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大阪城4~埋もれた歴史の上に~

利尻島でのお仕事が本格稼働となり、逆に書き込む機会が
絶賛減少中の、ac802ftkです。
さて、「寄り道」と言いつつ4度に分けて伝えて参った大阪城も、今回で一区切り。

地下深くに閉じ込められた歴史の痕跡に触れてから
いくつかの見所を辿りつつ、城外を目指します。
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プチラッシュアワー状態と大阪の眺めを楽しみ、地上へ戻って参りました。
改めて見上げてみると、天守閣の大スケールに驚かされるばかり。
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天守閣の受付を待つ長~い列の折り返し点付近に、
さり気ない注目スポット。
これは重要文化財・金蔵(きんぞう)
またの名を「かねぐら」、「かなぐら」。
江戸時代、幕府の金貨銀貨を保管していた蔵で、言うなれば幕府直営の金庫

宝暦元(1751)年、この場所から延びていた長屋状の建物を
切断・改造して造られました。
高さ約5.8m、面積93.11㎡。
内部は大小2つの部屋から成り立っており、大きな部屋に出納用
小さな部屋には非常用が蓄えられていたそう。

それを聞くと俄然想像が膨らんで来ますが、もちろん狙われやすい用途の
建物であることは幕府も百も承知
床下からの侵入を防ぐ石敷き、入口は二重の土戸+鉄格子戸の三重構造、
小窓は土戸+鉄格子、床下の通気口にまで鉄格子を嵌めるという徹底ぶり

どうやら侵入者が入り込んだ記録もないようで、鉄壁の防御は功を奏していたようです。
やはり夢は無かった
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天守閣の近く、厳重に施錠された穴が姿を現します。
金明水」の様な井戸かと思いきや、さにあらず。
実はこれこそが、「大阪城の秘密」を解き明かす

昭和34(1959)年に実施された「大坂城総合学術調査」。
本丸の地下7mほど掘り進んだ先で、謎の石垣が発見されました。
その築造様式は現在の「大阪城」のものとは異なる、自然石を未加工のまま組み合わせて
積み上げた野面積み(のづらづみ)
おまけにその表面には、火災で焼かれた痕跡が残されていました。

江戸時代以前にこの付近に在った城塞で、大規模な火災に見舞われている。
そう、戦後になって発見されたこの石垣こそ、大坂夏の陣で焼け落ちた
豊臣大坂城の石垣だったのです。

大坂の陣にて豊臣家は滅び、日本全土から徳川家に対抗・敵対し得る勢力は一掃された。
しかし大坂の街を築き、統一天下に相応しい華やかな文化を現出させた
太閤・秀吉への人気はいまだ根強い。
そこで徳川家が大坂城再建に際し踏み切ったのが、
豊臣家の威光と財力の象徴たる城を丸ごと覆い、その上から
さらなる大城郭を築こうというものでした。
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こうして各地の諸大名を動員しての「天下普請」の元、
豊臣大坂城は破却の上から盛り土で覆い隠され、
石垣2倍、堀2倍をスローガンに日本最大規模の高さを誇る
高石垣と、現天守閣をも凌ぐ高さ約58mもの大型天守が出現。
「豊臣家の城」は、忘却の彼方へと追いやられてしまいました。

以来400年近く。幕府の目論見は見事に成功し、「街のシンボル・大阪城」は
徳川時代の姿のまま、人々に語り継がれています。
今の大阪城に豊臣大坂城の痕跡は全く残されていないのです。
歴史の真実とは、かくも非情なもの。まさに「勝てば官軍」である。
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本丸内の櫓跡から、広壮なる水堀と天守閣を望む。
この高き防壁の中に、かつて天下の春を謳歌した城が眠っている。
まるで長い歴史の中に放たれた一瞬の輝きを覆う、「棺」のよう。
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本丸を出て、お隣の山里丸(やまざとまる)へとやって来ました。
本丸方向には、徳川時代に築かれた巨大な桝形。
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この城に残された戦いの痕跡は、江戸初期だけでは有りません。
こちらは山里丸桝形の石垣に残された、機銃掃射痕

太平洋戦争の末期、3月~8月に掛けて大阪は実に8度に亘る空襲を受けました。
ここ大阪城も陸軍施設や軍需工場が置かれていたことから標的とされ、
改築以来の建造物が失われた他、石垣の崩落やひずみといった被害が起きています。
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子供たちが無邪気にはしゃぎ回るこの広場。
実は何気なく置かれているのはただの石では無く、石垣造成に当たって
普請に参加した大名家の家臣やお抱えの石工らが、石集めや石積みの過程で
文字や文様を刻み込み、主君の家紋を入れることで担当した大名家を示した刻印石

この刻印石広場、築城400年記念として石置場や
周囲の川筋から出土した物、あるいは石垣修復の際に取り出されたものを集めて
造成されています。
注意深く見てみると加賀前田家や出雲堀尾家、備前池田家といった
大名家の刻印が示されており、ここで刻印探しをしてみるのも面白い。
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歴史の痕跡を、もう一つ。ここ山里丸は大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた
豊臣秀頼(とよとみ ひでより)・淀殿(よどどの)ら豊臣家一党が
自害を遂げた場所。

世が徳川の色に染まり行く中で戦いを挑むも敗れ、城と共に斃れ伏すその心中、
如何ばかりか。
敗れし者達の無念と痛みを想い、合掌。
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山里丸の先、切込接ぎの石垣が進路と視界を遮る桝形から、
本丸エリアを後にします。
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山里丸と二の丸を繋ぐ極楽橋(ごくらくばし)
豊臣大坂城でもこの名が付けられた橋が架けられ、徳川家による再建後も
幅8mの木造橋が水堀を越えていました。

徳川時代の橋は明治維新の際に焼失してしまいましたが、昭和40(1965)年、
橋脚や主桁を鉄筋コンクリート、上部を木造に擬宝珠高欄を戴く
伝統技法としたハイブリッドで再建されました。
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ぐるっと本丸外縁を周り、桜門付近まで戻って来ました。
本丸東面の石垣群は城内一の高さを誇り、この辺りで最高32mにも達します。
城の縄張り(設計)を担当した築城名人・藤堂高虎(とうどう たかとら)が培った、
技の極致。
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最後に二の丸南面に残る櫓、一番櫓を堀向こうから見物。
寛永5(1628)年創建、数度の改修を経て現存する櫓で、これも重要文化財

共に城域南部を固める「六番櫓」と同形式で、かつては南面石垣上に
計7基もの櫓がずらりと並んでいたそう。
周囲の建築物が失われた今となっては、直線部分や櫓台から
長塀や櫓群の姿を浮かべるしかありません。

とうとう大阪城ともお別れの刻。
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桜並木を楽しみながら、街の喧騒へと戻ります。

歴史の表舞台に立ち、一度灰燼と化しながらも姿を変え、甦った大阪城。
勝者と敗者、光と影を浮き彫りにしながら、佇立する高石垣と
高天に輝く天守閣が、移ろい行く大阪の日常と繁栄を見守っています。

次回はついに西日本を離れ、北の大地を目指す船旅へ!
京都府北部の港町・舞鶴から北海道・小樽へと至る海の路を、
2回に分けてお届けします。
それでは!
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屋台で買った大判焼きは、ここ大阪で武名を上げた名将にあやかった六文銭入り!
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中身は「極楽橋」のような、つぶあんとこしあんのハイブリッド!

参照:大阪城天守閣公式サイト
    城内説明書き

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。