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宗谷岬公園~花咲く丘で平和の祈りを~

やって参りました、「日本最北端」・宗谷岬!
念願叶い最果ての地を踏みしめた前回に続きまして、
今回は「最北端の地の碑」を含む周辺一帯に整備された公園、
宗谷岬公園を歩きます。
宗谷岬4
ついにやって来た「日本最北の地」。
多くの観光客を乗せたツアーバスはこの「最北端の地の碑」や「柏屋」、
周辺の店舗で一時留まるのみですが、レンタカーを借りてまで
やって来た一人旅。それで終わらせてしまってはもったいない

という事で、海沿いからちょっと離れたところにも足を延ばしてみましょう。
宗谷岬公園
「日本最北端の地の碑」や「間宮林蔵」像のある辺りから
背後の高台へは、車両も通行可能な坂道か、こちらの階段から
上ることとなります。
海辺と高台の間はなかなかな高低差が付いており、斜面に取り付けられた階段も
結構な傾斜となります。

ここを上って行くと・・・
宗谷岬公園2
記念碑が建ち並ぶ一角に出ます。
この辺り一帯、海沿いの施設も含めて宗谷岬公園として
整備されており、海を見下ろす丘陵上には花々が植えられ、
散策する人々の目を楽しませてくれます。
宗谷岬公園3
そんな高台上でもっとも存在感を放っているのが、鳥が翼を広げたかの様な
こちらのモニュメント。
これは祈りの塔

昭和58(1983)年9月1日、ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港を
離陸し、アラスカ・アンカレッジ経由でソウル・金浦空港(きんぽくうこう)を目指していた
大韓航空KE007便(ボーイング747-200型機)が、予定していた航路を逸脱して
ロシア領・サハリン上空を領空侵犯

迎撃に当たったソ連軍機によるミサイル攻撃でKE007便はサハリン沖へ
墜落し、日本人28名を含む乗員・乗客269名全員が亡くなるという
事件が起こりました。(大韓航空機撃墜事件
KE007便が航路を逸脱したのは「慣性航法装置」の不具合に起因するものとされていますが、
その事態へ至る直接的要因は不明)

事故後に全国より浄財が寄せられ、それを基に遺族会によって建てられたのが、この塔。
「遭難者の慰霊」と「世界の恒久平和」を願い建立された塔の形には
事件の真相究明と真の平和実現を
鶴のように首を長くして待つ
という思いが込められており、
塔の高さ19,83mは事故発生の年(1983年)、16枚の羽は遭難者の母国の数(16ヶ国)、
素材となった269枚の白御影石は犠牲者の数(269人)を表しています。

予期せぬ死を迎えた犠牲者の方々への想い、恒久平和への願いが
込められた塔。
世界にその羽音が広がるのは、何時の事となるのでしょうか。
宗谷岬公園4
「祈りの塔」の近くに吊るされた、二つの鐘。
右の屋根付きの建物に収められているのが世界平和の鐘

昭和29(1954)年、日本の一個人が「戦争の悲惨さ」、「核廃絶の尊さ」を訴え、
当時の国連加盟国65ヶ国のコインとを鋳造した鐘を
ニューヨークの国連本部に寄贈しました。

その思想を広めんとして作られた同種の鐘、その第1号が当地の鐘であり、
世界81ヶ国の人々から寄せられたコインやメダルを鋳造して
昭和63(1988)年に造られました。
重さは365kg、高さ60cm。実際に打つことも出来
曇りの無い、それでいてどこか哀し気な音色を響かせています。

一方左手の鐘は子育て平和の鐘と言い、
稚内市民の総意による10円玉募金と世界98ヶ国より寄せられたコインやメダルを基に、
「世界平和の鐘」と同じ昭和63(1988)年に造られました。
そこには「未来を担う子供たちの幸せ」と、「家庭・地域・世界の永遠の平和」という
願いが込められています。
宗谷岬公園5
「祈りの塔」や二つの鐘の周囲を彩るのは、イソマツ科の宿根草・アルメリア
(和名・ハマカンザシ

ヨーロッパ、北米、千島の海辺に生息する植物で、
ここ宗谷岬公園では「祈りの塔」建立を機に、「世界の恒久平和」と
「大韓航空機撃墜事件の犠牲者の冥福」、「オホーツク海の安全」を願い
宗谷漁協婦人会によって植栽されました。

鮮やかな濃ピンクが、印象的。
宗谷岬公園6
「平和」を願う記念碑が並ぶ中で、公園内には「国境」の歴史を
感じさせる施設も。
それがこちらの旧海軍望楼

日本とロシアの間で締結された「樺太千島交換条約」以後国境地帯となっていた
宗谷地域では、日露戦争を前に緊張状態が高まっていました。
明治35(1902)年に建てられたこの望楼には、宗谷海峡の監視と、
当時最強と謳われたロシア・バルチック艦隊への警戒・監視という
重要任務が課せられていました。

戦争終結と南樺太の帰属によってその役割は終わったものの、
以後無線通信基地、太平洋戦争中は対潜水艦監視基地として終戦まで使われました。
幾度か大火に見舞われた稚内市内では数少ない明治の現存建築物であり、
市の有形文化財指定を受けているのは、皮肉な限り。
宗谷岬公園7
望楼側面に取り付けられた階段を上がれば、2階部分の前に出ることが出来ます。
施設内は開放されておらず、外から覗き込むことしか出来ません。
既に稼働当時の物は取り去られており、宗谷海峡を睨んでいた
窓の中には、ガランとした空間が広がるばかり。
宗谷岬公園8
しかし望楼の前に立ってみると、ここに軍の監視施設が置かれた理由が良く分かる。
前面いっぱいには、軍民の船舶が行き交ったであろう宗谷海峡
宗谷岬公園10
眼下の集落や・・・
宗谷岬公園11

宗谷岬公園9
「日本最北端の地の碑」付近も良く見えます。

日露国境の緊張感こそあれ平穏を保っている宗谷海峡ですが、
かつてはこの海域も戦場でした。
昭和18(1943)年、日本海軍と米潜水艦「ワフー」(SS238)との間で5時間にも及ぶ
激戦が繰り広げられ、「ワフー」は撃沈
米兵80名が宗谷岬沖12マイル(約19km)の地点に眠っています。

また終戦直前の昭和20(1945)年7月には米潜水艦よりの雷撃を受けた
稚泊航路連絡船(ちはくれんらくせん)・「宗谷丸」の盾となって宗谷防備隊所属、
「第112号海防艦」が爆沈
乗組員152名が犠牲となりました。

これら宗谷海域に眠る兵員や戦闘の犠牲となった人々の霊を慰めるため、
平和の碑宗谷海域海軍戦没者慰霊碑といった
記念碑が「旧海軍望楼」横に建てられています。
宗谷岬公園12
海を背に力強い眼差しで「宗谷丘陵」を見つめているのは、あけぼの像
昭和46(1971)年、北海道に於ける牛乳生産量100万t
飼育乳牛50万頭突破を記念して建立されたもので、
海辺の「間宮林蔵」像と同じ彫刻家・峯孝(みね たかし)氏の作。

この像はこの地域で広く営まれている「天北酪農」(てんぼくらくのう)の夜明けを表現しており、
実り少ない畑作から酪農への転換を経て発展して来た当地の農業を
象徴しています。

背景に海を控えて佇む姿が、何だか絵になる♪
宗谷岬公園13
こちらは『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』『アメニモマケズ』等の
童話や詩作で知られる文人・宮沢賢治の記した一文を写した
宮沢賢治文学碑

東北地方と縁深い賢治ですが、大正12(1923)年8月、稚内港から
当時開業間もない稚泊航路連絡船で樺太・大泊(現コルサコフ)に到着。
そこから鉄道で栄浜(現スタロドゥプスコエ)へ向かい、散策を楽しみました。

前年に妹・トシを失った悲しみの中で過ごした旅の途上で、
賢治は「銀河鉄道の夜」を着想した、とも言われているそう。
また連絡船の船中で詩・宗谷(一)(二)を作成、
そこから見た宗谷岬と樺太(サハリン)の情景を綴っています。

この碑はそのうちの「宗谷(二)」の一節を抜き取り、昭和61(1986)年に建立されたもの。
かつて北方警備に従事した宗谷要塞銃砲兵連隊宗谷会
人たちの手で、僚友たちの慰霊と平和への祈念として、平和記念碑
命名されています。(石碑背面に詳述あり)

詩の部分には
「はだれに暗く
緑する
宗谷岬の
たゞずみと
北はま蒼に
うち唾る
サガレン(サハリン)島の
東尾や」
とあります。

戦いと悲劇、悲嘆の痕。
数多の哀しみを吸い込みながら、今日も海はさめざめと揺れる。
この場所の記念碑に象徴される海峡の平和が、これからも続くことを願って。

さて、ややしんみりとしたまとめとなりましたが、次回は「宗谷グルメ」を堪能!
これでもかとばかりに旨味押し寄せるステーキに舌鼓を打ち、
丘陵地帯と海を同時に眺める贅沢な景観を楽しみます。
それでは!

コメント

おはようございます

宗谷岬とその周辺には、厳しさや悲しさなどの歴史がいくつもあるのですね。
そして冒険の地でもありますね。
多くの旅人が、この地に立って、いろいろ考えをめぐらしたでしょう。
厳しい環境の下で咲くアルメリアの赤の色には癒されますね。
目にしみます。

こんにちは

コメントありがとうございます。

以前どこかの記事でも述べましたが、町には
それぞれの歴史や人の営みがあり、その上に
今の魅力的な風景や風土がある。
ここ稚内もまた、旅人を惹き付けてやまない
「何か」があるのでしょう。

願いを込めて植えられたアルメリアの花。
その「心」を理解した上で改めて見ると、
より鮮やかなものに思えて来ます。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。