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川越歴史散歩2 ~喜多院庫裏・客殿・書院~

シルバーウイーク一番の思い出
ゆっくりと綴って参ります、「川越歴史散歩」。
第2回の今回は引き続き関東天台宗の「総本山」とも言うべき
名刹・喜多院を取り上げまして、
その境内に残る、貴重な歴史的建造物群を観て参ります。
喜多院 14
本堂・慈恵堂にて参拝を済ませた私。
次に向かうのは、慈恵堂の右手に在ります有料エリア

境内全域に江戸初期の文化財が残る、喜多院。
その中でも特に文化的価値の高い、
寺院の「裏側」に当たる庫裏(くり)・書院・客殿の三カ所(+慈恵堂内部)と、
無数の仏法修行者たちを表した「五百羅漢」の二つのエリアは、
拝観料を徴収することで他の区域と区分がなされています。

拝観情報はこちら!

拝観料
個人
大人 400円
小人(小・中学生) 200円
団体(20名以上)
大人 350円
小人(小・中学生) 150円

拝観および本堂参拝時間
3月1日~11月23日
平日 8:50~16:30
日祝 8:50~16:50
11月24日~2月末日
平日 8:50~16:00
日祝 8:50~16:20

※上記時間は、開門・閉門時間です。
  1月は状況により変更の可能性あり。
※拝観受付は、閉門20分前まで。
  御朱印は閉門30分前まで。
※行事等のため、時期により拝観出来ない場所あり。

定休日
12月25日~1月8日
2月2日・3日
4月2~5日
喜多院 15
「拝観エリア」への入口となるのは、こちらの庫裏(くり)
受付となる寺務所を兼ねています。

ここから先の庫裏・書院・客殿の3つの建物は
喜多院参拝の大きな目玉となっているのですが、
それはこれらの建造物群の来歴に起因しています。

前回記事でも触れていますが、
現在喜多院境内に残る建物の大部分は寛永15(1638)年に起こった
川越大火の後に再建されたもの。

その中でも特に異色の存在と言えるのが前述の3棟であり、
これらは喜多院27世・天海大僧正の幕府創始に於ける
多大な功績と大恩に報いんと、
江戸幕府三代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)公指示の下
江戸城中・紅葉山別殿を移築したもので、
江戸初期の御殿建築の様式と、現存していない江戸城御殿の姿を
偲ばせる、大変貴重な史料。

その文化的・建築学的価値から、
揃って国の重要文化財に指定されています。
喜多院 16
庫裏の一角には、玄関が設けられています。
ここを初代家康公、2代秀忠公、3代家光公といった江戸幕府初期の
将軍たちが出入りしたかも知れないと思うと、
なんだか感無量。
喜多院 17
依然新型コロナウイルスの脅威が去る気配を見せない昨今、
ここ喜多院でも各種対策を施した上で参拝客を迎え入れています。

皆さんも文化財や観光施設をご訪問の際には
各施設の案内に良く目を通した上で、
記名・検温・手指消毒等による
感染症対策へのご協力をお願い致します。

さて、内部はどのようになっているのか、
是非皆さんにお届けしたい!・・・ところなのですが、
残念ながら建物内は撮影禁止
ここから先は文章で各建築物の来歴をご紹介するとともに、
「遠州流」に則った二つの庭園の風景をお伝えします!

拝観者用出入り口で靴を脱ぎ、寺務所で拝観料を支払って
庫裏の中へ。
歩きだしてスグのところ、畳の上に置かれているのは
紙本着色職人尽絵

六曲一双の屏風に各曲2図ずつ、様々な職人の働く姿を描いた
風俗画
縦約58cm、横約44cmの絵図が計24個、
25種の職人たちや職場の風景が、
精緻な描写と技巧によって表現されています。

桃山時代の京都を描いたとされる絵画の一点一点からは、
当時の人々の息吹や、町の賑わいが伝わって来るよう。

作者とされているのは、室町時代末~江戸初期を生きた
狩野派の絵師・狩野吉信(かのう よしのぶ)
室町時代~江戸時代に掛けて日本画壇に於いて重きをなし、
時の権力者たちと関わりを持った絵描き集団・狩野派
長老格で、89歳の長寿を全うした人物ですが、
ほとんど彼の手によると断定し得る作品は残っていないそう。

「吉信作」を表す壺型の朱印は、
ここ喜多院が文化的・宗教的に高い地位を占めていたことの
証左ではないでしょうか?

徳川家や城を護る家臣たちによって使われたと思しき
道具が並ぶ庫裏の中は、「天下の城」のイメージに反して
割と簡素な造り。

無駄な装飾や過剰な演出を排した構造からは、
実直な「三河武士」である家康公の
暮らしや城づくりに対する思想が垣間見えるよう。
喜多院 18
庫裏と書院の間に築かれた坪庭
シンプルな造りながら、「詫び、寂(さび)」の精神が込められています。
喜多院 18.5
庫裏から見た客殿の屋根。
全体的に「簡素」な趣の建物群ではありますが、
重厚な「破風」の造りからは、確かに天下へ号令する将軍家の
威信と威光が感じられます。
喜多院 19
続いて足を踏み入れるのが、こちらの客殿

隣接する庫裏・書院とともに
国の重要文化財指定を受けている建物で、
桁行8間(14.48メートル)、梁間5間(9.05メートル)。
入母屋造で屋根は杮葺き(こけらぶき)。

内部は12畳半の部屋が2つ、17畳半の部屋も2つ、
10畳が1つという構成になっているのですが、
このうち12畳半の部屋の一つが、ここの目玉

ここには他の部分と異なり床面が一段上げられた
上段の間と呼ばれる区画があり、
床の間と違い棚を設けた典型的な書院造(しょいんづくり)の空間は、
襖と壁面を土佐派の絵師・土佐一得(とさ いっとく、一徳とも)の手による
墨絵の山水画、
狩野派の絵師・狩野探幽(かのう たんゆう)作と伝わる
81の花模様を散らした天井画が飾っています。

意匠と装飾からして、他とは、一線を画するこの空間。
実はここ、移築前の江戸城にて徳川家光公が生まれた
場所であるそうで、
そのことから徳川家光公 誕生の間と呼ばれています。

歴史に名を残す為政者、その大人物が生を享けた場所をこうして
目にすることが出来る・・・なんだかとても感激
(そして撮影禁止故、カメラに収めることが出来ず、残念)

建物内には身を清めるための湯殿
用を足すための(かわや、いわゆるトイレ)も残されており、
この建物がしっかり「人が暮らす」ことを考慮した
造りであることが伺えます。
喜多院 20
客殿から眺めた庭園。
この庭園は建物の移築元である江戸城・紅葉山にちなんで
紅葉山庭園と呼ばれており、
茶の湯・建築・作庭・書道などに多才を発揮した文化大名・
小堀遠州(こぼり えんしゅう。本名は政一。
「遠州」の通り名は官位の遠江守(とおとうみのくに)に由来する)が興した
作庭手法・遠州流に基づいており、
丸や菱形、四角といった元来相反する造作を持った石組みを
幾何学的に組み合わせることで、調和が取られた構成に
仕上げられているそう。

この造りは磚合の庭(てんごうのにわ)と称され、
(磚合・・・「冗談」の意。「磚合言うて」という使われ方で、
「冗談でしょう?」という意味合いを持つ)
既存の作庭技法を革新した遠州公への、驚きと敬意が込められています。
喜多院 21
客殿外周にぐるりと巡らされた、広大な「磚合の庭」。
春は、夏は深緑、秋は紅葉と、季節の色に彩られる庭園。
画面中央に見える枝垂桜は、なんと家光公手植え(!)の一品だとか。

ここにも将軍家と喜多院の、密接な関係が見えています。

続いて向かうのは、書院

寄棟造(よせむねづくり)という建築技法に則って作られており、
桁行6間(10.86メートル)、梁間5間(9.05メートル)。
屋根は杮葺きとなっています。
もちろんこちらも江戸城紅葉山からの移築建造物で、
国の重要文化財に指定されています。

内部は床の間を設けた8畳間が2つ、12畳間が2つ。
このうち8畳の部屋は徳川家光公の乳母(うば)を務め、
幕府初期の大奥内で大きな権勢を持っていた女傑・
春日局(かすがのつぼね)が使用していた部屋で、
春日局化粧の間と呼ばれています。

「本能寺の変」で有名な(ついでに大河ドラマ・「麒麟がくる」の主人公である)
明智光秀公の重臣・斎藤利三(さいとう としみつ)の娘として、
美濃国(みののくに、岐阜県南部)に生まれた春日局。
(本名を「お福」といった)

誰もが歴史の教科書で学ぶであろう天正10(1582)年、
光秀公の謀反に加担した父・利三は刀の露と消え、
お福は母方の一族・稲葉重通(いなば しげみち)の養女として
引き取られた後、同じく養子である稲葉正成(いなば まさなり)の
後妻として所帯を持つことに。

夫・正成との間に4子を成しますが、
正成は関ヶ原の裏切りで知られる
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)に仕え、
「天下分け目の大戦」で武功を挙げますが後に浪人
お福はまたしても苦難の日々を送ることとなります。

慶長9(1604)年、将軍家の世継ぎとして出生したばかりの
家光公(幼名:竹千代)の乳母となるべく江戸へ上り、
そこで夫・正成と離縁

大奥に入ったお福は、竹千代君の養育の傍ら
「鬼嫁」として知られる2代将軍秀忠の正室・
お江与の方(おえよ、お江、小督(よみは「おごう」)とも)と
渡り合い、
家光公と弟・忠長(ただなが)公の間で将軍継嗣問題が発生すると
大胆にも大御所・家康公に家光公を次期将軍とするよう直訴

寛永6(1629)年には紫衣事件※解決のため
朝廷との折衝に当たり後水尾天皇に拝謁する等、
大奥のみならず幕府内に於いても大きな発言力を得るに至ります。
(この時に朝廷より「春日局」の名を賜りました)

ドラマや映画などで知られる「大奥」の制度化にも
尽力した春日局は、65歳で没。
自らが建立した湯島の麟祥院(りんしょういん)に葬られました。

※紫衣事件(しえじけん)・・・朝廷が京・大徳寺や妙心寺の僧侶に対して
発した紫衣の着用を許す勅許に対し、(紫衣は朝廷より出される勅許によってのみ
着用することが出来る、特別な法衣だった)
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって
朝廷と僧侶の統制を打ち出していた幕府は勅許を「無効」とし、
幕府・朝廷間での政治問題となった。
最終的に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は退位し、
沢庵宗彭(たくあん そうぼう)や玉室宗珀(ぎょくしつ そうはく)などの
主だった僧侶が処罰を受けた。

一人の女性として、将軍の乳母として、
波乱万丈な人生を力強く生き抜いた春日局。
8畳2間の簡素な空間には、そんな彼女が確かに刻んだ
「生」の痕跡が残されています。
喜多院 21.8
書院から眺める庭園は、曲水の庭
喜多院 22
先ほどの紅葉山庭園と同じく「遠州流」に則って築かれた
枯山水の庭園で、真(しん)、行(ぎょう)草の3つの流れから成り立ち、
周囲の木立を借景としています。
喜多院 24
紅葉山庭園奥に据えられた、三基の石。
これらの石はどこから見ても重なることがないそうで、
京・嵯峨野に在った火葬場、化野(あだしの)から名を取って
化し組(あだしぐみ)と呼ばれています。
(不思議な石組みから、火葬場に現れる「物の怪」を連想したのでしょうか)

また3つの石は三人の天下人を表現しているそうで、
右から織田信長(上を向き、大きく前進して行く姿)、
豊臣秀吉(大きく、物欲に強い姿)
徳川家康(陰からひっそりと、時機を伺う姿)
とされています。

言われてみると、なんか納得出来るかも。
喜多院 23
客殿から続く、公家邸宅の建築技法・「寝殿造」を思わせる
渡り廊下。
ここから庭園を望むことが出来る他、
慈恵堂内部へお参りすることも出来ます。

そちらについては前回記事にて詳述しているため省きますが、
ご本尊の慈恵大師や不動明王のご尊像、
整然と並んだ天井画などは一見の価値あり!

こちらも撮影禁止とされているため、
写真にてその様子をお伝え出来ないのが、残念!

次回は「川越歴史散歩」パート3!
もう一つの「有料エリア」である五百羅漢、
天海大僧正を祀ったお堂や歴代住職のお墓、
川越藩主・松平家の廟所などをお届けします。
それでは!
喜多院 22.5
静寂の下りた庭園に、風が吹き行く。

参考:川越大師 喜多院 歴史と文化財
    コトバンク

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。