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礼文町郷土資料館~離島の歴史と文化を学ぶ~

「最北端の離島」・礼文島の魅力を追い求める日帰り紀行、
今回から3回(予定)に亘りまして、島の地勢と気候、文化、
太古の昔から現代へと至る足取りを取り上げた博物施設、
礼文町郷土資料館を探索!
礼文の姿に出土品・遺物の数々からに迫ります!
礼文町郷土資料館
「炉ばた ちどり」で昼食を摂ってから、フェリーターミナル近くへ移動。
船までの時間をどう過ごすか思案していたところで見つけたのは、
三角形と円形を取り入れた造形が面白い、礼文町町民活動総合センター

礼文町民、ならびに来島者に開かれた公共施設で、各種イベントに利用可能な
「大ホール」、大小二種の「研修室」、その他「会議室」や「工芸室」、「調理室」等、
利用者の目的と用途に応じた設備が用意されています。
愛称はピスカ21
「礼文町郷土資料館」も、この建物に入居しています。
礼文町郷土資料館2
こちらが礼文町郷土資料館の入口。
「ピスカ21」のロビーに設置された受付で入館料(大人1名300円)を支払い、
いざ展示室内へ!

施設情報
開館期間・・・5月~10月
開館時間・・・8時30分~17時
休館日・・・5月、10月の月曜日
       6月~9月は無休
入館料・・・高校生以上300円、団体240円
       小・中学生150円、団体120円
       就学前幼児は無料、その他優待あり
アクセス・・・香深港フェリーターミナルより徒歩2分
礼文町郷土資料館3
入口付近を飾るのは、礼文島を取り巻く美しき自然、
その景観を切り取った写真たち。
こちらは四季の移ろいに合わせて異なる表情を見せる、桃岩の姿。

「桃岩展望台」とは別の場所で撮られたその姿は、確かにのよう。

お次は季節ごとの礼文をテーマとした、礼文島‘春夏秋冬’フォトギャラリー
礼文町郷土資料館5
雪解けを経て、花咲き誇る芽生えの
礼文町郷土資料館4
太陽の輝きと緑の眩しさが増す、
礼文町郷土資料館6
黄金色のススキに覆われる
礼文町郷土資料館7
白銀に包まれる冬と、季節の移ろいに合わせて変転する
島の様子が分かります。
礼文町郷土資料館8
「春夏秋冬フォトギャラリー」を抜けた先は、来島気分を盛り上げ、
「思い出の一枚」作りに貢献してくれる、記念撮影コーナー

礼文島を写したパネルを背景に出迎えてくれるのは、
牙を剥き出し、堂々たる巨体を見せつけるトドと、
同様のポーズを取りながらも柔和な顔付きが愛らしい、アザラシのはく製。

台に上がって同じ画面に収まれば、「北海の帝王」気分を味わえる!(?)
礼文町郷土資料館9
大きく口を開けたトド。今にも野太い鳴き声が聞こえてきそう。
礼文町郷土資料館10
記念撮影コーナーの奥では、「花の浮き島」・礼文島を彩る花々を紹介した映像が
流されています。
モニターの前にはイスも並べられており、小休止にもピッタリ!

壁面のパネルでは、礼文島の気候や生態系、島の成り立ちが
紹介されており、より深く島のことが学べます。
壁際に置かれたはく製は、イヌワシ(左)とゴマフアザラシ(右)。
アザラシの子どもは、雪のような白い体毛と、にこやかな表情が可愛らしい♪

ここで展示パネルより拝借し、礼文島成立の経緯を解説。
今からおよそ1億5000年前、地上に恐竜が闊歩(かっぽ)していた中生代(ちゅうせいだい)の頃、
土砂や火山灰、マグマ等が堆積した浅井海底が隆起し、
島の原型が出来上がりました。

時は下って約1万7000年前以降の完新世と呼ばれる時代、
大陸から離れて移動と変動を繰り返した日本列島が現在の形となり、
広大な窪地に水が流入することで日本海が誕生。
隆起した大地は周囲を海に囲まれた離島となりました。

およそ200万年前には、近傍の海底で起こった火山活動により、
利尻島が出現。
今に至る利尻・礼文地域の形が出来上がりました。

島の基盤となっているのは礼文層群と呼ばれる
6層から成る地層で、古くは1億年以上前、白亜紀のもの。
これら太古からの地層は島の中央~西側、丘陵地帯と断崖絶壁が集中する区域に広がっており、
最も古いものは、西海岸にて特徴的な姿を晒す地蔵岩付近とされています。

生命の誕生と発達、営みを目にして来た礼文の地こそ、
「生き証人」と言えるのではないでしょうか。

ここからは礼文島に於ける人の営みを表す、
資料コーナーへ。その第一歩は、縄文時代から。

人類史の初期に当たる旧石器時代より、人の痕跡が刻まれていた礼文島
荒ぶる海を渡り人が定住するようになったのは、今から約4000年前
縄文時代中期後半頃と考えられています。

島内では縄文中期のものを中心として合計14カ所の縄文遺跡が発掘されており、
人が農耕に至る前、道具を用いながらもより原始的な暮らしを送っていた頃の
生活の実態に触れられます。
礼文町郷土資料館13
礼文島内に於ける主な遺跡を記したパネル。
古くは旧石器時代から近世アイヌ民族まで、長きに亘る営みの痕が窺えます。
本州とは全く歩みを違えた時代区分、文化の変遷も面白い。
礼文町郷土資料館14
こちらは島内東海岸の北部、上泊地区(うえどまり)地区の
上泊3遺跡より発見された石器群。

大正11(1922)年に発見され、昭和58(1983)年道路工事の際に発掘された
遺跡からは、島内最古の集落跡の他、土器や石器といった生活器具が見つかりました。
礼文島に人の生活が根付いた最初の痕跡。
その文化的・歴史的価値から、
出土品の一部は礼文町有形文化財に指定されています。
礼文町郷土資料館15
上泊3遺跡出土の縄文土器。
縄文中期、東北地方北部から北海道に掛けて分布し造られた、
円筒上層式土器(えんとうじょうそうしきどき)という形式に則って
製作されています。

「縄文」の由来となった縄目の文様を施した円筒形に、
上部にはより複雑で装飾的な文様が付けられているのが特徴。
ガラス越し、逆光の照明が映り込む中でも(これ以上の撮りようがありませんでした 汗)、
複雑な文様が際立ちます。
礼文町郷土資料館16
こちらは島の北部、久種湖(くしゅこ)近傍の砂丘に眠る
船泊遺跡(ふなどまりいせき)からの出土品。

明治期からその存在が知られていた遺跡ですが、
戦後に行われた発掘調査では船泊上層式土器と呼ばれる形式の土器が出土。
平成10(1998)年の調査では30基近い墓と埋葬品が発掘され、
特に大量に出土した貝製品とその製作道具は、製作跡としては全国屈指の規模を誇り、
礼文島に居住した人々が貝製品の加工と製作に
優れた技術を持っていたことが判明しています。

また島に居住した人々が海に囲まれて閉鎖的な暮らしを送っていたかと言うと
そうではなく
島外から持ち込まれたヒスイや貝製品、道具によって北海道各地、
さらには本州にまで及ぶネットワークを持っていたことも明らかとなっており、
日本最北端の縄文遺跡という
立地条件や良好な発掘・保存状態から、出土品の一部が
国の重要文化財に指定されています。
礼文町郷土資料館17
当時の高度な製作・加工技術の一端を示すのが、こちらの貝平玉(かいひらだま)

ビノス貝という貝を加工して生み出された、
首飾り状の装飾品。
キッチリと大きさや形を揃え、艶やかなその仕上がりからは、
4,000年前とは思えぬ作り手の技巧と美的センスが感じられます。
これも重要文化財

完成品には研磨の度合いや直径の違いといった規格まで存在しており、
貝製品の製作が一つの「職業」として成り立っていたこと、
その「職業」に対して縄文の人々が技と熱意、誇りを持って取り組んでいたことが
窺えます。
礼文町郷土資料館18
こちらは貝製品の製作過程を分かりやすく示した展示。
まず第一段階となる打割(うちわり)で貝の厚い部分を石で割り、
材料を確保。
続いて第二段階の剥離(はくり)で素材の角を打ち欠き、
側縁を丸く整形。
第三段階の穿孔(せんこう)でメノウ製の錐(キリ)を使って
両側から穴を開け、
仕上げの第四段階・研磨(けんま)で側縁の凹凸を砥石で磨き、
完成!という工程だった模様。
礼文町郷土資料館19
貝製品作りの難しさを示すのが、製造途中で破断・欠損して投棄された破損品
船泊遺跡では完成品とともにこのような「失敗作」も多数出土しています。
礼文町郷土資料館27
作業場跡から出土した土器。
発掘された場所から察するに、貝製品の製作・貯蔵に用いられたのかも知れません。
いずれも重要文化財
礼文町郷土資料館20
語る肉体を持たぬ古の人々。その暮らしを探るのに最適なのが、
彼らが食したであろう動物や鳥類、魚介類等の骨。
トドやオットセイ、アザラシといった哺乳類からは、栄養分となる肉の確保の他、
毛皮の採集も目的としていたことが窺えます。

厳しい寒さをしのぐ衣服として、或いは交易の道具として用いていたのでしょうか?
礼文町郷土資料館21
こちらは魚介類の骨や貝殻。
ニシンやホッケ、カレイといったこの辺りでは定番の魚類、
貝製品の素材でもあるビノス貝、ウバガイ(ホッキ貝)、アワビといった貝類が
出土しています。
・・・今とあまり変わらない?
礼文町郷土資料館22
こちらの展示品は、礼文の人々と島外に住まう人々との、交易の証。
ヒスイやイノシシの牙、イモガイ等は、北海の離島では手に入らない品々でした。

写真右手、漁に用いる銛(もり)の先端に取り付けられた銛頭(もりがしら)。
黒曜石や海獣の骨で出来た先端部分と銛本体を繋ぐ接着剤には、
なんと国外産のアスファルトが使われており、
礼文の縄文人が極めて広範囲に及ぶ交易を行っていたことが分かります。

今ほど航海術の発達していない大昔。
宗谷の荒海を越えるのに艱難辛苦(かんなんしんく)が待ち構えていたであろうことは、
想像に難くありません。
礼文町郷土資料館23
とてもエコな暮らしを送っていた縄文人。
船泊遺跡からは狩猟で得た獲物の骨を再利用した、骨角器(こっかくき)が
発見されています。
骨斧(こっぷ)や釣針、、海獣の骨から作られた銛頭からは、
自然からの恵みを余すところなく活用し、大切に使い続けた様子が見えて来ます。
礼文町郷土資料館24
こちらも礼文島と島外との関わりを示す出土品。
右の二つが船泊遺跡出土、船泊上層式と呼ばれる、
船泊を代表例として縄文後期中頃に北海道北部に広がった土器の型式。

一方左の二つは形状や大きさがそれぞれ異なり、奥から手稲式(ていねしき)、
ウサクマイC式と呼ばれる、北海道南西部由来の土器。
これらはいずれも船泊遺跡から出土したもので、遠隔地の異なる型式で作られた土器が
同じ場所に埋まっていた、興味深い事例。
礼文町郷土資料館25
津軽海峡を挟んで本州と大きく異なる気候・風土を持つ北海道。
その特殊性は、われわれがよく知る歴史・文化とは大きく異なる発展を
北の大地にもたらしました。

本州以南では弥生時代と呼ばれ、大規模な農耕生活と集団生活が生まれた時代、
蝦夷地(北海道)では続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)という
縄文文化の流れを汲み、土器を作る文化が発達していました。

と言っても前時代そのままの狩猟を核としたものでは無く、
小規模な農耕やより複雑な文様を施した土器と言った、後の文化に繋がる生活も
営まれていたようです。

ここに展示されているのは左から道南地方道北地方
道東地方にて造られた土器で、それぞれ大きさや形、
文様が異なるのが見て取れます。
続縄文文化の土器はやがては類似した形状へと至ることとなりますが、
末期には海の向こう、サハリンからも土器が持ち込まれており、
後代道東・道北地方にて栄えたオホーツク文化へと繋がる
人とモノの移動が感じられます。

礼文島と北海道の足取りが学べる
文化施設、「礼文町郷土資料館」。
島の歴史と文化を辿るプチタイムトリップは、まだまだ続きます!
次回は1階の「縄文エリア」を抜け、2階展示室へ!
道東・道北にて独自に生まれたオホーツク文化、続く擦文文化(さつもんぶんか)の
実態に迫ります。
それでは!
礼文町郷土資料館26
撮影コーナーその2、縄文人の衣服や狩り道具・装飾品を再現した
なりきり縄文人衣装コーナー!
今と異なる質感の衣類を身に着ければ、気分はすっかり縄文人(?)

参照:礼文町教育委員会
    礼文町郷土資料館 パンフレット
                 解説パネル
    コトバンク

コメント

おはようございます。

私は旅行先にある史料館や資料館、さらには博物館などをできるだけ訪れるようにしています。
わたしも、ここ礼文町郷土資料館を訪れました。
ac802tfkさんの記事はとても詳しく記述されていて、そのときの記憶がよみがえります。

おはようございます

コメントありがとうございます。

訪問先の文化施設に立ち寄ることで、その土地の
文化や歴史をより深く知ることが出来ますよね。
郷土資料館もご訪問済みでしたか。
当記事を通して旅の記憶を追体験して頂ければ
何よりです。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。