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鉄道博物館5 ~国鉄時代の車両たち 3~

近頃朝晩の冷え込みが厳しくなって参りまして、
「冬の到来だなぁ・・・」などとしみじみ感じ入っております、
ac802tfkです。

ようやく折り返しを迎えました、「鉄道博物館編」。
冬休みまでに横須賀編と合わせて大方片付けることを目標に、
必死に書き綴る毎日でございます。
(目標は・・・下方修正 汗)

そんなこんなでお送りする今回も、
国鉄時代に製造された車両たちにスポットを
当てて参ります!
そのトップバッターとして登場致しますのは、
「高速鉄道のパイオニア」的存在である・・・
鉄道博物館 4-2
0系新幹線!
新大阪・博多方先頭車として東海道・山陽を駆け抜けた先頭車の、
カッティングモデル

昭和39(1964)年、日本初、そして世界初の高速鉄道となる
東海道新幹線の開業に合わせて、
試験車両・1000形を元に開発・製造されました。

開発に当たっては
・未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した
実証済みの技術(プルーブン・テクニック)を組み合わせる。
・将来に改良の余地を残す
の2点をコンセプトにしながらも、
線路の規格に軌間1,435mmの標準軌
採用したこともあり、
それまでの在来線車両よりも5m長く、50cm以上幅のある
24.5mの車体長と、3,380mmの車体幅を持つ
大型車体を採用。

また世界初となる200km/h以上での高速走行に対応するため、
全車両にモーターを搭載した全電動車方式
となっています。
搭載機器の数々も、もちろん特別製

また路線側では安全に、かつ連続した高速走行が出来るよう、
全区間を高架構造築堤もあり)として
踏切等一切の障害物を排除
電圧は大電力を供給可能な交流25kvと定められました。

かくして「世界初の高速列車」として走り出した0系
(当時は単に「新幹線電車」と呼ばれた)
当初は安全性の観点から最高速度200km/h、
ひかり」号で東京-新大阪間4時間という
ダイヤでスタートしましたが、
翌昭和40(1965)年に路盤が安定を確保したことを受けて、
最高速度を当初の予定通り210km/hへ引き上げ。
速達列車となるひかり号で最速3時間10分と、
それまでの電車特急「こだま」号の半分ほどの所要時間で
東京―大阪間の移動が可能となりました。
(現在は最速の「のぞみ」で2時間22分。)

戦後日本の復興の象徴であり、また日本の発展と大動脈の形成に
大きな役割を果たした0系東海道新幹線
存在とインパクトは大きく、
夢の超特急として
映画やアニメ、特撮作品に登場するなど、
人々にとって希望と憧れの存在となりました。
鉄道博物館 4-1
見た人の印象として強く残るのが、この特徴的な丸い鼻
「団子鼻」とも呼ばれる前頭部は、航空機を参考にデザインされたもの。
その先端はFRP(繊維強化プラスチック)製で、
内部には非常時用の連結器を収納。
使用する際にはカバーを外し、ロープと滑車を用いて引き出す構造となっています。
(当初連結器カバーはアクリル製で、前照灯の光で光ることから
「光前頭」と呼ばれていましたが、鳥の衝突(バードストライク)等での
破損が相次いだことから、丈夫なFRP製に変更されました)

昭和45(1970)年の16両化、
同50(1975)年、山陽新幹線開業に伴う食堂車の組み込み、
同61(1986)年の最高速度220km/h化、
平成4(1992)年の起動加速度(0km/hからの加速度)向上等、
改良を続けながら22年間・32次に渡って
製造が行われ、
40年以上もの長きに渡る活躍を続けた0系

しかし1990年代以降の高速化やサービス水準の向上、
車両の老朽化もあって次第に活躍の場を減らし、
平成11(1999)年に東海道新幹線より撤退

山陽新幹線では需要に合わせて6両に短縮されながらも
ひかり」「こだま」で運用が続けられていましたが、
700系7000番台ひかりレールスター」の登場や
のぞみ」へのN700系投入に伴う
500系の編成短縮・転用によって、
こちらも平成20(2008)年の臨時「ひかり」を最後に
引退

鉄道史に輝かしい金字塔を打ち立てた名車は、
鉄路を去ることとなりました。

現在展示されている21-25は、
東海道新幹線開業に備えて
昭和39(1964)年に製造された、1次車

先述の通り新大阪・博多方先頭車として連結された車両で、
側面には後発車両と比べて横長の大窓
設けられていたのが、外観上の大きな違い。

当初は耐用年数20年と想定されていたものの、
連日の長距離・高速走行から老朽化が早く進行し、
昭和53(1978)年に廃車を迎えました。
(現在新幹線車両の置き換え目安は、15年程度とされています)

廃車後は浜松工場で車体を切断され、
カッティングモデルとして交通博物館に搬入。
プロムナードにあったD51 426と並べられる形で
展示されていました。

平成18(2006)年の交通博物館閉館後は鉄道博物館に移設され、
カット状態のまま保存・展示されています。
鉄道博物館 4-2.5
保存車両の横には、デビュー当時の駅の様子を再現した、
電照式の発車標
行先の横に記された、「超特急」の3文字が眩しい!
鉄道博物館 4-3
下を覗いてみて、ビックリ!
こちらで再現されているのは、東京駅ホーム下の様子。
ゴミ袋やリネン袋を持って忙しく動き回っているのは、
清掃員の方々(の人形)。

昭和39(1964)年の新幹線開業当時は
ダイヤに余裕が有ったこともあり、
一日の運用を終えて車両基地に戻ったところで
車両の検査・整備・清掃がまとめて行われ、
ゴミも車両基地にて回収されていました。

しかし利用客の増加に連れて列車が増発され、
車両が一日ごとに往復する回数が増えて来ると、
基地での回収では間に合わなくなってしまいます。

そこで終着駅で車内清掃とゴミの回収
行うこととなり、
ホーム下の空間を使ってゴミの回収が行われるようになりました。

ここでは折り返しの短時間に行われる、
作業の模様が再現されています。
(後日在来線列車から東京駅東北新幹線ホーム下を
覗いてみたところ、確かにこのようなスペースが設けられていました!
限られた時間で車内を快適な空間に整える、
清掃員さんたちに感謝と敬意を!)
鉄道博物館 4-4
続いては、東の「元祖・新幹線」、200系

昭和57(1982)年に「日本で2番目・3番目の新幹線」として
開業を迎える東北上越新幹線用車両として、
試験車両・962形をベースとして開発・製造した車両。

技術的には先輩・0系以来培われて来た技術を
土台として開発が進められ、外観も類似したものとなっていますが、
先頭の鼻が若干伸びている他、
前面下部に降雪地帯を安全・安定して走行するための
スノープラウ(雪かき)を装着。

その他雪対策の施された吸気口や雪かき室、
床下機器への着雪を防ぐため、
床下まで一体としたボディマウント構造を採用。
これらの「追加装備」でかさばる車体重量を低減するため、
0系の鋼製車体に対して、200系では軽量かつ丈夫な
アルミ合金で成形されているのも、大きな違い。
(搭載機器も、0系をベースとしながら改良が施されたものが
使用されています)

当初東海道新幹線0系)と同じ最高210km/h
営業運転が始められましたが、
開業翌年の昭和58(1983)年には早くも高速化に着手。
最高速度は当時日本最速となる240km/h
引き上げられました。

これに合わせて240km/h運転に対応した「F編成」(1000・1500番台」が登場。
初期車の一部も240km/h対応改造が施され、
F編成へと組み込まれます。

その後は各駅停車用に8両に短縮された「G編成」、
東海道・山陽新幹線100系に類似した
尖った前頭部(シャークノーズと呼称)を持ち、
2階建て車両を連結した「H編成」、
山形新幹線400系との併結機能を備えた
K編成」と、多様な発展を遂げて行きます。
(さらに編成ごとの両数の変更や編成組み換えなども
たびたび行われました)

そんな200系にも次第に老朽化の影が忍び寄っていたのですが、
JR東日本の事情もあって、
平成11(1999)年~平成14(2002)年初頭に掛けて、
K編成に対して車内外に渡る大掛かりなリニューアルを施工。

内装を当時の新形式(E4系およびE2系)と
同等の水準に改め、
外観上では塗色の変更や窓周りの形状変更等で、
大きな変貌を遂げました。
鉄道博物館 4-5
大きく装いを一新した200系でしたが、
一方では静かに「引退へのカウントダウン」も進行しつつありました。

まず各駅停車タイプとして運行されていた
上越新幹線「とき」(現在は速達列車)、東北新幹線「あおば
(現在の「なすの」に当たる列車)用
G編成(8両編成、210km/h仕様)が
平成12(2000)年までに廃車

さらにシャークノーズと2階建て車両を備え、
東北新幹線の顔」として君臨していたH編成も、
組成から10年あまりの平成16(2004)年に
定期運用を終了

平成20(2008)年にはF編成も廃車となり、
リニューアル工事未施工のオリジナル車は全廃

その後しばらくはリニューアル車が粘っていたものの、
平成23(2011)年に320km/h運転可能な新型車両・
E5系が登場すると、
廃車に向けた動きが再開。

同年のうちに東北新幹線を撤退した200系
上越新幹線専用となり、
平成25(2013)年に定期運用を終了
同年3月のイベント列車を最後に、本線上から姿を消しました。
鉄道博物館 4-6
保存車両の222-35は、
昭和57(1982)年に初期型・「E編成」の5次車、
E35編成の盛岡方先頭車として落成した車両。

昭和59(1984)・60(1985)年のF編成投入と同時期に
240km/h化改造を受け、
F56編成へと最初の改番。

平成4(1992)年には400系との併結が可能な
8両K編成(K11編成)に、
さらに平成10(1998)年に10両化によって再び改番
K31編成へ)を受ける等、
実に複雑な経歴を重ねた車両。

10両化以後はリニューアル工事を受けることなく運用され、
平成16(2004)年の新潟県中越地震
K25編成リニューアル車)が脱線して廃車された際には
代走にも入りましたが、
平成18(2006)年に代替となるE2系1000番台J69編成)が
落成したことにより、引退・廃車
K編成最後のオリジナル車両の一つとなりました。

廃車後は(お察しの通り)鉄道博物館へ移設。
ミニ新幹線との併結運転で使用された連結器が残された状態で、
保存・展示されています。
(イベント時には、連結器が引き出された状態で
展示されることもあるのだとか)

東日本版0系」とも言える車両、
是非とも車内も見てみたい!・・・と思ったのですが、
残念ながら内部は見学不可
鉄道博物館 4-7
その代わりと言ってはなんですが、
200系展示車両には楽しみが一つ。
それが9850形蒸気機関車に続いて、
床下に潜れるということ!

整備士の気分になって車両の真下へ潜り込んでみると、
20年あまりに渡って240km/hの高速走行を支えたDT201台車が、
目の前にぶら下げられています!
実に感無量の光景!

・・・余談ながら、200系の一部車両では
全長22,200mにも及ぶ
上越新幹線・大清水トンネル内に於いて、
下り坂を利用して、スペックを超える
時速275km/hを出していたそう。

これは山陽新幹線500系が営業運転を開始
(最高時速300km/h)するまで、
営業列車としては日本最速だったとか。

「0系モドキ(失礼)」が後の新型車(E2系など)と並ぶ速度を
叩き出す・・・
スゴイような、恐ろしいような・・・
鉄道博物館 4-8
ここでまた、国鉄電車に戻ります。
0系200系も、「国鉄電車」ではありますが)

オレンジ色が目に鮮やかなコチラの車両。
つい数年前まで大阪ド真ん中を走っていた103系
・・・ではなく、その先代に当たる通勤電車・101系

昭和32(1957)年、
大都市圏のラッシュ時に於ける混雑緩和を目的として、
開発が行われた新型通勤電車。

当時私鉄各社で導入が進められていた
高性能電車も念頭に置き、
都市圏通勤電車としての標準車両として、
また将来的な優等列車への技術開発としての意味合いも含め、
意欲的な技術導入が行われたのが、
この101系です。

その主な内容は
・私鉄各社で導入が進められていた新技術・
 中空軸並行カルダン駆動方式の採用
・切妻型前頭部に傾斜を付けた三枚窓を取り付けた、
 シンプルなデザイン
・片側に4扉を設けて、乗降時間を短縮
・軽量構造の全金属車体の採用
・高回転、小型軽量化を実現した主電動機
・段数を追加し、加減速度の向上とスムーズな
 力行(加速)と減速を実現。
 それによって機器や制輪子の摩耗を抑えた主制御器
・空気ブレーキと電気ブレーキを連動させ、
迅速かつ強力な制動を掛けられる電磁直通ブレーキ
・編成全体での加減速性能の向上を図った、
全電動車方式の採用
等々、103系を始めとする
のちの通勤電車に脈々と受け継がれる
技術・スタイルがこの系列に於いて確立されており、
新性能電車という呼称とともに
国鉄車両に革新をもたらす
存在となりました。

こうした数々の新技術を引っ提げ、
昭和32(1957)年に中央線にて営業運転を開始した101系
しかしいざ走らせてみると、
消費電力が大きく、フルスペックが発揮できない
という、鉄道車両として(工業製品としても)
致命的な問題が発生。

そこで国鉄は当初加速力を抑えて、
のちに動力を持たない付随車を追加して
旧型電車を「新性能電車」で置き換える方針を取りましたが、
結局101系が自慢の加減速性能をフルに発揮する場面は、
生涯訪れませんでした

そんな大問題を抱えながらも生産と増備は続けられ、
中央線の他大阪環状線山手線総武線といった
首都圏・関西圏の通勤路線への新製投入、
のち赤羽線埼京線の一部)や京浜東北線への転用が行われ、
昭和44(1969)年までに試作車含め1,535両
製造・投入。

旧型電車の置き換えとして、
また通勤電車の性能の策定や技術開発という点に於いては、
十分成果は残したと言えるのではないでしょうか。

現在鉄道博物館で保存されているクモハ101-902は、
営業運転開始に先立つ昭和32(1957)年10月、
試作車・モハ90系の一両として登場。

各種試験ののち同年12月より営業運転に投入され、
昭和34(1959)年の称号改正以後は
101系900番台を名乗りました。
また量産車の登場に合わせ、量産化改造
行われています。

昭和54(1979)年の廃車後は
東京総合車両センター(旧・大井工場)正門前で
静態保存され、平成19(2007)年の鉄道博物館かい・・・(以下略)

営業運転開始前に東海道本線浜松―米原間にて車両性能を試す
高速度試験が行われたのですが、
試験編成の一両としてこの101-902(当時はモ90系)が登板。

試験では当時の国鉄車両最速記録となる
135km/hをマークしています!
(平たい顔なのに)
鉄道博物館 4-9
この101系も、車内見学可能。
(特急・新幹線車両はNGなのだろうか?)

左右4ヶ所ずつ設けられた乗降扉。
その間にロングシートが配置された、
ごく一般的な通勤電車のスタイル

半世紀以上前の車両ではありますが、
この頃から現代に通じる通勤車両の基礎が築かれていたのが
分かります。
開発に当たった人々の先見の明に、脱帽。
鉄道博物館 4-11
この車両で面白いのが、当時の様子が再現されていること。
現役時代のものと思しき路線図や・・・
鉄道博物館 4-10
広告の類が、そのまま掲示されています。
いや~、時代を感じる
鉄道博物館 4-12
101系運転台。
前回取り上げた455系(1965年製造)よりも
古い車両であるためか、
いたってシンプルな造りとなっています。

しかしながら乗務員や機器類の配置は
現代の車両に近いものとなっており、
基本的な構成はこの101系がベースと言えるでしょう。

101系引退後も、連綿と紡がれ続けた国鉄通勤型車の系譜。
しかし近年ではその活躍の場は急速に狭まりつつあり、
首都圏では205系相模線500番台
南武支線1000番台
鶴見線1100番台といった改造車を除いて全廃

関西都市圏では101系の後継に当たる103系奈良線に、
そのまた後継の201系大和路線おおさか東線に、
205系(1000番台)が奈良線にそれぞれ配属。
201系は2024年までの置き換えが決定済み)

地方ではJR九州に地下鉄直通仕様の
103系1500番台筑肥線筑前前原以西)、
JR東日本では仙石線向け205系3100番台
宇都宮線日光線205系600番台と、
確実に活躍の場は失われつつあります。
(先日の武蔵野線引退時のお祭り騒ぎは、記憶に新しいところ)

改めて申しておきましょう。記録するなら今のうちです。
鉄道博物館 4-13
最後は再び蒸気機関車SL)に戻りまして、コチラ、
C51形をご紹介!

大正8(1919)年に鉄道省により開発が開始され、
翌9(1920)年より製造が開始された、
幹線での旅客列車牽引を目的とする
テンダー式蒸気機関車

国産初の本格的な高速旅客列車牽引機であり、
開発に当たってはアメリカ・アルコ社よりの
輸入となった8900形をベースとして、
パシフィック形軸配置(先輪2軸、動輪3軸、従輪1軸)を採用。

そのため当初は8900形に続く形式として、
18900形の形式番号を与えられました。
(昭和3(1928)年に「C51形」に名称変更)

運用面では本線での最高速度を100km/hと定め、
狭軌(軌間1,067mm)の規格内で最大限の性能を発揮させるべく、
狭軌用蒸気機関車としては当時世界最大となる
スポーク式1,750mmの動輪直径を採用。
これは戦後製造の機関車まで踏襲される、
国産大型蒸機の標準サイズとなりました。

製造数は大正8(1919)年から昭和3(1928)年に掛けて、
計289両。

営業運転開始後は備えた高速性能・牽引力・信頼性でもって
主要幹線の旅客列車牽引を担当。
東海道本線(つばめ)や富士等、
花形列車にも充当されました。

しかし1930年代以降は輸送力の増加、
重量の大きな鋼製客車の登場などで
後継のC53形C59形
その地位を明け渡し、
地方路線へ転属することとなりました。

戦時中に軍部の要請に応え、
同形機16両が中国(華中鉄道)へ送られたのも、
大きなトピック。

戦後も地方路線で旅客列車の牽引に用いられていましたが、
国鉄によって動力近代化計画※が推進されると
早期に廃車が進められ、
昭和40(1965)年に全車が運用を退きました。

※動力近代化計画・・・エネルギー効率が低く安全性・快適性にも難のある
              蒸気機関車に代えて、
              電車、もしくは気動車ディーゼルカー)に置き換えよう、という計画。
鉄道博物館 4-14
C51形より採用された、スポーク式1,750mmの動輪。
「C形機関車」である同形式には、3軸の動輪が装着されています。

動輪中心から外側へ向かって放射状に伸びているのが、
スポークと呼ばれる車輪の構成部材。
鉄道博物館 3-3
「ボックス式」のC57形と比べると、
直径は同じながら、その違いは一目瞭然!
鉄道博物館 4-16
保存機であるC51 5は、
製造初期の大正9(1920)年に製造され、
神戸鉄道局に新製配置。

大正12(1923)年、山陽鉄道(現在の山陽本線の一部)
三石(みついし、岡山県備前市)-岡山間の延伸開業に合わせて
開設された、岡山機関庫(現在の岡山機関区)へ転属。

そこから→神戸機関庫→姫路機関庫→梅小路機関区(現在の京都鉄道博物館)
→福知山機関区→米原機関区→豊岡機関区と
遍歴を重ねます。

終戦後の昭和20(1945)年11月、
奈良機関区(現在の奈良電車区
配属され、奈良線等で運用されていましたが、
昭和21(1946)年4月1日、稲荷駅構内での貨車入換作業中に
ポイント(転轍機)の操作ミスと車掌の確認不足から
安全側線の砂盛りに乗り上げ、脱線
エイプリルフールのような事態
なってしまいました。

復帰後は改修工事を受けるなど平穏な日々を送り、
昭和34(1959)年に最後の所属となる伊勢機関区へ転属。
同37(1962)年に廃車となりました。

廃車後は東京都青梅市(おうめし)の青梅鉄道公園にて
静態保存されていましたが、
昭和57(1982)年、台風がもたらした風雨によって
土砂崩れが発生し、まさかの横転
引退後にも関わらず、2度目の事故に遭ってしまいました。

その後損傷箇所の修復を受け、修繕を受けながら
保存・展示され、
平成19(2007)年の鉄道博物館k(以下略)

さて、皆さん写真を見ていてお気づきのことが有るかと思います。
展示車両で目立つのが、前面に取り付けられている
日本国旗一対と、
皇室の紋章である菊花紋章(きくかもんしょう、きっかもんしょう)

現役時代、C51形はその高性能と信頼性から
皇室専用列車・お召し列車の専用機という大任を預かっており、
5号機の同形機・236号機239号機の牽引により、
104回ものお召し列車が運行されました。

保存車両はその当該機ではないものの、
華やかなりし頃を偲ばせる演出が為されています。
で、何故その装飾が施されているかと言いますと・・・
また次回!

参考:鉄道博物館 ホームページ
            解説パネル
    機関車データベース デゴイチよく走る!
wikipedia

Twitter:https://twitter.com/Nori86651955
インスタグラム:https://t.co/vjjvOaZqEn?amp=1

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。