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宇都宮城 ~「悲運の名城」の実像に迫る~

2020年も半ばを過ぎ、今年も大量の雨を降らせた梅雨
間もなく明けようとしています。

わが故郷・九州を始め岐阜県・長野県等広範囲に亘って
大きな被害をもたらした
地球環境の変化も気掛かりなところですが、
今はただ亡くなった方々、避難生活を余儀なくされている人々の安寧と、
被害地域の一刻も早い復旧を祈りたく存じます。

さて、先月より進めております「栃木編」、
今回は舞台を栃木県都・宇都宮市へと移しまして、
宇都宮市発展の礎となった場所の一つ、
宇都宮城を取り上げて参ります。

1.9 Thursday
那須塩原バスターミナルから西那須野駅までJR関東バスで45分、
さらにそこから国鉄型通勤車・205系に揺られることおよそ40分。
やって参りました・・・
宇都宮城 1
栃木県都・宇都宮市!

栃木県中央部、関東平野の北端と、
日光連山の端部に挟まれた平坦地に開けた都市で、
416.85㎢の市域に北関東最大にして首都圏有数の、
51万8700人あまりの人々が暮らしています。

古代より下毛野氏(しもつけし)などの豪族が治めていた宇都宮地域。
その発展の要因の一つとなったのが、日光連山から続く山地の
南端に築かれた、二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)

後に下野国(しもつけのくに)一の宮と称される霊験あらたかな神社の
周辺に、門前町が出現。
中世以降には下野国の統治と二荒山神社の神職の任を兼ねる
宇都宮氏が居館を築き、
やがて防衛施設を兼ねた宇都宮城へと発展して行きます。

宇都宮の誕生に大きな役割を果たした宇都宮氏でしたが、
22代当主国綱(くにつな)の時、天下人となった豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に
より突如として改易され、長きに渡った
統治体制は終わりを告げることとなりました。

江戸時代に入ると奥州(東北地方)を睨む重要拠点として、
徳川家の譜代家臣が城主を歴任。
宇都宮の町は五街道のうち江戸と日光を結ぶ日光街道
奥州(東北地方)へと向かう奥州街道
追分(分岐点)ともなり、さらなる整備・拡張が進められて行きます。

一方下野統治の中心となった宇都宮城は、江戸幕府の開祖・徳川家康を祀った
日光東照宮へ参詣する歴代将軍の宿泊所となり、
単なる地方行政府に止まらない、大きな役割を負うこととなりました。

その重要性は街の発展とともに戦火をも呼び込み、
慶応4(1868)年に発生した戊辰戦争の折には、
旧幕府軍と新政府軍の間で繰り広げられた戦いによって
町の大部分が焼失

その後近代的な都市として、また陸軍第14師団が置かれ「軍都」として
再建された宇都宮の街でしたが、太平洋戦争末期の昭和20(1945)年、
米軍機による空襲で再度市街地が焼失
攻撃対象は軍事施設に止まらず、市民を含め
多数の犠牲者を出すこととなりました。

こうして時代の荒波に揉まれながらも栃木県の県都として、
北関東の地に君臨してきた宇都宮の街。
今回と次回記事では、
その誕生と発展に関わった二つの名所旧跡を巡ります。
宇都宮城 2
宇都宮を代表するグルメと言えば、宇都宮餃子!
戦時中、中国大陸に展開していた第14師団。
終戦後宇都宮へと戻って来た復員兵によって
広められた輸入グルメは、今では宇都宮のシンボル的存在となっています。

宇都宮駅前に設置された餃子像は、
テレビ東京で平成5(1993)~6(1994)年に放送されたテレビ番組・
おまかせ山田商会の番組企画で
「餃子の皮に包まれたヴィーナス」をモチーフに、
これまた宇都宮名物である大谷石(おおやいし)を用いて
制作されたもの。

確かに名画・「ヴィーナスの誕生」を思わせる構図ではありますが、
餃子の皮を被せただけで、随分シュールな絵面となっています(笑)
宇都宮城 3
今回は駅前の市営駐輪場でレンタサイクルを借りての、快適移動♪
城下町だった頃から市街地を貫く田川を渡り、
市役所方面へと向かいます。
しばらく進んだ先、市街地のど真ん中に現れるのが・・・
宇都宮城 4
宇都宮城
「下野国一之宮」・二荒山神社と並び、宇都宮発展の礎となった
重要な場所。
その築城時期は定かではないようですが、平安後期、
前九年の役の戦功によって下野国守護職と二荒山神社座主に任じられた武将・
藤原宗円(ふじわらの そうえん)が、
二荒山の近傍に居館を構えたのが始まりと言われています。
(宗円の先祖に当たる藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)による創始という説あり)

この藤原宗円を祖とする宇都宮氏によって、
これまた記録に残されてはいないものの
居館跡は中世城郭へと変貌。

戦国時代には関東一円に勢力を伸ばした北条氏、
さらに宇都宮氏の家臣でありながら反旗を翻した壬生氏(みぶし)や
皆川氏との間で宇都宮城も戦場となり、
たびたび落城と奪還を繰り返すこととなりました。
(これら敵対勢力の脅威を防ぐため、宇都宮氏は一時
多気城(たげじょう)に拠点を移していました)

戦国末に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が天下を統一すると、
天正18(1590)年にはここ宇都宮城に計20日間に亘って滞在。
その間奥州や関東の諸大名に対する所領の安堵・減封・改易等を定める
宇都宮仕置が行われ、
宇都宮氏は所領と権威を保つこととなりました。
宇都宮城 5
宇都宮城復元櫓の一つ、清明台(せいめいだい)

こうして下野国18万石の主として豊臣政権下でも
安定の地位を得たかに見えた宇都宮氏でしたが、
慶長2(1597)年に突如として改易(理由は諸説あり)
平安以来22代・およそ500年に及んだ
宇都宮統治の歴史は、予期せぬ形で幕を閉じることとなりました。

宇都宮氏改易後、蒲生秀行(がもう ひでゆき)を経て関ケ原合戦後に
徳川氏の譜代家臣・奥平家昌(おくだいら いえまさ)が入封。
以後幕末に至るまで、宇都宮城は譜代大名たちによって維持されることとなりました。

元和5(1619)年、宇都宮15万5千石の主として入封した徳川家重臣・
本多正純(ほんだ まさずみ)は、
城と城下町の大規模な改修工事に着手。

近世城郭として宇都宮城の機能と規模を拡張するとともに、日光街道・奥州街道の整備、
城下町の町割り、周辺寺社の街道沿いへの再配置、
城内に日光東照宮へ参詣する将軍の宿所としての機能を持つ
御殿を築くなど、現在の宇都宮市の礎としての形態を整えました。

そんな大功を成した正純でしたが、この大改修工事があらぬ噂を呼び、
正純謀反の風説が流布され、
元和8(1622)年に正純は改易されることとなりました。
この事件は宇都宮城釣天井事件と呼ばれ、
この城を語る上で欠かせない逸話となっています。(詳細は後述)

戸田氏の居城として幕末を迎えた宇都宮城。
しかし慶応4(1868)年、新政府側に与した城に対し、
大鳥圭介(おおとり けいすけ)、土方歳三(ひじかた としぞう)らが率いる
旧幕府軍が攻撃を敢行、一時城を奪取することに成功します。

間もなく新政府軍によって宇都宮城は奪還されますが、
この一連の戦いによって城内の多数の施設、
さらに宇都宮市街の8割に及ぶ範囲が焼失
城と城下町は多大な損失を受けました。

時代が明治となり軍部隊が下総国(現在の千葉県、および茨城県の一部)佐倉へ
移転すると、城は民間へ払い下げとなり、
城跡の公園化や建造物の破却が進行。

戦後には日本政府による戦災復興都市計画の策定によって、
城跡は市街地化。残った水堀も1970年代初頭までに
全て埋め立てられてしまいました。

かつて「関東7名城」の一角と謳われた名城も、
現在その痕跡は地中から出土した物を除いて一切なし
惜しい、実に惜しい。
宇都宮城 6
今われわれが目にすることが出来るのは、発掘調査を基に、平成19(2007)年に
防災公園を兼ねた宇都宮城址公園として
復元・整備されたもの。

資料を基に水堀や土塁(宇都宮城はほぼ石垣を用いない土塁のみの城でした)、
二基の櫓が復元され、今後「御成御殿」や
二つの城門の復元計画が進められています。

しかし「防災公園」としての機能を重視した結果、
城跡っぽくない水堀
土塁をぶち抜いたゲート
出現してしまっており、なかなかな残念キャッスルぶり。
それでいいのか、宇都宮市。
宇都宮城 7
ともあれ、せっかくやって来た城跡。じっくり散策と参りましょう。
城の南側、有事の際の脱出口となり、城にとっての弱点ともなる
裏口・搦手(からめて)から主要部分へ突入!

宇都宮城は伊達氏など有力な外様大名に睨みを効かせる
防衛拠点としての役割を帯びており、
北に対して厚く、南に対して手薄な防衛線が引かれていました。

写真のあたりはかつて二の丸裏門という城門が置かれた場所で、
戊辰戦争の際には城の弱点を突く形で旧幕府軍が侵入。
城は一時旧幕軍の手に落ちることとなりました。
宇都宮城 8
城域のほとんどを土塁で固めた宇都宮城ですが、
一部の重要部分には石垣が用いられていました。
これは二の丸と三の丸を結ぶ土橋(どばし、郭同士を繋いだ土の橋)を
固めるために築かれた石垣復元したもの。

一部だけの復元に止まってはいますが、
かつての城の姿を偲ばせてくれます。
宇都宮城 9
土塁上から見下ろした本丸跡は、まるでグラウンドのよう。
やっぱりがっかりキャッスルである。
宇都宮城 10
で、城の復元に当たって宇都宮市が
どこに力を入れたかと言うと、城外の監視と防戦を司る

現在宇都宮城公園には「清明台(せいめいだい)」と「富士見櫓」の
二基の櫓が木造復元されており、
こちらは本丸南西部の防備を担った、富士見櫓(ふじみやぐら)

二層瓦葺きの櫓で、江戸時代の記録によると
内部空間は三間(5.9m)×四間(7.9m)。
現代のような高層建築が無かった時代、この櫓からは
遠く富士山までもが望めたことでしょう。
宇都宮城 12
外から見た富士見櫓。
宇都宮城 13
屋根の頂部に聳える鯱(しゃちほこ)。
その下に載せられた鬼瓦には、城と城下町を整備した
本多正純公を意識してか、本多氏の家紋である本多葵
彫り込まれています。
宇都宮城 14
富士見櫓内部。
意外にも(?)この手の復元建築物にありがちな説明書の類は無く、
城郭建築に忠実に則った復元が行われています。
二階もしっかり再現されているようですが、
安全上の理由からか見学は不可
残念。
宇都宮城 15
窓からは武家屋敷・・・ではなく、宇都宮市役所が見えています。
「がっかりキャッスル」を造った張本人
宇都宮城 16
二基の櫓を繋ぐ土塀も、土塁側の手すりが目立つことを除けば、
なかなかな再現度。
宇都宮城 17
復元櫓二基目は、清明台(せいめいだい)
本丸北西部、水堀に突き出るように構えられた櫓で、
富士見櫓と同じく二層瓦葺き、内部は少し狭い
三間(5.9m)×三間半(6.9m)。

この部分の土塁は他より高く盛られていたようで、
天守を持たなかった宇都宮城に於いては、
天守の代用としての役割を帯びていたと考えられています。
宇都宮城 18
清明台内部。
数字通りやや狭めの造りとなっています。
城内側を簡素に、城外に対しては華美に見せた装飾も、
「天守」を思わせる出で立ち。
宇都宮城 19
清明台の傍には、本丸表側の出入り口であり、
日光東照宮へ参る将軍も通った清水門の跡が、
線で示されています。
その周囲は駐車場となっており、往時を偲ばせる痕跡は0。

城跡と呼ぶには余りにも残念な状況ですが、
この清水門と対となる南側の「伊賀門」、将軍の日光参詣時の宿舎となっていた
「御成御殿(おなりごてん)」の復元が計画されているそう。
宇都宮城跡が期待通り観光の目玉となれるかは、
宇都宮市の本気に掛かっている。
宇都宮城 20
一通り巡った後は、ポッカリ開いたゲート内に設けられた
宇都宮城ものしり館にて、宇都宮城と城下町の歴史を
より深く学習。
宇都宮城 21
ガラスケースに収められた、出土品の数々。
こちらは建築物に載せられていた屋根瓦

これらの瓦は出土時期によって豊臣政権下~江戸幕府開創に至る
慶長期(1596~1615年ころ)、17世紀前半、18世紀後半、
19世紀の4つの年代に区分されるそう。

宇都宮城復元に当たっては、本多正純が城主を務め大改修を施した、
17世紀前半頃のものが参考とされています。
宇都宮城 22
中世の堀跡より発掘された、大量のかわらけ(素焼きの土器)
宇都宮氏の当主や家臣たちが用いたであろう飲食・宴席用の
これらの土器類は、宇都宮城跡より出土した遺物では最古のもの。
その年代は13世紀、鎌倉時代にまでさかのぼるそうな。
宇都宮城 23
同じく堀跡からは、なんと木製の下駄まで発見されています!
なんでも堀の底に沈んだ泥には多量の水分が含まれているそうで、
それが木製品の保存を可能にしているのだとか。

まるで天然のタイムカプセル!
宇都宮城 24
こちらは宇都宮城本丸の復元模型
当時の本丸は外周に沿って5基の櫓を配置、
北に「清水門」、南に「伊賀門」を設けて周囲を固める郭と
本丸との通行と防衛に備え、中央に日光社参へ向かう将軍を
迎え入れる「御成御殿」が構えられていました。
(城主は二の丸にて生活していました)

現在復元されているのは本丸西側、「清明台」と「富士見櫓」を
結ぶライン。
一方東側は住宅や道路が広がり、3基の櫓を含めて
復元不可能な状態となっています。
宇都宮城 25
当時の宇都宮の町を再現した模型。
中世の宇都宮は、二つの河川に挟まれ寺社が点在する町でした。

そんな「信仰の町」を本多正純公は大改造
町の外れを通っていた奥州街道を付け替えて
城下に通すとともに、街道沿いに城下町を整備。
さらにあちこちに散在していた寺院を集めて
防衛線の一端とする、大土木事業を施しました。

また町の整備と同時進行で城も大改修。
大幅な拡張工事で南北900m、東西850mに及ぶ
近世城郭が出現。
下野統治の拠点として、また日光社参の際に
将軍が滞在する宿所としての体裁が整えられました。
宇都宮城 26
宇都宮城を語る上で欠かせない逸話が、
釣天井伝説(つりてんじょうでんせつ)
日光東照宮へ参詣した江戸幕府三代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)が
宇都宮城へ寄ろうとしたところ、これを知った城主・本多正純公が
御成御殿の天井に施したからくりを用いた将軍暗殺を企図。

密かに工事を進めて関わった大工たちを口封じのために殺しますが、
殺された大工の一人・与五郎が恋人・お稲の枕元に立ち、
悲しみの余りお稲は自殺
書き残された彼女の手紙から正純公の企みが露見し、
幕府の詮議ののち改易の憂き目に遭った、というもの。

宇都宮城と言えば、というほど(歴史好きには)知られたエピソードですが、
実際のところ正純公が城主を務めていた頃に将軍の座に就いていたのは、
2代将軍秀忠(ひでただ)。

この秀忠公が日光社参の前後に宇都宮城へ泊る予定だったところを、
急遽城を素通りして江戸へと戻り、
それから程なく正純公が改易されたことから発生した
作り話だったそう。

その背景には初代家康公死後の幕府内における
権力争いがあったとも言われており、
宇都宮城主の座を追われた正純公は、
出羽国(現在の山形県・秋田県)横手に幽閉されたのち、
73年(結構な長寿!)の生涯を、失意の中で終えることとなりました。

かつては「神君」家康公の懐刀として活躍し、
県都・宇都宮の礎を築いた功労者も、
その最後はあっけなく、そして淋しいものでした。
宇都宮城 27
城を知り、歴史を知り、物語を知った一日。
夕日を背負った清明台に見送られながら、
那須塩原へと戻ります。

奥州への備えとして重視され、戦場となって戦火に見舞われた
悲運の城・宇都宮城。
今ではほとんどその痕跡もなく、大部分の遺構が市街地の下に
埋められた状況となっていますが、
復元計画含め今後の展開に期待したいところです♪

次回は宇都宮城とともに街の誕生に関わる場所、
「下野国一之宮」・宇都宮二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)へ!
名族宇都宮氏とも関り深い、由緒正しき社地を詣でます。
それでは!
宇都宮城 28
宇都宮といえば、やっぱり餃子!

参考:宇都宮市 公式ホームページ
    宇都宮市歴史文化資源活用 推進協議会
    宇都宮城公園内 説明書き
    wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。