
こうして廃墟と化していた大坂城ですが、その地理的優位性と、
西国に睨みを効かせる拠点としての重要性に目を付けた幕府によって
直轄化、翌元和6(1620)年から寛永6(1629)年まで
10年に及ぶ大工事の末再建・改修され、
日本屈指の城として甦りました。
こうして江戸時代を通して「幕府第2の本拠地」、「西国監視の拠点」として
重要な位置を占めていた大坂城ですが、
明治維新の混乱や第2次大戦の戦火によって大部分の建造物が
焼失「大阪城公園」として整備された現在は、二箇所の城門、5基の櫓、
二つの蔵、天守直下の井戸屋形が現存し、そのほとんどが
重要文化財指定を受けています。

本丸の周囲を固める西の丸西北隅、
西外堀に面した石垣上に佇立する
乾櫓(いぬいやぐら)
江戸幕府による改築工事の初期、元和6(1620)年に建てられた
城内最古の建造物2層建てで、西・北両面をカバーするL時型の造りが特徴的。
この建物も
重要文化財に指定されています。
設計に当たったのは備中松山藩や近江小室藩の藩主を務め、
「遠州流」として名の残る茶の湯や建築、作庭、書道等武士として、
また文化人として多才を発揮した
小堀遠州(こぼり えんしゅう)
彼は大坂城の普請に
普請奉行(ふしんぶぎょう、
築城に当たって土木工事を担当する役職)として関わっており、
昨年発見された「大坂城を将軍家光、もしくは大御所秀忠の
居城に
すべき」という提言の記された手紙(義父・藤堂高虎 とうどう たかとら宛て)は、
大きな話題を呼びました。

関西は4月の半ばを迎えようかという時期ですが、まだまだ
花盛り
可憐な花々が、咲き誇ります。
西外堀をしばらく歩くと、城の
大手口が見えて来ました。
こちらの写真に写っているのはいずれも現存建築物で、左手が
千貫櫓(せんがんやぐら)、
右手が城門を兼ねる
大手口多聞櫓(おおてぐちたもんやぐら)となります。

大手口の護りを固める
千貫櫓江戸大坂城の櫓としては、「乾櫓」と同じ元和6(1620)年の築で、
こちらも
重要文化財2層2階、内部は内室と武者走り(戦時に武士が走り回ったことからそう呼ばれる。
天守や櫓内の外側に面した廊下)で構成され、建物外面に窓や狭間、
石落としを配した実戦的な造り。
一方で寺社建築の様式を採り入れた装飾屋根・
唐破風(からはふ、
矢印で示した部分)を用いた装飾性も兼ね備えています。

折り重なるように連なる美しい石垣の上に建つのは、
六番櫓南外堀に面し、城の南面を固めていた櫓群の貴重な
生き残り改築工事末期の寛永5(1628)年に建てられた、2層2階の櫓。
これももちろん
重要文化財幸いにして倒壊こそ免れたものの、昭和20(1945)年の空襲と
同25(1950)年のジェーン台風で大きな被害を受けており、
同41(1966)年に行われた解体修理では、
木材交換を伴う
大規模な修復工事が行われたそう。

さあ、いよいよ城の正面入り口に当たる
大手口の前までやって来ました!
一見するとただっ広い通路の様に見えるこの場所ですが、
実は
土橋(どばし)という立派な城の構成要素の一つ。
堀の一角を敢えて掘り残して通路とすることで、敵に破壊される危険を防ぎ、
守兵の出撃にも利用可能な
攻撃的な備えとされています。
大坂城内には他にも京橋口・玉造口にこの「土橋」が架けられていました。

土橋から望む
水堀と石垣。
驚くほど高く、緩やかな傾斜を描きながら立ち上がる
石垣は、
総延長約12km、推定50万~100万にも及ぶ石材を用い、
高さは最高約32m。これは日本の城郭建築でも
最大規模だそう。
3期に及ぶ築城工事に際しては、西国や北陸から64家もの大名家が
幕府下命の
天下普請として動員され、
廃城となった京の伏見城や加茂の山々、
六甲山、
瀬戸内海の島々から石材が切り出され、ここ大坂城へ運ばれました。
一方の
水堀は最大幅90m、
鉄砲戦いにも対応し、敵を容易に寄せ付けない幅が確保されています。
これに空堀を併用し石垣と組み合わせることで、大坂城は
攻防一体となった
防御態勢を構築していました。

いよいよ城の入り口・
大手門を潜ります!
城外側、土橋に面しているのは、
大手一の門外側をシンプルに、内側に防水用の屋根を設けた
高麗門(こうらいもん)という形式。

大手口内は、城の出入り口(虎口 こぐち)を石垣や土塁、塀で囲い、
敵の侵入を防ぐとともに一の門が突破された際には周囲から攻撃を加える、
桝形(ますがた)となっています。
外側を向いた塀は、大手一の門に押し寄せる敵を防ぐためのもの。
一見地味ですが、実は
重要文化財
壁面には鉄砲や矢を射掛けるための穴・
狭間(さま)が開けられています。
塀だけでなく石垣にも狭間を設けた二段構え。
多人数戦闘を意識した備えでしょうか。

狭間からの眺め。このように大手に押し寄せる敵勢を狙い撃つ構えが
作られていました。

大手口内でも目を引くのが、渡櫓下の巨石群。
左から約23畳敷(37.9㎡)、城内第5位の大きさを持つ
大手二番石、
約29畳敷(47.98㎡)、城内第4位の
大手見付石(おおてみつけいし)、
約22畳分(35.82㎡)、城内第8位・
大手三番石となっています。
この部分は当初肥後熊本藩主
加藤忠広(かとう ただひろ)が担当、
のち筑後久留米藩主
有馬豊氏(ありま とようじ)が改築し、
石材は
瀬戸内海の
小豆島(しょうどしま)から運ばれたと推定されています。

大手見付石と
桜。
石垣上部に迫らんばかりの大きさ。

桝形の奥は、大手二の門を兼ねた櫓門・
大手口多聞櫓寛永5(1628)年に建造され、天明3(1783)年に落雷によって
焼失。
幕末期の嘉永元(1848)年に再建されました。
高さ14.7m、同種の城郭建築の中では
最大規模を誇り、
周囲の塀や櫓とともに
重要文化財に指定されています。

多聞櫓台も、堅牢な石垣によって固められています。
さて始まりました、北海道を目指す旅!
その前の寄り道となる大阪城ですが、予想外に見所が多かったため、
今回から
計4回に分けてお届けします。
前回の臼杵城に続いて趣味全開な内容ですが、
生暖かい目で
見てやって下さいませ。
次回は大阪城パート2!
期間限定公開されている一部の櫓、その内部に
大潜入!平和な時代に造られながらも実戦を想定した造りを細部まで観察!
その後は天守閣を望む西の丸庭園で、ゆっくり「大阪名物」を味わいます。
それでは!

春4月、
サクラサク。
参照:大阪城天守閣公式サイト
「大阪城の櫓」パンフレット
週刊朝日MOOK「歴史道」vol.3
大阪城内説明書き
大阪市統計情報