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札幌市時計台~ビルの谷間に鐘の音響く~

今日(もう昨日か)は朝から雨が降り続き、利尻島の大地に久しぶりの
潤いをもたらしています。
職場の「先輩」によればこの時期の降雨は花々の発育には欠かせないとか。
、二つの要素が有ればこそ生命が育つ。
その点では、人間も花も同じかもしれませんね。

さて、北海道北部を目指す前にぶらり巡る札幌市内。
前回は北海道の「歴史そのもの」と言っても過言では無い
旧道庁本庁舎、通称「赤レンガ庁舎」を見て参った訳ですが、
今回は札幌観光の定番!札幌市時計台を訪問!

北の学び舎・北海道大学の源流となる白亜の時計台を見物。
その根幹たる時計の仕組みについても、今記事で取り上げて参ります。

お昼ごはんを摂った「北海道ラーメン奥原流 久楽(くら)」から歩いてちょっと
(途中道を間違えながら、何とか到着)、やって来ました・・・
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札幌市時計台!
札幌市+時計台=ココ!ってくらいの定番スポット。
周囲をビル群に囲まれた大都市のド真ん中に突如として現れる、
白亜の壁と赤い屋根が映える洋風建築。

この建物が産声を上げたのは明治11(1878)年、札幌農学校(現北海道大学)の
演武場(農学校生徒の兵式訓練や入学式・卒業式といった行事の場)として
建てられました。
設計に当たってはクラーク博士の後任として農学校教頭を務めていた
ウィリアム・ホイーラー教授が図面と指示書を作成。
開拓使工業局営繕課によって設計案がまとめられました。

時計が無い状態で始まった演武場にシンボルとなる時計が
設置されることとなったのは、開拓使による指示から。
(発案者は当時の開拓使長官・黒田清隆と言われています)
これを受けて落成の翌年にアメリカ・ハワード社より
機械時計が送付され、横浜を経由して札幌に届きます。

しかし、ここで時計が大きすぎて鐘楼に収まらないという
大問題が発生。
開拓使札幌本庁を始めとする関係者は対策に苦慮し、ホイーラー教授の責任問題にまで
発展します。

しかしホイーラー教授の釈明と説得の末鐘楼の改修が決定。
明治14(1881)年5月から8月に掛けて改修工事が行われ、
2年ほど待ちぼうけを食らった時計も無事に収まり、現在の姿が整いました。
今の時計台の趣も、ホイーラー教授と開拓使の人たちの熱意と工夫の賜物なのでしょうね。
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農学校の中心的施設として学生に愛される存在となった演武場。
明治25(1892)年に札幌市街を襲った大火では、学生たちが屋根に登り、
降りかかる火の粉から建物を守ったそうな。

やがて札幌農学校に移転計画が浮上。
現在の北海道大学所在地が移転先に選ばれ明治36(1903)年に新校舎が完成、
演武場は学校施設としての役目を終え、市民からの保存要望に応え札幌市に貸与され、
同39(1906)年には買い取り額1,000円(現代の貨幣価値で380万円」で
正式に札幌市の所有となりました。

同年北2条通の建設に伴い現在地へと移築
後に度重なる大火を受け、屋根材が柾(まさ)材から鉄板へと張り替えられています。
その後は幾度かの変遷を経て市立図書館として利用されていましたが、
昭和41(1966)年に図書館が移転
翌年に復元工事を実施。昭和45(1970)年の重要文化財指定によって
近代札幌史を象徴する建造物として大切に保存・管理され、今も清澄なる鐘の音を
街に響かせています。

開館時間・・・8:45~17:10(最終入館17:00)
休館日・・・年始
入館料・・・200円
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鐘楼部分をアップで。屋根庇によって守られた文字盤、その裏側に130年余を経ながら
現役で稼働を続ける機械式時計が収められています。
鐘楼の下には、開拓使との関係を窺わせる五光星
そのさらに下に「演武場」の額が光ります。

鐘楼とともに時計台の「アイコン」となっている白亜の壁ですが、
昨年6月~10月に掛けてお色直し
創建時の姿に近い、「緑がかったクリーム色」に仕上がっているそうです。

早速中へ入って参りましょう!
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洋風の照明塔が美しい玄関から入り、受付で入館料を払って室内へ。
入って左手は、複数の展示コーナーが集合。

日本と世界の時計台の資料や札幌の歴史写真を調べたり、札幌来訪を記念して
写真を登録できる映像展示コンピューター検索
札幌市内や道内の歴史的建造物をパネルで紹介した文化財コーナー
札幌や北海道の歴史と文化財を書籍を通して知ることができる資料コーナー
札幌市時計台と世界の教会や時計台の鐘の音がヘッドホンで聴ける、
世界の鐘等の各コーナーが終結。
時計台や札幌市、道内の文化財についてより深く知ることが出来ます。

また1階部分には時計台限定グッズも販売する売店も併設。
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1階奥は、本格的な展示室。農学校時代は博物標本室と呼ばれていたそう。
館内でもっとも大きく取られた室内には、学生たちが野外実習で採集した標本類が
陳列されていました。
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当時の札幌農学校を再現した模型。
画面中央少し上、木立を背にした場所に演武場(現時計台)が見えています。
周辺には北講堂(左上)や観象台(その奥)、図書館(演武場の陰)、
科学講堂(右上)といった施設が存在していました。

手前の大きな建物は学生たちが起居した寄宿舎
その隣には復習講堂が置かれています。
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当時使用されていた英語の教科書。
札幌農学校(現北海道大学)は明治9(1876)年、農業教育機関、並びに
高等教育機関としての役目を帯びて開校しました。
開校当初に学び舎へと足を踏み入れた1期生は24名という数でしたが、
当時人口3千人とまだまだ発展途上だった札幌の街にとって、
国内でも比較的早期に誕生した教育機関の存在は、大きなトピックとなったことでしょう。

開校に当たってマサチューセッツ農科大学学長であった
ウィリアム・スミス・クラーク(初代教頭)、
同校卒業生のウィリアム・ホイーラー(演武場設計者)とデビット・ピアース・ペンハローの
3氏を始めとする11人を講師として招きました。

学校の教科もまたマサチューセッツ農科大学に範を取り、
専門分野となる農業だけでなく知育、徳育、体育にも重点を置いた
広範な教育方針が採られていたそうな。
また英語教育にも力が入れられ、授業はアメリカ人教師の下全て英語
生徒は講義内容をノートに書き留め、寄宿舎に戻って清書に直すという
作業を行っていました。

こうした徹底した指導方針と復習・自習を促す規則は、
後に優れた英学者を輩出する土壌となりました。
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こちらは明治10(1877)年、クラーク博士の後任として着任した
ウィリアム・ブルックス教授を歓迎した晩餐会の料理の再現模型。
鹿や白鳥(!)の肉、タラのソテー、コーヒー、アイスクリームという、
本格的な洋風メニュー。

初期は寄宿舎の食事も洋食メニューとなっていましたが、
後に財政上の理由から和食へと変更されています。
洋食時代のメニューには「パン、バター、肉・魚の類2品、1日置きに
ライスカレー」とあり、学生たちも西洋料理に触れていたことが窺えます。
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農学校時代の卒業生たちからは、各分野で名を成し、成功を収めた人物が
多数輩出されました。

教育家、思想家、農学博士として学界に名を広め、国際連盟事務次長も務めた
新渡戸稲造(にとべ いなぞう、2期生、「旧5千円札の人」)、
明治・大正期キリスト教の指導者として活躍し、聖書研究・社会活動に勤しんだ
内村鑑三(うちむら かんぞう、2期生)、
世界的な植物学者・宮部金吾(みやべ きんご、2期生)、
教育者で昨年の山陰旅で取り上げた(11月29日記事参照)「20世紀梨」の
命名者・渡瀬寅次郎(わたせ とらじろう、1期生)といった
人達が、国内、あるいは海外で活躍しました。

お次は2階へ向かいます。
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2階の大部分は、学生たちが兵式訓練に励んだ演武場だった場所。
その一角には武器庫も置かれていた様子。(物騒だ)

教会建築のような状態のホールは、明治32(1899)年に宮部金吾を始めとする
卒業生3名に博士号が授与された際の祝賀式催行時を
再現したもの。
室内に並べられた長椅子や机も札幌農学校当時の品を再現しており、
当時の学生たちの気分が味わえます。
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ふと左手に目を向けると、長椅子に腰掛け思索に耽った様子のクラーク博士像が!
隣に座れば偉大な教育者との2ショット撮影も可能で、
時計台を代表する撮影スポットとなっています。
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撮影スポットその2、ステージ上に飾られた五稜星アーチ
札幌農学校当時、入学式や卒業式等の行事の際に使用されていた装飾品を
再現したもの。
モデルはもちろん開拓使を象徴する微章から。
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2階の奥、四角く区切られたこの部屋こそが、時計台のシンボルである
時計機械を収めた時計塔
高さ19m、柱間3.3m。1階から最上部の屋根まで到達する空間を
5層に区切り、時計本体は4階に設置されています。

時計機械はE・ハワード社製。
明治11(1878)年アメリカ・ボストン港より出荷され翌年8月に札幌着。
明治14(1881)年に時計塔に取り付けられ、以来138年。
一部のピンを除いて設置当時のまま稼働している、
国内最古の塔時計です。

この時計自体が時計台とともに重要文化財に指定されている他、日本機械学会より
機械遺産第32号に認定されています。
側面のガラス窓からは、時計を駆動させるための重りと鐘を撞くための重りが
収められた木枠を覗くことが出来ます。
それぞれ50kg、150kgという大変な重さで、落下の衝撃を防ぎ建物や時計を守るために、
底に札幌市内を貫通する豊平川で採集された玉石が敷き詰められています。
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時計本体を見ることは、調整に当たる職員さんを除いて叶わないものの、
その見本となる時計が2階に設置されています。

それがこちら、「時計台」のものと同じE.ハワード社で製造された塔時計で、
製造番号は3867番
1928年頃までニューヨーク州コーンウォールの絨毯製造工場に据え付けられていましたが、
後発の電気時計に置き換えられ、長年放置されていました。

しかしE.ハワード社の元時計技師、ダナ・ブラックウェル氏と北海道工業大学教授・
西 安信(にし やすのぶ)氏の二十数年に亘る探索の末発見に至り、
修復の後時計台に寄贈されました。
直径167cmの文字盤は時計台のものと同サイズで造られており、
内部構造が見やすいようガラスによって作られています。
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側面から。右側に見えている箱が時計本体。
中にはワイヤーに吊るされた重りが入っており、この重りが重力の作用で降下。
この時ワイヤーが巻き付けられている歯車が回転し、
そのエネルギーで時計が動く、という仕組み。

これは重錘式(じゅうすいしき)と呼ばれる駆動方式で、
ここ時計台の塔時計も同じ方式で駆動しています。

一方規則正しく揺れる振り子の先には、歯車を一定のリズムで回すための
脱進機(だっしんき)という機構が取り付けられています。
この脱進機は「アンクル」と「ガンギ車」という部品で構成されており、
アンクルの先端が歯車状のガンギ車の歯先に食い込んだり離れたりすることで、
時計本体の歯車を少しづつ回しています。

逆にアンクルの先端がガンギ車を離れる際、ガンギ車の歯先で
アンクルが左右に押されます。
この「押される力」が振り子に伝わることで、振り子が規則正しく
揺さぶられる、という仕組み。

文章だけでは分かりづらいかと思うので、イラストで解説。
塔時計の仕組み・改

これらの機械が相互に作用することで、製造から140年近くを経ても
極めて高い精度での動作を可能としている。
まだアナログが幅を利かせていた時代、職人たちの知恵と工夫に驚嘆です!

この後閉館時間が迫ったため、退出。
丁度時刻は夕方5時頃。
少し待つと、鐘楼から時限を知らせる鐘の音が聞こえてきました。
ビル街に波の様に広がる澄んだ音色。
かつてはより遠くまで届いたであろうその音に、心洗われたような気がしました。

札幌のシンボル・時計台。
ビルの森の中で小さく、どこか遠慮がちな姿にガッカリする方も多いと聞きますが、
ピカピカに磨かれたビル群の合間で昔日のままに佇む姿は、
逆にとても愛らしく、趣あるものに思えました。

ともあれ感じ方は人それぞれ。皆さんも時計台を訪れること有れば、
あるいは訪れたことの有る人も、改めてこの文化財の姿を見つめ直し、
明治以来変わらず奏でられる音色に耳を傾けて頂ければ、と思います。

次回はいよいよ「日本最北端の街」、稚内へ!
その玄関口、これまた「日本最北端の駅」へと至る鉄路と、
過酷な環境に耐えつつ長距離を走破する車両をご紹介します。
それでは!
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この日の晩ごはんは、泊まったホテル(リッチモンドホテル札幌大通)の近くの
にくの彩 むらや(にくのいろどり むらや)
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和牛卸店直営のお店で、国産和牛のカルビ丼(1,200円)を制覇!
タレが染み込んだ自慢のお肉、頂きました!

参照:札幌市時計台 公式サイト
   館内説明書き

コメント

こんばんは。

札幌へは3度行ったことがあります。
そして時計台へも行きました。
ところが、建物の内部へ入ったことはありません。
時計台や札幌農学校にまつわる、興味深い話を読ませてもらいました。
ありがとうございます。

No title

こんにちは。
コメントありがとうございます。
札幌市へは幾度か足を運ばれているのですね。
時計台は趣のある外観ですが、中の展示も
面白く、澄んだ鐘の音色はとても聴き心地の良い
ものでした。

お役に立てたようで、何より。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。