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川越歴史散歩4 ~川越城本丸御殿~

酷暑がガンガン降り注いでいたも、
厳しい残暑もようやく通り過ぎ、
日は短く、朝晩はちょっぴり肌寒い。
そんな気候の変化に、本格的な秋の訪れを感じます。

次の「お出掛け」予定も迫りつつある中で綴っております、
「川越歴史散歩」。
第4回の今回は、徳川将軍家のお膝元・武蔵国
(むさしのくに、東京都・埼玉県・神奈川県東部の旧国名)
で最大の石高(もちろん幕府直轄領を除く)を誇った川越藩の本拠地・
川越城へ!

全国でも稀有な現存御殿建築・「川越城本丸御殿」を中心に、
わずかに残る城の痕跡と、「埼玉グルメ」を取り上げます!
川越城本丸御殿 0.5
早速ですが、今回のテーマとなる川越城を解説致します!

最初の記事でも少し触れましたが、川越城が築城されたのは
戦乱の気配漂う長禄元(1457)年、
南関東に勢力を伸ばしていた扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の家臣(家宰)、
太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)
父子によるものと伝わります。

当時・扇谷上杉氏当主・上杉持朝(うえすぎ もちとも)は
領国を接する古河公方※足利成氏(あしかが しげうじ)と
北武蔵の覇権を争っており、
河越城(築城当時はこの字が当てられていました)も
古河公方家に備えた前線基地としての築城でした。

※古河公方(こがくぼう)・・・足利将軍家の代理として
関東統治を担った「鎌倉公方」の後身。
第5代成氏の時代に本拠地を古河城(古河御陣、古河御所とも)に
置いたことから、そう呼ばれた。

その後道灌暗殺による太田家の離反、山内上杉氏との
同族同士の抗争、さらに足利公方家まで介入しての泥沼の争いの中、
関東南部で勢力を伸ばしていた後北条氏が、
武蔵国まで進出。

天文6(1537)年には扇谷上杉氏の家督相続に乗じて
河越城を奪取
武蔵国支配への重要拠点を確保することに成功します。

これに黙っていなかったのが、城を奪われた扇谷上杉氏。
天文15(1546)年には仕返しとばかりに
北条氏の代替わり(2代氏綱→3代氏康)に乗じて敵対していた
足利公方・山内上杉氏と連合
(さらに背後の武田氏・今川氏をも味方に付け、
徹底した「北条包囲網」を築き上げました)

これに関東諸国の豪族も合流し、約8万とも伝わる
大軍で河越城を包囲しました。

城を守るのは、猛将・北条綱成(ほうじょう つなしげ)を始めとして
十分の一にも満たない3,000人ほど。
落城は時間の問題かと思われましたが、
連合軍の油断と厭戦気分もあって、半年にも渡って守備隊は持ちこたえ、
当主・北条氏康(ほうじょう うじやす)の救援を待ちます。

そして迎えた4月20日の夜、
夜陰と連合軍の油断に乗じた北条勢は、
圧倒的多数を誇る敵陣へと夜襲を敢行

混乱の中で扇谷上杉氏当主・上杉朝定(うえすぎ ともさだ)は戦死
山内上杉氏当主・上杉憲政(うえすぎ のりまさ)と古河公方・
足利晴氏(あしかが はるうじ)も命からがら本拠地へと逃げ帰り、
河越夜襲と呼ばれる一大決戦は、
北条軍の大勝利に終わりました。

以後関東での勢力を確固たるものとした北条氏の下
安定した統治が続けられていましたが、
天正18(1590)年、「天下統一」を目指す
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の号令を受け、
各地より結集した諸大名の大軍勢が北条領へと侵入。

河越城もまた前田利家(まえだ としいえ)ら豊臣方諸将の
攻勢を受けることとなり、
城を預かる北条氏宿老・大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)の奮戦むなしく落城
敢え無く豊臣方の手に落ちることとなりました。

北条氏滅亡後は徳川家康(とくがわ いえやす)が
関東の支配者となり、
川越城は江戸北方の押さえとして、代々譜代・親藩大名が
治めていくこととなりました。

寛永16(1639)年、幕閣内で老中の要職に在った
松平信綱(まつだいら のぶつな)が、
川越藩主として入封。

信綱公は川越大火で大きな被害を受けた
城下町の復興とともに、城の大改修に着手。
本丸・二ノ丸・三ノ丸を始めとする九つの曲輪、
3つの櫓や13の城門から成る、
総面積9万9千坪(約32万6千㎡)にも及ぶ大城郭が完成しました。

時代が明治へと移り変わると、時の川越藩主・松平康英(まつだいら やすひで)は
明治政府への恭順の意を示すため、自ら堀を埋め
新政府樹立後には老朽化した城内一部施設を破却
最終的に明治政府より発せられた廃城令によって
戦国の攻防の舞台、また江戸を守る要塞であった名城は、
その姿を失うこととなりました。

現在では城のほとんどが市街地へと姿を変え、
現存するのは本丸御殿の他は櫓台一基と土塁、堀の一部のみ。
しかし奇跡的にも城主の住まいであった本丸御殿の一部は
近代化以後の破壊戦災を免れ、
全国でも数例しかない現存御殿建築として、
貴重な姿を現代まで留めています。
川越城本丸御殿 1
喜多院参拝を終え、「川越城本丸御殿」を目指して歩きだす。
喜多院境内から北側へ向けて伸びる参道は、
石畳朱色に塗られた灯籠
点在する和様のお店も相まって、なかなか良い雰囲気♪
川越城本丸御殿 2
空腹を満たすため、ここらで寄り道。
入ったのは門前うどん 一心庵(いっしんあん)

成田山川越別院の向かいで営業する、
素朴なお店。
喜多院参道に面した表側の他、奥にもテーブル席が設けられ、
そちらでは通りの喧騒から離れた静かな雰囲気での
食事が楽しめます♪(私は「奥側」の席に通されました)

営業情報
営業時間・・・11:00~麺が無くなり次第
定休日・・・月曜日
川越城本丸御殿 3
このお店の「看板メニュー」となっているのが、
「埼玉名物」・肉汁うどん

ここ川越を含む埼玉県西部から東京都多摩地域にまたがって
広がる武蔵野台地上に位置する地域では、
水を透過し水量豊富な河川に恵まれない
関東ローム層※と呼ばれる地質となっており、
稲作よりも小麦の生産が盛んに行われていました。

※関東ローム層・・・関東平野の台地や丘陵を覆っている火山灰層
箱根富士山赤城山(あかぎさん)・榛名山(はるなさん)・
男体山(なんたいさん)・浅間山といった火山から噴出した
火山灰から形成されている。

そんな地域で郷土料理として食されて来たのが
小麦を原料とするうどんで、
麺は武蔵野台地で生産された小麦粉を用いた地産地消品

江戸時代よりうどんは「ハレの日のごちそう」として
珍重されて来たためか、旧家では冠婚葬祭などの祝い事、
親戚の集まり等でうどんが出され、
かつてはうどんが打てねば嫁入り出来ぬ
と言われるほど、文化として定着していたそう。

この「肉汁うどん」は、武蔵野地域のごちそう・武蔵野うどんの発展形。
明治以降に登場したそうですが、今や定番の食べ方として
定着しているようです。
川越城本丸御殿 4
こちらがその肉汁うどん!
お値段700円ナリ。

麺とつけ汁を別にした「ざるうどん」形式で提供され、
丼に注がれたつけ汁の中には、
しめじ、えのき、油揚げ、長ネギ、細かく刻まれた
豚のバラ肉と種類豊富な具材がスタンバイ!

麺はつけ汁と分けた別皿に盛られ、
つけ汁に浸けてから頂く格好になります。
(欲を言えば、もう少し豚肉が多いと嬉しいかな? 笑)
川越城本丸御殿 5
こちらが「肉汁うどん」の麺。
一般的なうどんよりも太く、加水率を低く調整された
コシの強い麺で、
「ツルツルと」食べられる感じではないものの、
歯ごたえとのボリューム感はたっぷり!

この麺をかつお出汁のつけ汁に潜らせれば、
つけ汁に染みた具材の味がうまくマッチされ、
風味がさらにアップします。

大満足の「武蔵野の味」、ごちそうさまでした!

川越城の痕跡を探し、再び歩き出す。
くねくね曲がる住宅地の路地を進んでいると・・・
川越城本丸御殿 6
なにやら小高い丘陵のようなものが出現。
実はコレ、川越城の遺構の一つ、富士見櫓跡

櫓台は城内最高所となる本丸西南隅に築かれ、
その上に三重の富士見櫓が置かれていました。
実は川越城は天守の無い城であり、
防衛施設としてだけでなく、天守の代用としての役目も果たしていたようです。
(同様の事例は、宇都宮城清明台(せいめいだい)でも見られます)

その構造や姿は戦略上の都合から明らかとされてはいませんが、
慶応2(1866)年に測量が行われた際の記録からは、
長さ八間三尺(約15メートル)、幅八間(約14メートル)ほどだったそう。

現在では御嶽神社(おんたけじんじゃ)の境内地となり
鬱蒼とした木々に覆われていますが、
かつてはここから名前の通り、遠く富士山までが
見渡せたことでしょう。

また横の駐車場付近にはかつて、
南大手門が置かれた中曲輪と田曲輪と呼ばれる曲輪を区切った
田曲輪門(たぐるわもん)が置かれ、
富士見櫓からこの門に押し寄せ、あるいは田曲輪に侵入した来敵を
本丸側から迎え撃つ構えとなっていました。

写真手前、石碑が置かれているあたりの地面が少しくぼんでいるのですが、
田曲輪門跡や富士見櫓との位置関係からすると、
水堀の跡と思われます。
こういった痕跡を見つけるのも、なかなか面白い。
川越城本丸御殿 7
せっかくなので、「富士見櫓跡」に登ってみる。
小山のような櫓台、そこに取り付けられた階段を登って行くと・・・
川越城本丸御殿 8
空き地のような場所に出ました。
ここが川越城の「顔」・富士見櫓の跡地。
かつてはここに「天守役」に相応しい、
風格たっぷりの三重櫓が建っていたことでしょう。

肝心の眺めは・・・
川越城本丸御殿 9
こんな感じ。
さすがに富士山は見えませんが、
木々の間からちょっぴり川越市街が見えています。

「富士見櫓跡」から少し歩いて・・・
川越城本丸御殿 10
目指す川越城本丸御殿に到着!

城の中枢に在った建物故、さぞ由緒があるのだろうと思いきや、
その歴史は意外と浅く、幕末間近の嘉永元(1848)年の築。
元々本丸には鷹狩りなどに出掛けた将軍が宿舎とするための
「御成御殿」(おなりごてん)が置かれ、
歴代藩主は本丸ではなく二ノ丸御殿を生活の場としていましたが、
二ノ丸御殿は弘化3(1846)年、火災により焼失

そこで代わりとなる御殿の建設場所に選ばれたのが、
「御成御殿」の解体後空き地となっていた、本丸。
松平大和守家8代・松平斉典(まつだいら なりつね)公の下で
再建工事が進められ、二年ほどの工期を経て
建物16棟、1,025坪に及ぶ
広大な御殿が落成しました。

明治以降城が存在価値を失ったこと、また明治政府が発布した
廃城令などにより、城内のほとんどの建物は民間払い下げの上、
移築・解体

その中で一部の建物は入間県
(のちに熊谷県に編入され、消滅)の県庁舎として利用された後、
公共施設やタバコ工場、武道場、
中学校の校舎などに利用されていましたが、
昭和42(1967)年に県指定有形文化財となり、
翌年に掛けて修復工事を施行。

平成の足音迫る昭和62(1987)年には
明治5(1872)年の民間払い下げ・移築以来行方の分からなかった
家老詰所
上福岡市(現 ふじみ野市)にて発見され、
平成2(1990)年に移築復元の上、公開。

現在では玄関や広間などの一部の施設、および家老詰所が
県指定有形文化財に指定され、
川越城唯一の現存建築物として、
また全国でも4つしかない現存御殿
(川越城の他は高知県高知城の本丸御殿、京都府二条城の二ノ丸御殿、
静岡県掛川城の二ノ丸御殿が現存)の一つとして、
城好きの間で高い人気と知名度を誇ります。

利用案内
開館時間・・・9:00~17:00
(最終入館は16:30)
休館日・・・月曜日(祝日の場合は火曜日)
       年末年始(12月29日~1月3日)
       毎月第4金曜日(祝日除く)
入館料・・・一般100円、団体80円、大学生・高校生50円、
       中学生以下は無料
川越城本丸御殿 11
川越藩17万石の当主が住まいとした、本丸御殿。
建物正面に設けられた玄関は、さすがの風格。

間口は3間(5.43メートル)、八寸(24.24センチメートル)角の柱に
支えられた屋根には唐破風を戴き、
頂部には親藩大名の証、徳川将軍家と同じ家紋・三つ葉葵が輝きます。
川越城本丸御殿 12
玄関前で「拝観カード」への必要事項の記入と
検温、手指のアルコール消毒を済ませ、中へ。

外周に面して巡らされた廊下
場所によって床材が変えられており、玄関部分や建物東側(玄関側)は
ケヤキ
奥に面した西側にはツガマツが用いられ、
部屋と部屋を移動する空間であるとともに、
「表」と「裏」を区切る役割を果たしています。
川越城本丸御殿 13
玄関正面の部屋は、36畳分のスペースを誇る広間
御殿内では「大書院」(現存せず)に続く2番目に大きな座敷で、
往時は来客が城主の「お出まし」までの間、
待機していた場所と考えられています。
川越城本丸御殿 14
杉戸に描かれた
御殿内部の絵画を手掛けたのは、
藩お抱えの絵師・舩津蘭山(ふなつ らんざん)

嘉永3(1850)年、松平大和守家8代・斉典(なりつね)公の死後、
跡を継いだ松平典則(まつだいら つねのり)公の命により
杉戸絵の制作に取り掛かった蘭山は、
中断期間を挟んで7年もの歳月を費やし、
雇い主からの依頼を完遂しました。

現在御殿内部に12点、その他市内元町の「蘭山記念美術館」や
市内各所の寺院、近隣地域に現存作品が残されています。
川越城本丸御殿 15
全体的にやや「簡素」な印象を受ける川越城本丸御殿ですが、
欄間や・・・
川越城本丸御殿 16
「釘隠し」に、細やかな装飾が光ります♪
川越城本丸御殿 17
床の間に飾られた、鎧などの武具。
この中で注目すべきは、中央に置かれた
杵黒熊毛槍鞘(きねくろくまげやりざや)

黒田家家臣・母里太兵衛友信(もり たへえ とものぶ)が
猛将・福島正則(ふくしま まさのり)から「呑み取った」と伝わる日本号
「徳川四天王」の一人として無双の武勇と忠義を誇った名将・
本多忠勝(ほんだ ただかつ)が得物とした蜻蛉切(とんぼきり)と
並び日本三名槍と称された業物・
御手杵(おてぎね。「御手杵の槍」とも)の鞘、のレプリカ。

オリジナルの「御手杵」は切先から石突(いしづき、刃と反対側の先端部分)までの
全長およそ3.8m、刃長4尺6寸(139cm)、
茎(なかご、茎状に整えられた柄の部分)まで7尺1寸(215cm)という
大層大きなもの。

下総国(しもうさのくに。千葉県北部、茨城県南西部、
埼玉県東端付近、東京都東端付近の旧国名)の大名・
結城晴朝(ゆうき はるとも)が
駿河国(するがのくに、静岡県中部)嶋田(現 島田市)の刀工・
五条義助(ごじょう ぎすけ、「よしすけ」とも)に命じて
打たせた槍で、杵のように上下が太く中央が細い鞘の形から、
「御手杵」の名が付きました。

その後は結城家に養子として入った徳川家康公の次男、
初代福井藩主である結城秀康(ゆうき ひでやす)公から
秀康公の五男・松平直基(まつだいら なおもと)公へ、
さらに川越藩主となる松平大和守家へと受け継がれ、
家宝として珍重されました。

「御手杵」の由来となった鞘は熊毛で装飾され、
高さ5尺(150cm)、直径1尺5寸(45cm)、重さは実に6貫目(22.5kg)にも達し、
ひとたび雨が降れば10貫目(37.5kg)を越え、
運ぶのにも難儀したと伝わります。

この難物である熊毛の鞘をわざわざ使ったのは、
参勤交代で藩主の位置を知らせ、同時に松平大和守家の
家格を示す馬印としてこの宝槍を用いるため。
なるほど、特徴的な形と圧倒的な存在感は、
名族・結城家と徳川将軍家の血を引く家門の「印」に相応しい。

で、この「御手杵」、昭和20(1945)年の東京大空襲
他の家宝ともども惜しくも焼失
(「日本三名槍」で唯一の損失)

平成15(2003)年に有志の手で槍本体が、
同27(2015)年にこの鞘部分が復元され、
失われた名槍の姿を偲ばせてくれます。
川越城本丸御殿 18
広間の隣は15畳ほどの部屋、「使者の間」。
名前からすると、江戸や他の大名家から遣わされた使者が、
城主への拝謁を待った場所、でしょうか?
川越城本丸御殿 19
こちらは「使番詰所」(つかいばんつめしょ)、広さ約13畳半。
使番とは江戸幕府に於ける職制で、
諸国の巡回と視察、幼少の大大名の後見と監督、
あるいは城の受け渡しに際し、監督に当たった役職。

「使番」のための設備が在ったということは、
ここ川越城にも幕府の目が及んでいたのでしょうか?
川越城本丸御殿 20
「使番詰所」の杉戸絵。
「広間」のそれと似通った作風から、こちらも蘭山作と思われます。
川越城本丸御殿 22
広間などの裏手、西側に当たる廊下。
こちらの床材はツガマツが使われ、
反対側とは異なる質感・色合いに仕上げられています。
川越城本丸御殿 21
西側廊下から見た中庭
波紋を描く小石と陸地のような
アクセントに配された石材の配置とバランスが、お見事!
川越城本丸御殿 24
明治初期に解体された「大書院」などの建材を再利用して建てられた、
明治棟

川越が「入間県」に属していた頃に県庁舎や公会所として
使われていた現存部分の付属設備として建てられた部分は、
平成20(2008)年より2年半の歳月を掛けて行われた
保存修理工事の様子を展示する、第1展示室

そこに置かれた立派な造りの鬼瓦は、
保存修理工事の際に交換された、大棟南側のもの。

本丸御殿建築当初、南側には「書院」が続いていたため
鬼瓦は設けられていなかったのですが、
明治以降に「書院」が解体された際、
外観を整えるために他の建物から現存部分へと
移設されたと考えられています。

中央に彫られた三つ葉葵紋、その周囲に施された
波の文様が、素晴らしい!
川越城本丸御殿 23
こちらは「第2展示室」として使われている、
坊主当番詰(ぼうずとうばんづめ)
広さは12畳。

江戸時代には茶道を嗜み、来客の接待や給仕を受け持った
茶坊主が役職として設けられていました。
この部屋も、おそらくはそういった人たちが待機していた場所と思われます。
川越城本丸御殿 25
第2展示室内に掲げられた江戸時代当時の川越城本丸御殿を描いた、
本丸住居絵図

赤枠に囲われているのが御殿の現存部分
右下が今居る玄関や広間等を含めた区画、
右上が「家老詰所」となっています。
現在は隣り合って建っていますが、かつては他の建物を挟んで
それぞれ反対側に位置していました。

当時の御殿は先述の通り16の建築と1,025坪にも及ぶ
広大な敷地面積を誇り、
城主の住まいだけでなく政務を執った部屋、
城主と客人、家臣らが一堂に会した「大書院」、
家臣たちが常駐する部屋など、さまざまな設備が整えられていました。

しかしながら明治期の解体でその大部分が失われ、
今では玄関や広間、増築された「明治棟」、
他所に移築されていた「家老詰所」を除き、
ごく一部が残るのみ。

御殿全体が残っていれば・・・
そう思わずにはいられません。

続いて綴って参ります、「川越城本丸御殿」。
次回は川越藩主を支えた家老たちが詰めた「家老詰所」と
川越城の数少ない遺構である「中ノ門堀跡」を見てから、
「グルメ処」・川越のお菓子を頂きます♪
それでは!

参考:本丸御殿内説明書き
    wikipedia
    食べログ
    武蔵野うどん|うどんミュージアム【うどん博物館】
    蘭山記念美術館 ホームページ
    コトバンク

Twitter:https://twitter.com/Nori86651955

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。