
今日再び「過去記事の画像がいつのまにやら消去される
→その隙間に最近の記事で上げた画像が挿入されている」という問題を発見し、
該当記事を消すか、消さざるかで頭を悩ませる、ac802ftkです・・・
一度にたくさんの画像を上げるため容量オーバー?
当時のデータは残っていないし・・・困った。
ともかく気を取り直して、進めて参ります。
今回はとうとう「日本最北端の街」・稚内に到着!
その玄関口であり、もちろん「日本最北端の駅」である
稚内駅、
及び駅周辺の模様を取り上げて参ります。
道内鉄道網の中心・
札幌駅から396.2km、途中6分の遅延を受け
(線路内に鹿が居たため徐行を強いられた)、5時間16分もの乗車時間の末
辿り着きました・・・
稚内駅!道北の中心・稚内市の玄関口。
ここまで険路を走破して来た車両はそのまま折り返し13時1分発の
「
サロベツ4号」となり、元来た道を引き返して行きます。


ホーム上には主要駅からここまでの距離が表示されています。
最果ての終着駅感溢れる光景。
西大山駅(にしおおやまえき)は、薩摩半島を走る
指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)の駅で、
ここ
稚内駅と対を成す
JR最南端の駅海峡2つと本州を挟んで隔てられたその距離、実に
3,068.4km沖縄本島に沖縄都市モノレール(ゆいレール)が開業するまでは、日本最南端の駅としても
知られていました。(現在はゆいレール・赤嶺駅が該当)
短いホーム一本、ローカル線用気動車が発着する無人駅からは、
「薩摩富士」の別名で呼ばれる秀峰・
開聞岳(標高924m)が望める事でも有名。
そして、
稚内駅に来たならやっぱり・・・

この看板は外せません!
北緯45度25分03秒、
日本最北端の駅に到達です!鉄道ファンならば一度は訪れたい「最果ての駅」を制覇!実に感無量。

遥か南方より繋がって来た鉄路も、ここで終端。
日本全国に鉄道駅は数あれど、やはりこの駅の
特別感は別格♪
稚内駅駅舎。
駅の開業は昭和3(1928)年、稚内と樺太を結ぶ「稚泊航路(わくはくこうろ)」利用客のために
当時の稚内駅(現
南稚内駅)から延伸された臨港線・
稚内港駅としての
開業でした。
翌昭和4(1929)年にここを終着駅として正式に「稚内駅」へと改名。
元の稚内駅は「南稚内駅」と改称し、現在に至ります。
昭和20(1945)年、「
レンガ庁舎」の回でも取り上げた通り、
ソビエト連邦軍(
ソ連軍)が当時の日本領・
南樺太へ侵攻同地に敷設された鉄道網も、日本の手を離れることとなりました。
以来ここ
稚内駅が、「日本最北端の駅」として君臨し続けています。
現在の駅舎は平成23(2011)年に開業した
4代目映画館や飲食店・土産物店、観光案内所、高齢者住宅・「ふれあいの里 絆・風華」等を
併設した複合商業施設・
キタカラ KITAcolorと
一体となっています。
(ちなみに映画を観ようと思ったら、
利尻島からフェリーでここまで来なくては
いけません 笑)
さて皆さん、駅舎の画像を見て、何か不思議に思うことは有りませんか?
駅舎の正面になにやら・・・

線路と車止めが突き出しています!
実はココ、昭和40(1965)年から平成23(2011)年の現駅舎完成まで利用された
先代駅舎に置かれていた、
元・日本最北端の線路現在の駅舎とホームは建て替えに伴って南へ
若干移動しており、
微妙~に距離が縮まっています。
かつての線路の象徴とも言えるレールと車止めは
JR北海道から
稚内市へと寄贈され、こうしてモニュメントとしてかつての位置に置かれています。
つまりこちらが
真・日本最北端の線路
そして!線路の痕跡がもう一つ。
「真・日本最北端の線路」からさらに北へ伸びる2本の線は、
連絡船待合室へと伸びていた
桟橋線の跡樺太陥落まで存在していた廃線跡の一部は現在遊歩道として整備され、
かつての「道内最北の路線」の痕跡を示しています。

散策を始める前に、お昼ごはん。
駅から歩いてスグのところで営業中の、
ひとしの店麺類、定食、丼ものと、腹の膨れるメニューなら多様に取り扱う定食屋さん。
名物はかに飯。お弁当も販売中。
店舗は駅舎移転と駅前広場の整備に合わせて移転・新築されたそうで、
駅舎同様ピッカピカ!

さて・・・ここで「海産物王国」・北海道らしいメニューを大胆に!
頼んだのは
かにラーメン、一杯2,000円。
昔ながら、あっさり醤油スープの上を埋める、
カニ、カニ、カニ!
定番のツメや脚は丁寧に殻が剥かれ、そのままお口にin!
さらに同伴のぎょうざにまでカニの身が詰め込まれた、まさに
かに尽くし日本の国民食・ラーメンと海の幸を同時に楽しめる至福の一杯、頂きました!
今回はここから稚内と北方の歴史を物語る遺構をご紹介。

駅から歩いて10分ほど。
宗谷湾の潮風に耐える巨大建造物。
これは
稚内港北防波堤ドーム昭和6(1931)年着工、同11(1936)年に竣工。
この付近に置かれていた連絡船待合室、並びに桟橋線の終点・「稚内桟橋駅」利用者を
厳しい強風や荒波から守るために建設された防波堤。
全長427m、高さ13.6m。
昭和20(1945)年に既出の通り稚泊航路は廃止となって本来の用途は失われたものの、
周囲の建物や施設が撤去される中で防波堤は残存。
昭和55(1980)年には改修工事が完了し、壮大美麗なる姿を今に留めています。
「ドーム」という通称の由来はローマの柱廊を思わせる特徴的な形から。
観光名所として、また歴史的建造物として、
北海道遺産に認定されています。

側面から。大きく弧を描いた造作が印象的。
画像左手、階段を上がった先は
宗谷湾となっています。

ドーム内。端から端まで427mの間に、
70本もの列柱が建ち並んでいます。
その光景はまさに古代ローマかギリシャの遺跡のよう。
どこか日本離れした、壮大な眺めが展開されています。
かつてはこの空間に
稚内桟橋駅のホームが置かれ、
ドームに隣接して現在は車道となっている場所に、樺太と本土を往来する乗客たちを乗せた
蒸気機関車が発着していました。

反対の端まで到達しました。列柱の下、少し盛り上がったところがホームの跡でしょうか?

ドーム横、港に面して設けられた柵。
古風な造り、同じ柵がドーム上方に建てられていることから考えて、
防波堤構築当時のものでしょうか?

今では防波堤以外昔日を思わせる物は残されてはいませんが、
その頃を物語るモニュメントが2つ。
こちらは
稚泊航路記念碑かつてここ稚内港と南樺太・大泊港を9時間で結び、
この地域特有の濃霧や結氷、流氷と闘いながら樺太と本土の往還を支え続けた
国鉄稚泊連絡船その業績と労苦を記念し、昭和45(1970)年に建てられた記念碑。
右手の壁面には昭和7(1932)年就航、稚泊航路廃止まで残存し、
その後青函連絡船で活躍した砕氷船・
宗谷丸に取り付けられていた
号鐘が吊り下げられています。

稚泊航路記念碑の後ろに置かれた、蒸気機関車・
C55型49号機の動輪。
昭和12(1937)年製造、説明書では稚泊連絡船への接続列車を牽引していたとのことですが、
車籍によると
そのような事実は無かった様子。おいおい。
ただ戦後稚内発着の急行「利尻」には使用されていたそうで、
その縁で昭和47(1972)年の引退後はここで保存されていたという。
しかし海辺という立地から塩害による腐食が激しく、
後年惜しくも
解体されてしまったそうな。
今では錆び付いたままの動輪が残るのみですが、かつてここを行き交った
蒸機たちの雄姿、轟音と汽笛の響きが聞こえてくるよう。

かつて海の向こうへ船出したであろう岸壁。
今は
利尻島・
礼文島(れぶんとう)への定期航路が発着します。
ついに降り立った「日本最北端」。
今回はその先端に当たる「宗谷岬」訪問は叶いませんでしたが、
利尻島滞在中に
一度足を運んでみたいなぁ・・・
次回は稚内市の街はずれ、夕日の名所・ノシャップ岬へ!
日本海や沖合の島嶼を望む絶景ポイントで、
天体が織り成す美しい光景を目にします。
それでは!
参照:HOKKAIDO LIKERS
キタカラ KITAcolor公式サイト
Wikipedia
機関車データベース デゴイチよく走る!
るるぶ情報版 北海道