岩槻散歩 ~人形の町、城下町~
- 2020/10/08
- 23:20
近頃人の「醜い面」に接する出来事が続き、
なんだかブルーな気分を味わっております、ac802tfkです。
人の「夢」を食い物にする人、自分の為ならば、
相手にどんな言葉を浴びせても構わないと考えている人・・・
同じ社会で暮らしながら、自分の利益のため、
平気で利用し、排除する・・・
どうして「人」と「人」は、こうも隔たり、
分かり合えずにいるのでしょうか・・・
さて、気持ちを切り替えて綴って参りましょう!
今回から取り上げますは、埼玉県さいたま市を構成する町の一つ、
岩槻地区!(いわつきちく)
埼玉県、および所属するさいたま市の東部、元荒川と綾瀬川に挟まれた
岩槻台地を中心に、面積は49.17㎢。
区域は東西におよそ4.9km、南北に14.8kmと細長く伸びており、
台地上に広がる緑、元荒川を始めとする河川と、
豊かな自然に恵まれています。
そんな岩槻の発展に大きな役割を果たしたのが、
岩槻城
室町時代の末に築かれた城は初めは川越城とも縁深い太田氏、
次いで後北条氏が統治し、
北条氏滅亡後は関東の(後に日本の)主となった徳川家康公の下、
譜代大名が入城。
江戸時代には江戸と日光を結ぶ日光街道の宿場町として、
またこれも川越城同様、江戸北方の守りの要として、
栄えていくこととなりました。
明治4(1871)年の廃藩置県後は一時
岩槻県(!)が誕生、その県庁所在地となりましたが、
その年のうちに埼玉県へと統合され、「岩槻県」は消滅
昭和29(1954)年には岩槻町と周辺6村が合併し、
岩槻市が誕生。
以後1自治体として発展を続けて行く中、
平成17(2005)年にさいたま市と合併
自治体としての「岩槻」の名は消えてしまいましたが、
さいたま市10番目の区として、
市域の拡大と地域の発展に貢献を続けています。

岩槻地区の中心駅、岩槻駅
東武鉄道野田線(アーバンパークライン)の所属駅で、
特急「アーバンパークライナー」を始めとする全列車が停車します。
昭和4(1929)年、北総鉄道(東京都東部と千葉県北西部を結ぶ
鉄道事業者・北総鉄道とは別物)の所属駅として開業。
当初は「岩槻町駅」という名称でのスタートでした。
昭和14(1939)年に「岩槻駅」に改名、
同19(1944)年に会社合併により東武鉄道の所属となり、
現在に至っています。
駅舎は平成28(2016)年に供用を開始した、2代目駅舎
東西自由通路を備え、延べ床面積は1006.14㎡。
外観は和風建築を意識し、
壁面は「白壁」をイメージした色調とした他、
屋根部分も「瓦調の美しいラインを強調」したデザインで
まとめられ、
「城下町、人形の町・岩槻」という町のイメージを
前面に押し出したものとなっています。

岩槻駅で降りたなら、まずはこちらの時計塔に
注目してみてください!
この時計塔、決まった時間がやって来ると・・・

和装で着飾り、舞や音楽を披露する人形たちが出現!
これは岩槻の町の特徴を表した、
からくり人形時計!

実は岩槻地区は、全国屈指の生産地として知られる
人形の町
元来岩槻周辺では、人形の素材となる桐の生産地として
著名であったこと、加えて人形作りに欠かせない
胡粉(ごふん)※の溶解と発色に適した水が
豊富にあったことなどから、
江戸時代以降人形作りが盛んに行われて来ました。
現在では江戸以来の老舗・東玉(とうぎょく)を始め
500軒あまりもの人形工房が存在し、
幾世にも渡って受け継いだ「技」と「美」を今に伝えています。
※胡粉(ごふん)・・・白色顔料の一つ。貝殻から作られ、
炭酸カルシウムを主成分とする。
日本画や日本人形、木工品の絵付けに用いられる。
からくり時計演出時刻
平日・・・10時、12時、15時、18時、20時
土日・・・10~15時の毎時、18時、20時

なかなかな発展を遂げている、岩槻の町。
しかし通りを歩いてみると・・・


美しくも繊細な日本人形を飾り、販売する人形店が
軒を連ねています。
中には・・・

こんな立派なお店も!
(岩槻を代表する老舗・「東玉」(とうぎょく)の岩槻総本店)
「人形の町」であり、古くからの「城下町」でもある岩槻。
この日の目当ての一つ、岩槻城址を目指す途上では・・・

こんな家屋や

レトロな洋館

江戸時代(天保年間)創業の、老舗うなぎ屋さん等に出会えます!

通りや町名に昔の名残が感じられるのも、
城下町のいいトコロ。
一見すると住宅地を抜ける何の変哲もない道のようですが・・・

しっかりと藩政期の証が残されています。
この路地の名は、江戸小路
岩槻藩士が集住した武家屋敷地の跡だそう。

こちらの諏訪小路(すわこうじ)は、
岩槻城内に構えられた侍屋敷の路名。
名前の由来は・・・

小道の向こうに見えている、諏訪神社

祭神は信濃国(長野県)諏訪大社に祀られ、
「古事記」で建御雷神(タケミカヅチノカミ)と力比べをしたとされ、
戦国時代には名将・武田信玄(たけだ しんげん)も
篤く信仰したという戦の神・建御名方命(タケミナカタノミコト)
創建年代こそ不明ながら、岩槻城守護の軍神として、
また城の鬼門(きもん=北東。中国由来の「陰陽道」で、
不吉な方角とされた)を守る厄除けの神として、
諏訪大社(上社)より勧請されたものだそう。

武家屋敷地に住んだ岩槻藩士たちからも
篤い崇敬を受けたという、諏訪神社。
信仰の中心となった本殿(17世紀前半頃の建築)は
鉄筋コンクリート造の「覆屋」の中に収められ、
大切に保護されています。
この地と縁を結べたことへの感謝と、
境内を通る(「諏訪小路」は神社境内を抜けて、岩槻城址へと続いています)
ことからのあいさつを兼ねて、参拝。

「秘密の抜け道」のような路地を抜ければ、
目指す岩槻城址はもうすぐ!
このところ気分が乗らずになかなか手が付けられなかった
「岩槻散歩」も、ようやくスタートを切ることが出来ました!
次回は岩槻藩政の中枢・岩槻城の一部が残る
「岩槻城址公園」へ!
岩槻市民の「憩いの場」となっている公園、
その各所に残る城の残滓をゆるりと巡ります。
それでは!
参考:さいたま市 公式ホームページ
オートモーティブメディア レスポンス
リビング埼玉web
wikipedia
コトバンク
Twitter:https://twitter.com/Nori86651955
なんだかブルーな気分を味わっております、ac802tfkです。
人の「夢」を食い物にする人、自分の為ならば、
相手にどんな言葉を浴びせても構わないと考えている人・・・
同じ社会で暮らしながら、自分の利益のため、
平気で利用し、排除する・・・
どうして「人」と「人」は、こうも隔たり、
分かり合えずにいるのでしょうか・・・
さて、気持ちを切り替えて綴って参りましょう!
今回から取り上げますは、埼玉県さいたま市を構成する町の一つ、
岩槻地区!(いわつきちく)
埼玉県、および所属するさいたま市の東部、元荒川と綾瀬川に挟まれた
岩槻台地を中心に、面積は49.17㎢。
区域は東西におよそ4.9km、南北に14.8kmと細長く伸びており、
台地上に広がる緑、元荒川を始めとする河川と、
豊かな自然に恵まれています。
そんな岩槻の発展に大きな役割を果たしたのが、
岩槻城
室町時代の末に築かれた城は初めは川越城とも縁深い太田氏、
次いで後北条氏が統治し、
北条氏滅亡後は関東の(後に日本の)主となった徳川家康公の下、
譜代大名が入城。
江戸時代には江戸と日光を結ぶ日光街道の宿場町として、
またこれも川越城同様、江戸北方の守りの要として、
栄えていくこととなりました。
明治4(1871)年の廃藩置県後は一時
岩槻県(!)が誕生、その県庁所在地となりましたが、
その年のうちに埼玉県へと統合され、「岩槻県」は消滅
昭和29(1954)年には岩槻町と周辺6村が合併し、
岩槻市が誕生。
以後1自治体として発展を続けて行く中、
平成17(2005)年にさいたま市と合併
自治体としての「岩槻」の名は消えてしまいましたが、
さいたま市10番目の区として、
市域の拡大と地域の発展に貢献を続けています。

岩槻地区の中心駅、岩槻駅
東武鉄道野田線(アーバンパークライン)の所属駅で、
特急「アーバンパークライナー」を始めとする全列車が停車します。
昭和4(1929)年、北総鉄道(東京都東部と千葉県北西部を結ぶ
鉄道事業者・北総鉄道とは別物)の所属駅として開業。
当初は「岩槻町駅」という名称でのスタートでした。
昭和14(1939)年に「岩槻駅」に改名、
同19(1944)年に会社合併により東武鉄道の所属となり、
現在に至っています。
駅舎は平成28(2016)年に供用を開始した、2代目駅舎
東西自由通路を備え、延べ床面積は1006.14㎡。
外観は和風建築を意識し、
壁面は「白壁」をイメージした色調とした他、
屋根部分も「瓦調の美しいラインを強調」したデザインで
まとめられ、
「城下町、人形の町・岩槻」という町のイメージを
前面に押し出したものとなっています。

岩槻駅で降りたなら、まずはこちらの時計塔に
注目してみてください!
この時計塔、決まった時間がやって来ると・・・

和装で着飾り、舞や音楽を披露する人形たちが出現!
これは岩槻の町の特徴を表した、
からくり人形時計!

実は岩槻地区は、全国屈指の生産地として知られる
人形の町
元来岩槻周辺では、人形の素材となる桐の生産地として
著名であったこと、加えて人形作りに欠かせない
胡粉(ごふん)※の溶解と発色に適した水が
豊富にあったことなどから、
江戸時代以降人形作りが盛んに行われて来ました。
現在では江戸以来の老舗・東玉(とうぎょく)を始め
500軒あまりもの人形工房が存在し、
幾世にも渡って受け継いだ「技」と「美」を今に伝えています。
※胡粉(ごふん)・・・白色顔料の一つ。貝殻から作られ、
炭酸カルシウムを主成分とする。
日本画や日本人形、木工品の絵付けに用いられる。
からくり時計演出時刻
平日・・・10時、12時、15時、18時、20時
土日・・・10~15時の毎時、18時、20時

なかなかな発展を遂げている、岩槻の町。
しかし通りを歩いてみると・・・


美しくも繊細な日本人形を飾り、販売する人形店が
軒を連ねています。
中には・・・

こんな立派なお店も!
(岩槻を代表する老舗・「東玉」(とうぎょく)の岩槻総本店)
「人形の町」であり、古くからの「城下町」でもある岩槻。
この日の目当ての一つ、岩槻城址を目指す途上では・・・

こんな家屋や

レトロな洋館

江戸時代(天保年間)創業の、老舗うなぎ屋さん等に出会えます!

通りや町名に昔の名残が感じられるのも、
城下町のいいトコロ。
一見すると住宅地を抜ける何の変哲もない道のようですが・・・

しっかりと藩政期の証が残されています。
この路地の名は、江戸小路
岩槻藩士が集住した武家屋敷地の跡だそう。

こちらの諏訪小路(すわこうじ)は、
岩槻城内に構えられた侍屋敷の路名。
名前の由来は・・・

小道の向こうに見えている、諏訪神社

祭神は信濃国(長野県)諏訪大社に祀られ、
「古事記」で建御雷神(タケミカヅチノカミ)と力比べをしたとされ、
戦国時代には名将・武田信玄(たけだ しんげん)も
篤く信仰したという戦の神・建御名方命(タケミナカタノミコト)
創建年代こそ不明ながら、岩槻城守護の軍神として、
また城の鬼門(きもん=北東。中国由来の「陰陽道」で、
不吉な方角とされた)を守る厄除けの神として、
諏訪大社(上社)より勧請されたものだそう。

武家屋敷地に住んだ岩槻藩士たちからも
篤い崇敬を受けたという、諏訪神社。
信仰の中心となった本殿(17世紀前半頃の建築)は
鉄筋コンクリート造の「覆屋」の中に収められ、
大切に保護されています。
この地と縁を結べたことへの感謝と、
境内を通る(「諏訪小路」は神社境内を抜けて、岩槻城址へと続いています)
ことからのあいさつを兼ねて、参拝。

「秘密の抜け道」のような路地を抜ければ、
目指す岩槻城址はもうすぐ!
このところ気分が乗らずになかなか手が付けられなかった
「岩槻散歩」も、ようやくスタートを切ることが出来ました!
次回は岩槻藩政の中枢・岩槻城の一部が残る
「岩槻城址公園」へ!
岩槻市民の「憩いの場」となっている公園、
その各所に残る城の残滓をゆるりと巡ります。
それでは!
参考:さいたま市 公式ホームページ
オートモーティブメディア レスポンス
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Twitter:https://twitter.com/Nori86651955