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川越歴史散歩3 ~喜多院・五百羅漢

昨日、栗橋探索に続いて「撮り鉄」へと赴き、
そのついで(?)と致しまして、さいたま市岩槻地区に
「立ち寄り観光」して参りました!

そちらの模様はまた記事としてまとめた上で
お届けしようと存じますが、
まずは「川越歴史散歩」!
パート3となる今回は、関東屈指の名刹・喜多院特集第三回。

喜多院境内にずらりと雁首並べた仏法修行者の像が
圧巻の「五百羅漢」と、
天海大僧正(慈眼大師)を祀った仏堂、
喜多院歴代住職の墓所や、
川越藩主・松平大和守家の廟所をお伝えします!
喜多院 19
喜多院「有料エリア」の一つ、江戸城移築建造物を見て回った私。
続いて向かうのは、拝観料徴収の対象となるもう一つの区画・・・
喜多院五百羅漢 1
五百羅漢(ごひゃくらかん)、その入口。
前回記事にてご紹介した庫裏・客殿・書院(と本堂・慈恵堂内部)と
ここ五百羅漢は、共通の拝観券を購入することで
拝観可能となる有料エリア

とはいえ大体の人はチケット販売窓口となる
「寺務所」の在る移築建造物群から回ることになる所為か、
こちらの窓口に係の方の姿はなし
・・・セキュリティ面での不安は無いのでしょうか?

ともあれ窓口で拝観券の半券を「セルフチェック」し、
エリア内へ。
奥まで進んで行くと・・・
喜多院五百羅漢 2
じゃじゃん!
こちらが「移築建造物群」と並ぶ喜多院散策の目玉・
五百羅漢です!
羅漢とは阿羅漢の略で、
「尊敬や施しを受けるに相応しい聖者」の意。

ここ川越・喜多院の五百羅漢は天明2(1782)年~文政8(1825)年の
50年に渡って建立されたもので、
十大弟子、十六羅漢を含めた533体に、
敷地中央に御座す釈迦如来、脇侍(きょうじ、本尊の両脇に侍る仏さま)の
文殊菩薩と普賢菩薩、左右の阿弥陀如来、釈迦如来を合わせて
538体もの羅漢や仏像がズラリと並んでいます!

ちなみにここ喜多院の五百羅漢は日本三大五百羅漢
数えられているそうですが、「日本三大~」の例に漏れず
「日本三大五百羅漢」はここを含めて4つあり、
栃木県足利市の徳三寺(とくぞうじ)、
神奈川県鎌倉市の建長寺(けんちょうじ)、
大分県中津市の羅漢寺(らかんじ)がそれに当たるそう。

どれを「三大」に選ぶかは・・・皆さま次第です(笑)
喜多院五百羅漢 3

喜多院五百羅漢 4
「五百」の名に相応しい・・・否、五百を超える羅漢が居並ぶ
喜多院五百羅漢。

ここのスゴいところはその数だけでなく・・・
喜多院五百羅漢 5
一体一体異なる姿で作られている点。

このように托鉢に勤しむ者もいれば・・・
喜多院五百羅漢 6
酒を酌み交わす者たち
喜多院五百羅漢 7
旅姿の者
喜多院五百羅漢 8
マッサージ中だったり・・・
喜多院五百羅漢 9
悲嘆に暮れていたり・・・
喜多院五百羅漢 10
道具を持っていたりと、実に個性的

特にこのような日用品仏具を持っている者、
また動物を伴っている者は、人気が高いそう。
自分と同じ干支を伴っている羅漢を探すのも、ここの楽しみ方だそうな。
喜多院五百羅漢 11
ぐるりと取り囲む羅漢の中央、
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)を伴い、
高座にどっしりと腰を据えておられるのが・・・
喜多院五百羅漢 12
ご本尊の釈迦如来(しゃかにょらい)さま。
仏教の開祖・釈迦(シャカ)が神格化された姿で、
「如来」は「真理を悟った者」を意味するそう。

足下の台座に彫られた花は、釈迦にゆかりのある
菩提樹の花でしょうか?
喜多院五百羅漢 13
釈迦如来像から少し離れた高座に座る、2体の仏。

こちらは極楽浄土の教主で、衆生全てを救うとされる
「阿弥陀信仰」の拠り所・阿弥陀如来(あみだにょらい)
喜多院五百羅漢 14
釈迦如来像を挟んで反対側には、
弥勒菩薩※がこの世に下るまでの現世で、
衆生を救い導くとされる地蔵菩薩
(じぞうぼさつ。いわゆる「お地蔵さま」)

※弥勒菩薩(みろくぼさつ)・・・釈迦入滅から56億7,000万年後に
仏となってこの世に下り、衆生を救うとされる仏。
(今の世は「仏が居ない」状態だそう。救いは無いのか・・・!?)

これらの仏と500を超える聖人たちが、
壮大な「仏の世界」を体現しています。

「五百羅漢」巡りを終え、「目玉」となるスポットは大体見た訳ですが、
せっかくなのでもう少し境内を回ってみましょう!
喜多院五百羅漢 15
「慈恵堂」の近く、高台へ向かう階段を上がっていくと、
その先に現れるのが、慈眼堂(じげんどう)
喜多院の歴史に名を残す高僧・天海大僧正を祀るお堂。

寛永(1643)年の天海大僧正(慈眼大師)入寂※から三年後の
正保2(1645)年、徳川家光公の命によって
御影堂(みえいどう)として建立されました。

入寂(にゅうじゃく)・・・肉体を持って現世に現れた仏陀が
涅槃に入る(=亡くなる)こと。
徳の高い僧侶が亡くなった際にも用いる。

またの名を一名開山堂と称し、
桁行、梁間ともに三間(5.43メートル)ずつ、
単層宝形造(たんそうほうぎょうづくり)と呼ばれる形式で、
屋根は瓦葺き。

宝形造は屋根が四隅から中央へ向かって緩やかに登りながら
頂点で一つになる造りのことで、
登ってきた隅棟が合流するところに路盤があり、
その上に宝珠が飾られています。
窓や扉に施された彩色が、印象的。

喜多院五百羅漢 16
慈眼堂内部の様子。
中央の厨子には「ご本尊」たる天海大僧正の木像
納められ、故人の功績と威徳を顕彰しています。
喜多院五百羅漢 17
「慈眼堂」の背後には、52名に及ぶ喜多院の歴代住職が眠る
墓所が設けられています。
その中にはもちろん、第27世・天海大僧正のものも
含まれています。

また墓所内には南北朝時代に建立され、
歴代住職の名を刻んだ史料でもある
暦応の古碑(りゃくおうのこひ)と、
こちらも南北朝期に建てられ、
僧侶や法師、尼僧、沙弥※1、
碑文建立のための喜捨※2を募りながら、その完成を待たずして
亡くなった人々(「聖霊」と記されている)ら
計60名の名を刻んだ延文の古碑(えんぶんのこひ)の
二つの碑文が残されています。

※1 沙弥(しゃみ)・・・サンスクリット語由来の仏教用語。
出家をしたものの、出家修行者となる前の少年を指す。

※2 喜捨(きしゃ)・・・寺社、僧侶や貧者に金品を寄付すること。
喜多院五百羅漢 18
続いて向かったのは、
松平大和守家廟所(まつだいら やまとのかみけびょうしょ)

ここに祀られている松平大和守家とは、
徳川将軍家の血筋に連なる一門のうち、
徳川家康公の次男で越前福井藩の開祖・
結城秀康(ゆうき ひでやす)公の次男・直基(なおもと)公を
藩祖とする家柄で、
すなわち越前松平家由来の血筋に当たります。

この松平大和守家が川越藩主を務めたのは、
明和4(1767)年~慶応2(1866)年までのおよそ百年。
その間7代を数えましたが、
うち川越で亡くなった五人の殿様が、ここで祀られています。
喜多院五百羅漢 19
整然と並んで建てられた廟所(画面奥)。
右から松平大和守家5代・朝矩(とものり)公、
6代・直恒(なおつね)公、7代・直温(なおのぶ)公、
8代・斉典(なりつね)公。
10代・直侯(なおよし)公の廟は反対側に一基のみ、
離れて設けられています。(ちょっとかわいそう)

廟の手前にびっしりと並ぶのは、歴代藩主の家臣たちによって
奉献された、91基にも及ぶ石灯篭
喜多院五百羅漢 20
廟所をアップで。
各廟所の入口となるのは、石扉によって区切られた石門。
その周囲には石垣が張り巡らされ、
厳重に外部との間を仕切ります。

その向こうには立派な五輪塔と、
それぞれの威徳を偲ぶ頌徳碑が建てられています。

石門下部に刻まれた家紋は、時代によって五三桐や三つ巴紋から
徳川宗家と同一の三つ葉葵に改められる等の変化が見られ、
松平大和守家の家柄や思想、また同家を取り巻く
政治情勢の表れでもあるそうな。

川越の町の発展と意地に尽くしたであろう
先人たちを想い、合掌

1200年近い歴史を持ち、その間関東天台の中心となり、
時には歴史をも動かした古刹・喜多院。
長い歳月の中で生み出され、守られて来た文化財や宝物の数々は、
ここに刻まれた人々の信仰や交流の「証」といえるものでしょう。

「江戸城移築建造物」や「五百羅漢」といった至宝が、
これからも永く保存・維持され、
人々の目に触れ続けることを願います。

次回は「喜多院」から移動しまして、
川越藩17万石の中枢・川越城本丸御殿へ!
全国でも希少な現存御殿建築を目指し
城の痕跡を覗くとともに、川越グルメもご紹介します。
それでは!
喜多院五百羅漢 21
参拝後に頂いた、厄除け団子
「団子」と言えばみたらし団子やあん団子のような
甘いものをイメージしがちですが、
ここ喜多院のお団子は、甘辛い醤油ダレでの味付け。

手ごねで成形された団子は焦げ目が付くまで
じっくりと焼き上げられ、外はカリカリ、中はモッチリ。
ちょっぴり変わった「団子体験」が楽しめます♪

参考:五百羅漢‐川越大師 喜多院
    コトバンク
    境内説明書き

Twitter:https://twitter.com/Nori86651955

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。