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鉄道博物館2 ~初期の電車・機関車~

お出掛けには持って来い、晩秋の3連休も、
とうとうお仕舞い!
旅行、お買い物、レジャーと、それぞれお休みを満喫されたことと思いますが、
気温が下がるとともに新型コロナウイルスが脅威を増して来ている昨今、
予防とエチケットを忘れずに、気を付けてお過ごしくださいませ。

さて、当ブログでは前回より埼玉県さいたま市・大宮に在ります
鉄道博物館にスポットを当て、
「鉄道博物館編」として取り上げているところですが、
今回が第2回。

引き続き日本の鉄道黎明期に誕生した車両たちを
ご紹介いたします!
鉄道博物館 2-1
まずはコチラ、ハニフ1形

明治37(1904)年、甲武鉄道(現在の中央本線東線)の一部の前身)
飯田町―中野間の電化に合わせて投入した、
路面電車以外では日本初となる電車のうちの一両。
当初はデ963形という形式名で、
「968」という車番が与えられていました。

製造に当たっては走行に必要なモーターや制御部品を
アメリカ、ゼネラル・エレクトリック社(航空機エンジンの大手!)から、
台車を同じくアメリカ・ブリル社(幻の客車・「或る列車」の製造元!)から
輸入し、
それに国産の車体を組み合わせることで、完成を見ました。

甲武鉄道は路面電車と異なり列車のみが走行する
専用軌道を有しており
(主に自動車と路面を共有する路面電車は「併用軌道」に当たる)、
それによって従来よりも高速での走行が可能となりました。

また同形式の特徴として、複数の車両を連結し、
先頭の車両から他の車両を制御する統括制御
可能となったことが挙げられます。

明治39(1906)年には甲武鉄道が国有化され、
デ963形は国鉄初の電車となりました。

その後後継車両の登場に伴い、国鉄から引退。
電装品を新型車両に譲り渡し、大正3(1914)年~同4(1915)年に掛けて
客車として地方私鉄へと
譲渡されることとなりました。

このうちこの「968」号車は大糸線の前身となる
信濃鉄道(現在の第三セクター・しなの鉄道とは無関係)に籍を移し、
大正14(1925)年の同線電化まで活躍。

そこから筑摩鉄道(現・松本電鉄上高地線)に移り
ハフ1、後荷物室を設ける改造を受けてハニフ1として
昭和24(1949)年に休車となるまで活躍しました。

引退後は旧松本電鉄新村(にいむら)車庫にて保存されていましたが、
鉄道博物館開館に合わせて保有元のJR東日本寄贈され、
大幅な改造を受けた「ハニフ1形」としての形態のまま
展示されています。

この「ハニフ1形」には、「ある仕掛け」が施されています。
しばらく車体側面を見つめていると・・・
鉄道博物館 2-2
なにやら「甲武鉄道」時代の社章や飾り窓に飾り帯、
サボ(行先標)などが浮かび上がって来ました!

「仕掛け」とはズバリ、プロジェクションマッピング!
車体に映像を投影することで、(形態は異なるものの)
登場当時の姿を想像してもらおうという、粋な計らい♪
鉄道博物館 2-3
場面が切り替わると、乗客たちの影が現れたり・・・
鉄道博物館 2-4
四季折々の情景、天候・気候の変化などが描写され、
なかなか面白い♪

ともすれば小さな車体が不利に働いて見逃されがちな、
鉄道黎明期の車両。
こうして当時を想起させ、鉄道に興の薄いお客さんの目を
惹き付けようという工夫は、大いに評価できるところですね♪
(なんだこの「上から」目線)
鉄道博物館 2-5
次のコーナーへと参りましょう!
こちらは9850形蒸気機関車

大正元(1912)年にドイツ・ヘンシェル&ゾーン社で製造され、
同社やアメリカで製造された「親戚」、9750形および9800形とともに
輸入された蒸気機関車(SL)の1両。

その導入目的は、旅客列車が東海道本線・東北本線・信越本線・
関西本線といった幹線の急勾配区間を越えるのを援ける、
補助機関車(補機)として。

この9850形(9856号機)が投入された東海道線
山北~沼津間(現・御殿場線)には
25‰(パーミル、1000m進むごとに25m標高が上がる)もの急勾配が連続し、
従来の機関車では連結できる両数に限りがある、
という問題が有りました。

そこでこの9850形や9750形、9800形では
シリンダーと動輪を前後2組に分け、さらに前部の台枠が
曲線に沿って回頭することで、十分なパワーとスムーズな
曲線通過を両立する
マレー式という機構を採用。

これによって従来抱えていた急勾配区間での両数制限の
問題は解決され、9850形を始めとした「マレー式機関車」は
貨物列車の牽引、旅客列車の補機として、
9600形やD50形が導入されるまで活躍しました。

この9856号機は、旧鉄道博物館での展示用として
大正13(1924)年に同形式の中では最初に運用を外れた車両で、
交通博物館を経て現鉄道博物館へ移設。
日本で唯一現存するマレー式機関車として、
保存・展示されています。
鉄道博物館 2-9.5
説明だけではわかりにくいかと思うので、
イラスト付き解説も掲載。

「マレー式機関車」の構造は、右図の通り。
前後にシリンダーを備えた3組の動輪が配された、
3+3軸構造(合計6軸)となっています。

二組の走り装置は関節で結ばれ、
後部にはボイラーから直接供給される蒸気を用いた
高圧シリンダー
前部には蒸気を再利用するための
低圧シリンダーを搭載。(エコだ・・・!)

前部には後部と異なる「関節」が設けられ、
それによって多くの動輪を備えながら、
スムーズな曲線通過を可能としていました。
鉄道博物館 2-6
鉄道技術の発展に於いて傍流とも言える、9850形。
「マレー式」の形態を今に伝える貴重な1両となっている9856号機ですが、
ご覧の有様

実は本線を引退して旧鉄道博物館に移設される折、
展示用として内部構造が分かる様に、
表面を切開されてしまったのです!

蒸気機関車の仕組みや構造が目に見えるのは
ありがたいのですが、ズタズタに切り刻まれてしまった姿が、
とっても痛々しい・・・
(しかも超貴重な現存車両なのに!)
鉄道博物館 2-7
後部のテンダーも、ご覧の通り。
とっても分かりやすい!でも、なんか複雑・・・
鉄道博物館 2-8
運転室内部。
この頃になると、既に基本的な機器や人員のレイアウトが
確立されていることが分かります。

向かって左側に機関車の操作を担当する機関士が、
中央や右手に機関士の運転を補助する機関助士
陣取り、三人一チームとなって巨大な蒸気機関車を
動かしています。
鉄道博物館 2-9
SLの動力源となる蒸気を生み出す、火室
機関助士はテンダーやタンクから石炭を取り出し、
この火室へ投入。
そこで燃焼された蒸気が車体の各部へ行き渡り、
鉄塊を動かすエネルギーへと変化します。

投炭作業と呼ばれる石炭供給作業、
ただ放り投げれば良いというものではなく、
火室内に投じられた石炭が偏らないよう、
均等に放り投げる必要があったそうな。

C61形やC62形、D52形などの後期製造形の機関車では、
テンダーから石炭を自動で運搬し、蒸気の力で火室へと飛ばす
自動給炭機という便利道具も開発されたそうですが、
現役で稼働する機関車では実装されていない模様。

この9856号機の展示方法でもう一つ画期的なのが・・・
鉄道博物館 2-10
床下から機関車の足回りをじっくり観察できること!
間近から見上げるSLの重厚な足回りに、大興奮!
鉄道博物館 2-11
真下から。
中央に見える棒状の部品は、前後の台枠を繋いだ
連結棒でしょうか?
鉄道博物館 2-12
続いてご紹介するのはコチラ、ナデ6110形電車
列車番号は6141。

明治44(1911)年の電化によって利用者が増加した山手線
および中央本線向け増備型として、
大正3(1914)年に製造された木造電車

首都圏の通勤路線での運用に対応すべく、
当時としては大型の16m車体を採用。
室内の座席配置をロングシートとすることで、
それまでの乗車定員53名から92名と
大幅な定員増を実現しました。
(それでも今日の通勤電車とは比べ物になりませんが)

またスムーズな乗降を可能とするため、
乗降扉を片側三カ所に設定。
運転台と客室の間に仕切りを設けることで、
乗務員と乗客の動線を分離することにも成功しています。

この6141号車は大正3(1914)年の改称(デハ6285形へ)を経ながら
山手線中央本線で通勤輸送に従事。
両線の電圧昇圧に伴い大正14(1925)年に
花形路線を退きました。

その後は目黒蒲田電鉄(現・東急目黒線多摩川線)、
芝浦電気・鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)、
日立電鉄と60年近くに渡って遍歴を重ね、
昭和47(1972)年に引退・廃車

廃車後は日本国有鉄道国鉄)に引き取られ、
日本の鉄道100周年の記念事業として
「ナデ6141」に復元され、
大井工場(のち東京総合車両センター)にて保管。
鉄道博物館の開館に合わせて移設されました。

平成25(2017)年には通勤電車の原型となった車両として、
東京地下鉄道(現・東京メトロ1000形1001号車とともに
電車としては初となる
国の重要文化財指定を受けました。
鉄道博物館 2-13
今日ではパンタグラフを介して架線から電気を取り込み、
走行に必要なエネルギーへと転換している電車。
しかし当時の集電方式は今日のそれとは異なり、
トロリーポールと呼ばれる
二対のポールが取り付けられていました。

これらのポールはそれぞれで役割が異なっており、
片方が電気を取り込むための集電用
もう一方が変電所に電気を返すための返電用となっていました。
(節約のためでしょうか?)
鉄道博物館 2-14
「ナデ6141」の車内。
「木製電車」なので当たり前ではありますが、
壁・天井・床に至るまで、オール木造
現代のステンレス車両等と比べると、
目に優しい、触れて優しい感じが致します。
鉄道博物館 2-15
背もたれは木肌剥き出しであるものの、
座り心地は上々!
電球色の照明やレトロな雰囲気と相まって、
とても落ち着く

基本的な配置や構成は現代に通じる部分があるものの、
その佇まいからは、大正という時代を生きた人々の
息吹が感じられるよう。
鉄道博物館 2-16
「ナデ6141」運転台。
僅かな配管類とハンドルのみが配された室内空間は、
現代のモニターやボタン・機器に囲まれたそれと比べて
とってもシンプル
鉄道博物館 2-17
続いてはコチラ、日本離れしたシルエットとド迫力の巨体が魅力の、
ED17形電気機関車
大正12(1923)年製造のイギリス機関車、
そのトップナンバー。

日清・日露戦争後、産業の発展目覚ましい日本では、
さらなる工業力の拡大に力を入れる必要がありました。
そこで東海道本線横須賀線といった主要路線を
電化し、鉱物資源である石炭を工業へと回すことが
企図されたのです。

しかし当時の日本には、旅客列車の牽引に欠かせない
電気機関車を製造・運用するノウハウがない
そのため鉄道先進国であり、
同盟国でもあったイギリスを頼り、
機関車を輸入することとなりました。

こうして誕生したのが、
ED13形・ED50形・ED51形・ED52形といった
イギリス製電気機関車群。

当初は東海道・横須賀の両幹線で旅客列車の牽引に
従事していましたが、
昭和5(1930)年に横須賀線電車化

余剰となった一部の機関車が、歯車比の増大などの改造を受け、
中央本線新宿―甲府間へと転用。
号数はそのままに、「ED17形」へと形式変更されました。
鉄道博物館 2-18
当初は製造元であるイングリッシュ・エレクトリック社が採用した
デッカー・システムと称される電装品群の取り扱いに苦慮し、
故障が相次いだそうですが、
戦後に主要機器のほとんどを信頼性に優れ、
使用実態に即した国産品へと換装。

中央本線での貨物・旅客列車牽引の他、
仙山線身延線飯田線等で1970年代まで使用されました。

この1号機は昭和45(1970)年の廃車後、
山梨県甲府市の舞鶴城址公園(甲府城址)で
保存されていましたが、
平成9(1997)年に大宮工場へ移され車体を整備。
鉄道博物館開館に伴いここへ搬入されました。
鉄道博物館 2-19
機関車らしい武骨な足回り。

形式名に付く「ED」の記号ですが、
これはE=Electric、すなわち電気機関車を表し、
Dは動輪の数を表しています。
(例:6軸の電気機関車=EF、4軸のディーゼル機関車=DDなど。
蒸気機関車は動輪の数(C、D等)のみ)
鉄道博物館 2-20
「クロコダイル」の異名を持つ、ED17形
その理由の一つが、「ワニの鱗」にも例えられるこちらのスリット。
これは機械室へ冷却用の空気を送り込むための、通風口

この向こうはモーターに掛ける電圧を変えるための機器・
抵抗器が入っています。
運転時にはこの抵抗器が熱を発するため、
機器を冷やすためにこのような通風口が設けられているのです。
(同様の開口部は、現代の電気機関車でも見られます)
鉄道博物館 2-21
この機関車の来歴を示すのが、
車体側面に取り付けられた銘板

形式番号・号数の両脇に有るのは、
製造元であるイングリッシュ・エレクトリック社のもの
(「デッカ―・ワークス・プレストン」とある)と、
改造を請け負った東芝の銘板。

「昭和25(1950)年改造」とあるので、
主要機器換装時のものでしょうか。
鉄道博物館 2-22
今回最後のご紹介となります、ED40形電気機関車

大正8(1919)年、信越本線横川~軽井沢間の
推進・牽引運転用として導入された、
国鉄初の国産電気機関車

主戦場となる信越本線横川~軽井沢間には、
66.7‰(1000m進むごとに標高が66.7m上がる)もの
急勾配を誇る難所・碓氷峠(うすいとうげ)
が存在し、運行上のボトルネックとなっていました。

そこで当初はラックレールという歯形の凹凸を設けたレールを
2対の歯車で挟み込むアプト式という
走行方式が採用され、専用の蒸気機関車が充当されていましたが、
狭隘なトンネル内に排出された煤煙で、
乗務員が吐血窒息する事案が発生。

そこで1912(明治45/大正元)年に日本初の電化が行われ、
国有鉄道発の電気機関車として
10000形(のち「EC40形」と改名)電気機関車が輸入され、
横川~軽井沢間(通称「横軽区間」)に投入されました。

ED40形(当初は10020形)は先輩・10000形の増備車として、
また蒸気機関車を置き換えての完全電化
目的として開発・製造されたもので、
鉄道博物館に保存されている「10号機」は、
大正10(1921)年に製造された3次車に当たります。
鉄道博物館 2-23
前後で異なる形状となっている、ED40形
これは下りとなる横川方のみに運転台を設けた、
片運転台構造であるため。
連結器上まで大きく張り出した部分は、
抵抗器を収めるための抵抗器室となっています。

この写真で注目して欲しいもう一つのポイントは、
中央下部に突き出たオレンジと白に彩色された部品。
これは集電靴という、地面から集電するための装置。

ED40形が運用された横軽区間(旧線)は
トンネルが狭く、架線を張るためには大規模な工事が必須。
多大な予算を投じる必要がありました。

そこで従来の設備をそのまま活用するため、
集電方式として第三軌条方式(だいさんきじょう)と呼ばれる、
線路脇に設置した三本目の線路から電気を集める方式を採用。
この集電靴はその「第三軌条」から電気を収集するための装備なのです。
(現在でも地下鉄線などで、
第三軌条方式が採用される例があります)

もっとも機関車の入換や整備等を行う横川・軽井沢駅構内では、
乗務員の感電を防ぐために第三軌条を通すことは出来ません。
そのため駅構内では架空電車線(架線)を採用し、
そこから集電するためのパンタグラフも搭載されています。
鉄道博物館 2-24
このED40形、先ほどの9850形蒸気機関車のように
床下に潜ることが可能となっています!
その様子はご覧の通り。

現役時代、横軽区間でアプト式が採用されていたのは
先述の通り。

車両が通行するレールとは別に、中央に見えているのが、
歯形付きのレール・ラックレール(のレプリカ)
これにピニオンギアと呼ばれる歯車(画面外)を
嚙合わせながら勾配を上り下りすることで、
車両の滑走を防止する役割を果たしていました。

登場以後難所での安全な旅客輸送に貢献していた同形式でしたが、
老朽化や後継車両(ED42形)の登場によって、
横軽区間から引退
10号機はラック用の機器を取り外した上で東武鉄道へと譲渡され、
昭和43(1968)年まで活躍。

廃車後は国鉄へ寄贈され、大宮工場大宮総合車両センターにて
保存されていましたが、
鉄博開館に伴いアプト式機構を復元の上、展示。

平成30(2018)年には鉄道史上価値ある車両であることから
重要文化財にも指定されています。
鉄道博物館 2-25
まだまだたくさんの車両が待っている、「鉄道博物館編」。
次回もたっぷり、どっしりの内容でお届けします!

参考:鉄道博物館 ホームページ
    wikipedia
Twitter:https://twitter.com/Nori86651955
インスタグラム:https://t.co/vjjvOaZqEn?amp=1

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詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。