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網走監獄~過酷な労役の実態に迫る~

網走市(あばしりし)
北海道東部、冬期には流氷押し寄せるオホーツク海に面した都市で、
面積は471k㎡、約17,800世帯に35,000人が居住しています。
名称の由来はアイヌ語由来で「ア・バ・シリ(我らが見つけた土地)」や「アバ・シリ(入り口の地)」、
「チバ・シリ(幣場 ぬさば=御幣を立て、神を崇め奉った場所)」などの言葉に
漢字を当てたもの。

そんな「海の街」を支えるのは、やはり水産業
冬は流氷に閉ざされるオホーツク海ですが、氷塊が運んでくる栄養分が
豊かな海産物を育み、カニやキンキ(オホーツク地域では「メンメ」と称する)が
名産品として揚がる他、市内各店ではクジラが食用肉として
供され、観光客や市民の舌を楽しませています。

網走市を囲む水資源は、海だけではありません。
市街地周辺には網走五湖と称される網走湖能取湖(のとろこ)・藻琴湖(もことこ)・
濤沸湖(とうふつこ)・リヤウシ湖が点在。
それらの淡水湖からは揚げ物にピッタリなワカサギが揚がる他、
特に濤沸湖は水鳥の住まう湿地が広がることから、国際的な保護対象として
ラムサール条約に登録されています。

網走の地を形作ったのが、
網走湖を経由してオホーツク海へと流れ込む網走川が山間部からの土砂を運び、
それによって出来上がった扇状地に市街地が広がっています。

海と湖と並ぶ景勝地が、
市街地の背後に広がる天都山(てんとざん)には
網走の歴史を伝える「博物館 網走監獄」や「北方民族博物館」、
季節を問わず流氷体験が楽しめる「オホーツク流氷館」といった文化施設が点在。
山上からオホーツク海湖沼群を望める景観とともに、
網走を代表する一大観光エリアとなっています。

今回からはそんな網走市の発展にも関わりの有る、「ある場所」をテーマとした
博物施設を巡って参ります。

11.29 Tuesday
網走監獄 1
道東旅、2日目の夜明けを迎えました。
眩い朝日に照らされた網走の街。
ホテル(オホーツク・イン)の客室からは、海沿いに広がる網走港の様子がよく分かります。
海の向こうに広がる山影は、自然の宝庫として知られる
知床半島のものでしょうか?

ホテルから徒歩5分ほどで辿り着く、網走バスターミナル。
網走駅網走湖畔を経由して観光施設が集まる天都山に入る観光路線、
観光施設めぐりのバスに揺られること約10分。
やって来たのが・・・
網走監獄 2
博物館 網走監獄

明治23(1890)年に「釧路監獄署網走囚徒外役所」として開かれてより120年あまり。
今なお重要な収監施設として機能する、網走刑務所
昭和48(1973)年より施設の全面改築が始まったのを機に、
市民の間から「網走監獄」時代より残る明治時代の建造物の保存運動が起こりました。

この活動が実を結び、天都山中腹に「博物館 網走監獄」が開館したのは
昭和58(1983)年のこと。
東京ドーム約3.5個分(!)の広大な敷地内に
移築、あるいは再現された建造物25棟が保存・展示されており、
中でも現存建築物のうち8棟が国の重要文化財に、
6棟が登録有形文化財に指定されています。

営業情報
定休日・・・無休
開館時間・・・5~9月は8:30~18:00
        10月~4月は9:00~17:00
入館料金・・・大人1,100円
        大学・高校生770円
        小・中学生550円
        その他団体割引・福祉料金・市民割引あり
網走監獄 3
駐車場を抜けた先、受付との間に架かるのが、鏡橋

今もなお「網走刑務所」と市街地との間を分かつ橋で、
現役で稼働しているのは5代目
「鏡橋」の名が付いたのは、出所者が「川面に我が身を映し、襟を正し、
心の垢を拭い落とす目的で岸に渡るように」との意で、誰とは無しに
そう呼ばれるようになったそう。

現在「博物館 網走監獄」に架かる橋は京都・五条大橋をモデルとして
架けられていた2代目をモデルにしており、
擬宝珠(ぎぼし)を頂いた和様の造りが特徴的。
網走監獄 4
橋の下には、網走川ではなく蓮を浮かべた池が造られています。
鏡橋から見た自分の姿は、果たしてどのようなものか・・・
皆さんも、覗いてみてはいかがでしょう?
網走監獄 5
受付で入館料を支払い真っ直ぐ進んだ先で来館者を出迎えるのが、
煉瓦門(れんがもん)
高さ4.5m、全長1,086m、150万枚レンガを用いて築造された、
監獄の正門

網走外役所(あばしりがいやくしょ)設立当時、そしてその後網走市街を襲った火災で焼失し、
再建された際には正門と敷地外周を囲む外塀は木造でしたが、
これらの建築物を永久的な物とするべく大正8(1919)年から5年の歳月を掛けて
レンガ造りの門が築かれました。

門の建設に当たっては、監獄敷地内より採取された軟石を自前で焼き上げ、
「自給自足」を実現しています。
(それらの工作と築造にも、囚人たちが充てられたことでしょう)
現在では昭和の改築で築かれた「2代目」が、刑務所の出入口を固めています。

門の両側に一カ所ずつ部屋が設けられていますが、左側が
受刑者に面会に来た人が案内を待つための面会人待合室
右側が看守が詰めて雨天時に門を出入りする人の監視を行い、
事務作業に勤しんでいた看守控え室
網走監獄 6
煉瓦門」の前にはサーベルを帯びた看守が立ち、
厳しい眼差しで門前を見詰めています。
展示施設となった今では「記念撮影スポット」と化していますが、
本物の看守の前で怪しい動きでもしようものなら・・・おお、恐っ!
網走監獄 7
煉瓦門」から真っすぐ進むと、これまた立派な建物が見えて来ました。
これは旧網走監獄庁舎

明治42(1909)年の火災で当初の建物が焼失した後、
同45(1912)年に再建されました。
ブルーグレーの外壁に和洋折衷の装飾を施した擬洋風建築で、
内部は監獄の責任者である典獄(てんごく)が過ごした「典獄室」、
職員が業務を行う執務室、会議室といった施設が集められた
管理棟として利用されていました。

博物館 網走監獄」には昭和63(1988)年に移築され、
国の重要文化財に指定されています。
網走監獄 8
庁舎玄関部分。
正面は上部にフィニアル(頂華)風の鬼瓦を頂く切妻破風、その下に
洋風の半円アーチとアーチ窓を設け、出入り口部分は入母屋破風として
アクセントを付けています。

瓦葺き屋根の各所にも飾り窓を空け、装飾性を高める工夫が見て取れます。
入母屋破風の車寄せ部分には、さり気なく警察マークも!
網走監獄 10
庁舎内部は、縦に大きな洋風窓が並び、明るい雰囲気。
このうち半分ほどが北海道における監獄の歴史や「網走監獄」の成り立ち、
各監獄で行われた囚人を用いた労役の内容と実態を解説した
展示・ライブラリーコーナー
もう半分ほどが「網走監獄」限定書籍やオリジナルグッズ、
北海道土産等を販売するミュージアムショップ
残りのスペースにコーヒーやスイーツが味わえる喫茶コーナー
設けられています。
網走監獄 9
庁舎入口正面に掲げられた銅像は、博物館を運営する「網走監獄保存財団」の
創設者・佐藤久(さとう ひさし)氏。

昭和55(1980)年、網走刑務所改築によって高まりつつあった
建築物保存の声を受け、佐藤氏は市民有志とともに法人を設立。
氏は当時78歳という高齢にも関わらず、
建築物の移築・復原に必要な借入金9億円の保証人になるなど、
財団の維持と保存施設開設に尽力されたそう。

貴重な明治の収監施設を残す「博物館 網走監獄」。
今や網走を代表する歴史・観光スポットをこうして目に出来るのも、
佐藤氏と網走市民の努力と情熱の賜物なのでしょう。

さて、ここからは北海道に監獄が建設されるに至った経緯と、
網走監獄の成り立ち、および請け負った主な建設作業をご紹介。
この先重い内容となって参りますので、ご用心を。

260年に及び天下を支配していた江戸幕府を打倒し、
新時代の幕を開けた明治新政府
国内の安定と近代化と並ぶ関心事(もしくは心配事)となっていたのが、
隣国・ロシア帝国が進めていた南下政策

当時北海道は日本人による本格的な統治が始められたばかりで、
隣国の脅威に対処するためには、早急な開拓と開発が必要でした。
そこで注目されたのが、当時内地では収まりきらないほどに膨れ上がっていた、
長期重罪囚政治犯

当時政府の要職に就いていた金子堅太郎(かねこ けんたろう)は
「元々彼等は暴戻(ぼうれい)の悪徒(あくと)であって、尋常の工夫では耐えられぬ
苦役(くえき)に充て、これにより斃れても、監獄費の支出が減るわけで
万(ばん)やむを得ざるなり」、すなわち
「元々重罪人たちは暴力的で道理に反した悪人であり、並みの工夫では耐えられない
苦しい労働に従事させ、それによって死者が出ても監獄費の節約になるので、
やむを得ないことである」という苦役論を提唱。

この思想が時の内務卿(現在の総理大臣相当)・山県有朋(やまがた ありとも)や
初代北海道庁長官に就任した岩村通俊(いわむら みちとし)といった
高官たちに引き継がれ、囚人による北海道開拓へと繋がります。

明治14(1881)年、北海道最初の集治監(監獄)として石狩川上流の
須部都太(すべつぶと、現在の月形町)に樺戸集治監(かばとしゅうちかん)が
開設されました。
初代典獄には監獄設置場所の選定を行う調査団長を務めた、
月形潔(つきがた きよし)が就任。

彼と看守たちの監督の下で囚人たちは土地の開墾、道路建設、
屯田兵屋(とんでんへいおく)や小学校舎の建設、河川堤防や波止場の工事に
従事させられました。

この樺戸集治監での成果を受けて現在の三笠市に空知集治監(そらちしゅうちかん)、
現標茶町(しべちゃちょう)に釧路集治監、帯広に釧路分監帯広外役所(後に十勝分監として独立)が
設立され、それぞれの地域や役割に応じた労役が囚人たちに課せられました。
網走監獄 11
そして明治23(1890)年、当時まだ人口631人の小集落だった網走に、
釧路監獄署の分監として網走囚徒外役所が設立されました。

その開設にあたってまず50名から成る先遣隊が網走入りし、
2ヶ月を掛けて仮の監獄と事務所を設置。
続いて釧路監獄署より1200名の囚徒と173名の看守が大移動の末に
網走に着き、ここに現在まで至る「網走監獄」と「刑務所」の歴史が始まりました。

彼等に課せられた最初の大仕事は、網走から北見・石狩間220kmを結ぶ
国道中央道路の建設。
網走外役所にはそのうちの162.7kmの工事が北海道庁より要請されました。

この中央道路は帝政ロシアの脅威に対抗するための国防道路として
工事が急がれ、彼等に与えられた猶予はわずか8ヶ月
この難工事を限られた時間で成し遂げるため
初代分監長・有馬四郎助(ありま しろすけ)は
工事に投入出来る1,115人の囚人を220名ずつに分け、
それぞれに工区を割り当てて、作業を終えた班から
次の作業区画を選ばせる
遅れた班には看守も含めて罰を与えるという方法で
競争心を煽りました。

その結果1区画12kmを1カ月、通常の4倍ものスピードで
工事は進み、定められた8ヶ月以内に工事は完工、
上川盆地とオホーツク地域を結ぶ大動脈が出来上がったのです。

一方で囚人たちに強いられた犠牲も、相当なものでした。
昼夜兼行の長時間労働、夏場の降雨と栄養失調から来る
脚気の続出、危険な作業と冬の寒さなどから
700mに一人に当たる211名が命を落とすこととなりました。
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現在国道39号と名を変えて車両が行き交う中央道路。
その開削と完工の陰には、名も知れぬ囚人たちの労役と犠牲がありました。
現在われわれが享受している「利便性」の裏に物語があったことを、
決して忘れてはならないでしょう。
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展示・ライブラリーコーナーの奥には、監獄の最高責任者である典獄が
日々の業務を執り行った、典獄室が保存されています。

洋風の家具や調度品、典獄が着用した制服が並ぶ中を歩き回っているのは、
網走監獄最後の典獄を務めた方。
彼の口から語られるのは、北海道に監獄が置かれることになった経緯と
網走監獄の成り立ち、そして悲惨な労役現場の実態。
(つまり展示物を簡単にまとめた内容)
「極悪囚を過酷な労役に安価に使役する」という国策の中で
「人として」抱いていた、複雑な心境が窺えます。
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典獄室の天井に残る、洋風の灯具。
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庁舎の残り半分ほどを占める、ミュージアムショップ
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陳列棚には、皮肉とユーモアが効いたオリジナルグッズが並びます。
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ミュージアムショップの一角には、開拓時代の北海道を舞台にアニメ化も成された
人気漫画、ゴールデンカムイとのコラボグッズも
置かれています。
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私自身は詳しく存じている訳ではありませんが、ここに並ぶ商品も
ファン垂涎の品々なのでしょう。

現在では考えられない背景・思想から始まった、北海道に於ける監獄の歴史。
広大な大地を切り開いた立役者は、望まぬままに過酷な労役へと駆り立てられた
囚人たちでありました。
ブラック企業」が問題視される現代。
物的に豊かになった時代にも、日本人の奥底に潜む問題点や精神性が
尾を引いているのかも知れません。

次回は「網走監獄編」第2回。
囚人たちを「監視する」側であった看守たちの暮らしぶりに触れ、
「動く監獄」と呼ばれた監獄外での宿舎であった「休泊所」の実態も
お伝えします。
それでは。
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網走監獄 20
一般市民が学び、触れる場である博物館。
こんな憩いの場も設けられています。

参照:網走市
    博物館 網走監獄 公式サイト
                 パンフレット
    館内解説板

コメント

こんばんは。

網走監獄の詳しい解説と写真、ありがとうございます。
昨年の夏に訪れたときのことが思い出されます。
私は、まず「囚人道路」に関心があって、網走監獄を訪れました。
その囚人道路についの記事は、2018/09/06にあります。
いま私たちが北海道を自由に旅行できるのは、「彼らの苦役」も大きな役割を果たしたことを忘れてはなりません。

こんにちは

コメントありがとうございます。
私も「網走市」を語る上で欠かせないであろう
監獄や囚人労役の歴史に関心があり、まずここを
訪れようと決めていました。
yamashiro94さんの該当記事も、拝見させて
頂きます。

<<いま私たちが北海道を自由に旅行できるのは、「彼らの苦役」も大きな役割を果たしたことを忘れてはなりません。>>
その通りだと思います。
現在のような機械化や効率化が為されていなかった時代、多大な犠牲と過酷な肉体労働が
あってこそ、今の道内交通が有るのだと
感じます。

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。