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礼文町郷土資料館2~オホーツクから擦文、そしてアイヌへ~

職場の仲間と飲んで騒いでの飲み会明け、ぼーっとした感じでありますが、
つらつらと書き綴って参ります。
(私自身は夜から出勤の「半休」のため、影響は無し)

前回から礼文島の歴史と文化を「魅せて」くれる
「礼文町郷土資料館」を見て回っている訳ですが、今回はその第2回。
北海道の道北・道東地方で独自に発生・発達した「オホーツク文化」と
それに続く「擦文文化(さつもんぶんか)」、そして江戸時代に
和人(日本人)とアイヌ民族の間に交易と交流が交わされた時代を扱った、
展示の数々を見て参ります。
礼文町郷土資料館2-1
縄文時代を網羅した1階から、時代も進む2階へ。
階段を上ってスグのところで現れたのは、土の壁
と言ってもここは「資料館」、もちろんただの土壁ではありません。

これは島の北部、スコトン岬にほど近い漁港の町・浜中地区にて
発掘調査が進行中の浜中2遺跡(はまなか2いせき)から切り取られた、
遺跡包含層(いせきほうがんそう)の一部断面。
一番上が現代の層で、下へ行くに従って(ダジャレではない)時代が古くなって行きます。
礼文町郷土資料館2-15
線引きすると、こんな感じ。
時代ごとに堆積物の質や埋没量が異なるのが分かります。
特にオホーツク文化中期、およそ1000年前頃の地層には、
大量の遺物がハッキリと確認出来ます。
礼文町郷土資料館2-2
当時の住民が投棄したと思しき遺物がビッシリ詰まったオホーツク文化期の地層。
埋まっているのは動物や魚の骨、貝殻等。(残念ながら土器は無かった)
遥か昔の人々が暮らしていた痕跡が、目の前にある。
なんだか不思議な感覚。
礼文町郷土資料館2-3
階段上って右手が展示室を巡る順路。
一方左手には、無料提供されるコーヒー等が用意され、
礼文の花々を写したパネルを見ながら一息吐ける休憩スペース
1階展示室から続く円形の吹き抜けが、イイ感じ♪

一休みし、展示室へ戻ります。
続縄文文化の後に道北で発達したのが、オホーツク文化
北はサハリンから道北、そして道東地域へと至るオホーツク海沿岸地域で
広まった古代文化。
日本では古墳時代~平安時代に当たる時期に発生
(ただし地域によってズレ有り)し、
道内他地域の続縄文・擦文文化とも趣を異にしていたようです。

海獣(アシカやトド、オットセイ等)の狩猟と漁労を生業とし、
その拠点となる海沿いに集落を築いていました。
遺跡の出土品には動物の骨を再利用した骨角器(こっかくき)や金属製品など
東アジア由来の物も含まれており、普段の暮らしに加えて
遠方との交易路が開かれていたことが判明しています。
礼文町郷土資料館2-4
まず展示品のトップバッターを飾るのは、マッコウクジラの歯(!)を加工して作られた、
歯牙製女性像(しがせいじょせいぞう)及び動物像

これらはいずれも船泊湾沿岸の遺跡から出土したもの。
奥の女性像は大きなもので高さ約13cm、左側の女性は仮面を身に着け、
右手の女性は身体の前で腕を組み、まるで「祈り」を捧げているような様子。

同様の出土品は先ほどの遺跡包含層が剥ぎ取られた浜中2遺跡や
利尻島の亦稚遺跡(またわっかいせき)でも確認されており、
オホーツク文化に基づく暮らしがこの辺りで広く行われていたことを
感じさせてくれます。

一方動物像は長さ約10cmで巨大かつ危険なヒグマを表現。
礼文島には熊が生息していた事例も記録も有りませんが、
オホーツク文化では熊の頭骨を家の中に安置する事例もあり、
宗教的・祭祀的な性格を帯びていた可能性もあるそう。

これらの像は偉大なる歴史小説家の故・司馬遼太郎(しば りょうたろう)先生も
目にしており、著書・「オホーツク街道 街道をゆく38」にて
礼文島のヴィーナスとして紹介されているそうな。
かの司馬先生を唸らせるとは・・・礼文の先人、侮り難し。
礼文町郷土資料館2-5
オホーツク文化の下で生み出された土器たち。
初期は深鉢形、後につぼ形やかめ形、末期にはコップ形や椀形と
様々な形状に派生・進化して行きました。
また文様も時期によって違いがあり、人々が暮らしに合わせて
工夫を加えていたことが分かります。
礼文町郷土資料館2-6
オホーツク文化期の人々が使っていた釣針や鉤(かぎ)、漁に用いた刺突具等。
獲物の骨を再利用する事例は縄文文化でも見られましたが、
自然の恵みを活用する暮らしぶりはこの時代でも健在。
礼文町郷土資料館2-7
中にはこんな物も。
左はサメ、右は熊の歯。
熊が利尻・礼文地域に生息していないのは先ほど述べた通りですが、
これもオホーツク文化圏の何処かから運ばれて来たものでしょうか?

これらの品も詳細不明ながら道具として用いられていたようです。
礼文町郷土資料館2-8
ここにもあります、食生活コーナー
オホーツク文化の人々は先ほどの「遺跡包含層」を見ても分かるように、
大量の魚介類を食べていました。

彼らは季節によってニシンやホッケ、カレイ、サケやソイ、タラといった魚を
効率的に確保し、豊かな暮らしを送っていたようです。(なんか羨ましい)
海に根付いた生活を送るオホーツク文化の人々は、礼文近海とそこに集まる
獲物の習性に精通し、それを確実に仕留める術を持っていたのでしょう。
礼文町郷土資料館2-9
海からの恵みで豊かな生活を送っていた、礼文島のオホーツク民。
それは遺跡から見つかったイヌとブタの骨からも分かります。、

彼らは家畜としてこれらの動物を飼育し、イヌに対しては海産物を餌として与えていました。
礼文町郷土資料館2-11
生活水準が進んだ(と思われる)オホーツク文化ですが、
その時代でも海獣は食用の肉、交易品となる毛皮を得るために必要な
生活の糧でした。

島内東海岸の香深井(かふかい)1遺跡では出土した動物の骨の内、
実に6割がオットセイやアシカ、アザラシ等の海獣であり、
その半数近くが雄のオットセイで占められています。

一方浜中2遺跡ではトドや二ホンアシカの出土割合が高くなっていますが、
オットセイと合わせた割合は海獣の出土数の7割に達しており、
これらの品種がオホーツク文化の人々にとって欠かせないものであったことは、
想像に難くありません。

また彼らは海中を素早く動く海獣たちを捕らえる技術や道具、
知識を持っていたと推測されています。
礼文町郷土資料館2-12
こちらはオホーツク文化に続いて訪れた、擦文文化(さつもんぶんか)の出土品。

本州では飛鳥時代~平安時代に当たる時期、古墳時代の影響を受けた文化が
本州と接した北海道南西部から徐々に北海道全域へと広がりました。
宗谷地域では10世紀~12世紀頃に隆盛し、礼文島内でも
12ヶ所の遺跡が発見されています。

名前の由来となった擦文は、土器の表面に付けられた木目の跡が、
文様のように見える為。
礼文町郷土資料館2-13
擦文土器を間近から。
続縄文文化の流れを継いだような見た目の土器、
その上部にはくっきりと刻まれた文様が見て取れます。
礼文町郷土資料館2-14
江戸時代に描かれた礼文島の地図。
地形や地名が詳細に書き込まれており、近代文明発達前としては
なかなかな出来!

擦文文化の次に定着したのが、アイヌ民族
礼文町郷土資料館では、江戸時代の和人(日本人)とアイヌ民との関わりが解説されています。

幕藩体制を通して蝦夷地(北海道)を統治した松前藩は、
収入源となるアイヌとの交易の場として、領内各地に商場(あきないば)を設け、
そこで家臣とアイヌとの交易を許可することで藩の収入と家臣への俸禄(給料)としていました。

やがて家臣たちは商場での交易権と統治権を商人に預け、
代わりに商人から武士へ運上金(うんじょうきん。この場合は商人が
松前藩士に納める雑税)を納める形へと変化しました。
これが過去記事でも度々登場した場所請負制(ばしょうけおいせい)です。

礼文島は当初宗谷場所(現在の稚内市宗谷岬付近)の付属という位置付けでしたが、
明和2(1765)年に礼文場所として独立。
飛騨屋・武川久兵衛(たけかわ きゅうべえ)、阿部屋・村山伝兵衛(むらやま でんべえ)、
柏屋・藤野喜兵衛(ふじの きへえ、礼文厳島神社の勧請主)といった人物が
商場を仕切り、漁場の開拓と煎りナマコ等の海産物で収入を得ていました。

その労働力には出稼ぎ和人に加えて本来自給自足の生活を送っていた
アイヌ民も充てられるようになり、彼らの暮らしを変質させて行きました。
やがて和人の往来が活発になると、アイヌ民が免疫を持たない病気が流行し、
1800年代初頭に数百人いたアイヌ人口は約50年後には数百名まで減少。

残されたアイヌ民も、明治政府による同化政策により
独自の文化・風習、言語を失って行くこととなります。

縄文から続縄文、オホーツク、擦文、アイヌと数千年に亘って育まれ、
成長と進化を遂げて来た独自の文化。
しかしそれも江戸時代以降の日本人の出現と定住によって衰退・解体を余儀なくされ、
やがて近代日本、「北海道」の体制へと組み込まれて行くこととなりました。

彼らの流れを汲む人々は今も道内各地に散居されていますが、
先祖代々受け継いできた言葉や文化、風習を根こそぎ奪われた
当時の人々の心中、如何ばかりか。
強大な権力を持つ体制や集団が内包する、「負の側面」を思わずにはいられません。

次回は「礼文町郷土資料館」第3回、そして礼文紀行最終回
近代から現代へと繋がる文明と生活の発展と、現代礼文の暮らしを覗きます。
それでは!

参照:礼文町郷土資料館 解説パネル

コメント

こんにちは。

私は、幕末以降の北海道の歴史については、少し本を読んでいます。
とくに北海道の開拓の歴史に興味があります。
ですが、それ以前の歴史はあまり知りません。
今回の記事はとても参考になりました。

おはようございます

コメントありがとうございます。
自然そのままの広大な原野を開拓する・・・
苦労や困難、障害も多かった事は想像に難くない
ことではありますが、一方で「新天地」への夢と
希望、「日本の未来」への想いが原動力として
津軽海峡を渡った人たちの中に流れていたのかも
知れませんね。

私も礼文と北海道の文化と歴史を知ることが
出来ました!
こうして皆さんへアウトプットすることで、
お役に立てたならば光栄です。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。