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横須賀旅1 ~戦史の証人・戦艦三笠~

「鉄道博物館編」を書き結び、ほっとひと息!
・・・と思う間もなく、
次のひと山に取り掛かります。
新年を迎えるまでに、終わらせたい!

半年間の「埼玉暮らし」を終えた私。
次に向かうは関西・滋賀県!
・・・なのですが
真っ直ぐ向かうだけでは面白くない!
ということで、いつものごとく寄り道します

「埼玉県のターミナル駅」・大宮駅から
モダンタウン・横浜へ出て、そこからさらに「路地裏の赤い彗星」こと
京急に揺られること約30分。
やって参りました・・・
横須賀旅 1
横須賀市!

神奈川県南東部、三浦半島の大部分を占める中核市で、
市域は100.82㎢(東西約15.5㎢、南北約15.8㎢)。
16万7,211世帯に県内5位となる
39万6,971人が居住しています。

市域の東側は東京湾、西側は相模湾
二つの海に挟まれ、
東京湾側に主に市街地工業地帯が、
相模湾側を中心に農地が展開。

都心に対しては鉄道網や道路網が整備されており、
市内中心部からは京急本線JR横須賀線
約1時間~1時間10分程度。
車でも横浜横須賀道路などを介し、都心へ1時間15分程度、
東京国際空港羽田空港)まで
1時間ほどと、アクセス良好

古くから三浦半島の中心として重要視されていた
この地域が脚光を浴び始めたのは、江戸時代に入ってから。
徳川氏による江戸幕府の開府と江戸の発展に伴い
全国各地から物資が江戸の町に集積されるようになると、
伊豆の下田奉行所だけでは船便への対処が
難しくなって行きました。

そこで着目されたのが、江戸へ向かう航路(現在の東京湾)の
入口に当たる、浦賀(現在の横須賀市域の一部)の地。
享保5(1720)年、下田奉行所より移転する形で
浦賀奉行所が設置され、
「船番所」が置かれて江戸へ出入りする船の「船改め」が
行われるように。

江戸中期以降は沖合に度々外国船が現れ、
沿海地域の管理を受け持つ浦賀奉行所は、
江戸や海域を守る海防の役割も担当。

幕末には幕府の命によって沿岸警備のための台場が築かれ、
会津藩を始め川越藩・彦根藩・熊本藩・長州藩といった
譜代・外様の有力大名が江戸近海の警備に
当たりました。

そんな浦賀が諸国の耳目を集めることとなったのが、
嘉永6(1853)年のペリー来航

・フィルモア大統領からの親書を携えた
東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリー率いる
蒸気船2隻・帆船2隻の威容は
長年の江戸幕府による安定した統治と平和に安んじていた
日本の人々を揺るがし、
翌嘉永7(1854)年の日米和親条約締結を期に、
尊王攘夷運動や討幕への大きな潮流へと
繋がることとなりました。
横須賀旅 2
横須賀の歴史はここで一旦ストップ
到着初日となる一日目の夜は投宿したホテル(ホテル横須賀)で
ゆっくりと過ごし、
二日目の朝から行動開始!

ホテルを出てから「米が浜通り」を渡り・・・
横須賀旅 3
国道16号線(東京環状道路)沿いの並木道を歩いて・・・
横須賀旅 4
横須賀の発展に欠かせない場所、横須賀港へと
出て参りました!

横須賀港誕生と発展のきっかけとなったのが、
江戸幕府による製鉄所(造船所)の建設。

浦賀沖への黒船来航による異国の脅威を目の当たりにした
幕府や諸藩は、艦船の輸入によって海軍力の強化を企図。
それに合わせて艦船を運用するための
修理や器具製造を行う施設が必要とされました。

そこで元治元(1864)年、幕府はフランス公使レオン・ロッシュに
製鉄所の建設を依頼。
その監督責任者としてフランス人技師レオン・ヴェルニー
招かれ、ここ横須賀の地にて造船施設の建設に着手。

明治維新による体制の刷新もありつつ工事は進められ、
約24万6,000㎡
施設が完成を迎えることとなりました。

横須賀港にとってもう一つの転機となったのが、
海軍施設の開設

明治17(1884)年、
横浜に置かれていた海軍の東海鎮守府が横須賀へと移転
同時に横須賀鎮守府と改名され、
軍港・横須賀」の歴史が始まります。

やがて軍港施設の拡大によって民間船の航行が
制限されるようになると、
貨物線等は現在の稲岡町付近、
当時漁村であった白浜海岸
拠点として運用されることとなり、
「小川町」と改名された白岡集落を中心に
埋立地が造成。

のちに市街地も埋立地へと移転・拡大し、
現在の横須賀市の基盤が確立されて行きました。

もう一つ横須賀発展に寄与したのが、
鉄道の存在。

明治13(1880)年の観音崎砲台の建設、
同17(1884)年の横須賀鎮守府開設により、
軍事上の重要性を高めつつあった横須賀。

そこで陸軍大臣・大山巌(おおやま いわお)と
海軍大臣・西郷従道(さいごう つぐみち)の進言もあり、
明治政府は横須賀地域への鉄道建設を企図。

検討の末、現在の横須賀駅を終点と定め、
明治21(1888)年に着工、同22(1889)年に
横須賀線が開通しました。

横須賀線はその後複線化、電化
昭和19(1944)年の久里浜延伸と、
順調に発展。
軍用路線として開通・発展に至った同路線ですが、
今では都心‐横須賀を繋ぐアクセス路の一つとして、
総武本線を介して遠く成田空港まで結ばれています。

もう一つが、みんな大好き(?)京浜急行電鉄京急

こちらは軍事色の強かった横須賀線と異なり
当初から民間路線として計画され、
昭和5(1930)年に湘南電気鉄道京急の前身)として
小金町(こがねちょう)-浦賀間29.9kmの路線が開通。
(他 金沢八景‐湘南逗子(現在の逗子・葉山駅)間
5.7kmもこの時開通)

昭和17(1942)年には横須賀堀内(現在の堀ノ内駅)と
湘南久里浜(現・京急久里浜駅)を結ぶ
久里浜線が開通。
(現在はさらに三浦市の三崎口駅まで延伸)

これにより、横須賀線と合わせて京浜地域と
三浦半島を結ぶ鉄道アクセス路が形成されることとなりました。

その後大正12(1923)年の関東大震災
昭和20(1945)年、終戦による海軍解体
連合国軍上陸等紆余曲折を経ながら
整備・発展が続けられた横須賀市。

政令による指定を受けた中核市として、
また国際・国内海上輸送に重きをなす重要港湾として、
さらには米軍・海上自衛隊が拠点とする軍港として、
民政・国防両面で重要な役割を果たしています。

そんな横須賀でまず向かったのは、
「新港」と呼ばれる港湾施設の一角にて保存されている・・・
横須賀旅 5
戦艦三笠(せんかんみかさ)

広大な国土と強大な国力を誇るロシア帝国
東洋の島国・日本が真っ向から挑み、
歴史的な勝利を収めた日露戦争

その中でも特に象徴的な勝利として戦史に刻まれている
明治38(1905)年の日本海海戦に於いて、
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)司令長官率いる
連合艦隊旗艦として
先頭に立って戦ったのが、この三笠
横須賀旅 6
現在では世界三大記念艦にも数えられる偉大な艦が
誕生したのは、明治35(1902)年のこと。

当時日本には艦隊の象徴にして主戦力となる戦艦を
自力で建造する能力が備わっておらず
戦艦群の整備に当たっては、
もっぱら他国への発注に頼る状況にありました。

この三笠敷島型戦艦の4番艦として、
のちに同盟国(日英同盟)となる
イギリスヴィッカース社
(現在のBAE システムズ・ランド・アンド・アーマメンツ)に建造を依頼。

バーロー・イン・ファーネス市に在った同社の造船所にて
明治32(1899)年に起工、
同35(1902)年に竣工へと至りました。
建造費は880万円
(現在の物価で360億9760万円
横須賀旅 7
完成した三笠のスペックは、
・全長・・・122m
・幅・・・23m
・排水量・・・15,140t
・速力・・・18ノット(およそ18km/h)
・馬力・・・15,000馬力
・兵装・・・30cm主砲4門
      15cm副砲14門
      8cm砲20門

竣工に先立ち初代三笠艦長・
早崎源吾(はやさき げんご)大佐以下200名の士官・乗組員が
ヴィッカース造船所に到着。
偽装工事下での艦内で設備や搭載機器等の完熟に努めました。

そして明治35(1902)年3月1日の竣工後、
同月13日にイギリスを出港。
2ヶ月余りの回航を経て、
5月18日に横須賀港に入港。

横須賀にて1ヶ月余りの整備を受け、6月23日に横須賀出港。
7月17日に所属先となる舞鶴港へと到着しました。
横須賀旅 8
こうして連合艦隊の一員となった三笠
明治36(1903)年には連合艦隊旗艦となり、
司令長官・東郷平八郎(とうごう へいはちろう)中将が乗艦。

明治37(1904)年より開戦した日露戦争
戦列に加わり、
旅順攻撃旅順港閉塞作戦に旗艦として従軍します。

8月10日、旅順港を出港したロシア太平洋艦隊との間で
黄海海戦が勃発。

連合艦隊は逃走するロシア艦隊に対して砲撃を加えたものの
敵艦を撃沈することは叶わず、
敵艦隊の針路を塞いで撃滅を図る「丁字戦法」と合わせ、
大きな課題を残すこととなりました。

そして運命の明治38(1905)年5月27日。
九州沖で哨戒に当たっていた仮装巡洋艦・信濃丸からの
「敵艦隊発見」の報を受けた戦艦三笠以下
連合艦隊主力は、
福岡県・沖ノ島沖対馬海峡にて、
はるばるバルト海からの大航海を行っていた
シアバルチック艦隊と接触。

横須賀旅 1-I
「三笠」を先頭にした連合艦隊主力が実行した、
敵前での左90°大回頭。
・ウラジオストクへと向かう敵艦隊の針路を押さえ、
砲撃戦へと持ち込む狙いがあった。

14時5分、敵前にて大回頭を行った「三笠」は、
転針を終えた後同10分より敵艦隊への砲撃を開始。

長期に及ぶ航海の上十分な補給を受けられなかった
ロシア艦隊に対し、
事前に厳しい訓練を繰り返し、
威力を高めた新式の下瀬火薬(しもせかやく)を用いた
連合艦隊は、砲撃の威力・精度で敵を圧倒。

数時間の砲撃戦と翌日の掃討戦の末、
バルチック艦隊38隻中19隻を撃沈
7隻を拿捕(だほ)または抑留(よくりゅう)するという大戦果を挙げ、
のちに日本海海戦と呼ばれる
一大決戦は、日本側の一方的勝利
幕を閉じました。

この結果日本海軍は極東海域に於ける制海権
完全に掌握し、
主戦場となる中国大陸への確実な補給路を確保。
またこの大勝利が日露間での和平交渉への糸口となり、
日本時間9月5日のポーツマス条約締結へと
繋がることとなりました。
横須賀旅 9
こうして連合艦隊司令長官・東郷平八郎長官、及び従軍将兵とともに
戦勝を象徴する英雄的存在となった三笠
しかしその功労艦を、悲劇が襲います。

「ポーツマス条約」締結から間もない明治38(1905)年9月11日深夜。
長崎県・佐世保軍港に停泊していた「三笠」。

その15cm副砲の火薬庫が、突如として爆発
次いで30cm主砲の火薬庫にも誘爆し、
瞬く間に「三笠」は爆沈
乗組員の多くが眠りに就いていたこともあって、
339名もの死者を出す大惨事となりました。
(東郷長官はこの時上陸していたために難を逃れました)

その後1年近く佐世保港内に沈底していた三笠でしたが、
翌明治39(1906)年8月に再戦力化のため浮揚され、
海軍主力となる第一艦隊旗艦として
戦列に復帰しました。
連合艦隊旗艦の任は、三笠爆沈後
姉妹艦・敷島(しきしま)へと移譲)

大正元(1912)年12月に三笠は第一線から引退
予備艦隊に旗艦として組み込まれ、
舞鶴管区内の沿岸警備の任に当たることとなります。
横須賀旅 10
大正3(1914)年、ヨーロッパを火種として
人類史上最初の超国家規模の戦争・第一次世界大戦
勃発すると、日本も「日英同盟」を口実に対独戦に参戦。

これにより海軍は戦力の拡大・整備の必要性に迫られ、
三笠は再戦力化の上第二艦隊へと編入。
中国・青島を根拠地とする東洋艦隊に備え、
日本海での警戒に当たりました。

1917年にロシア革命が勃発して
社会主義国家・ソビエト連邦が誕生すると、
他の列強諸国とともに日本シベリア出兵に参加。

これに備えて三笠では防寒工事や水上機の搭載等が行われ、
大正7(1918)年にアムール河河口の町・
尼港(にこう。現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で
レジスタンス組織(赤軍パルチザン)による住民虐殺事件・
尼港事件が発生すると、
三笠は砕氷艦・見島とともに住民の救助に出動しましたが、
堅氷に阻まれ救助活動は失敗に終わりっています。
(結果7百名の在留邦人と数千名にも及ぶ現地のロシア人が、
虐殺されるという悲劇となりました)

大戦後にアメリカ・ワシントンで開かれた
ワシントン会議にてワシントン海軍軍縮条約
採択され、日本の海軍戦力が制限されることが決まると、
既に旧式艦となっていた三笠廃艦が決定。

当初は姉妹艦・敷島とともに解体される予定でしたが、
日露戦争での戦勝をもたらした三笠には
「記念艦として保存すべき」という声が沸き起こり、
再戦力化出来ない状態とすることという条件付きで
条約参加国からの同意を獲得。

大正15(1926)年11月12日、
摂政宮(裕仁親王、のちの昭和天皇)殿下や
高松宮宣仁(たかまつのみや のぶひと)親王殿下などの皇族方、
海軍大将・井上良馨(いのうえ よしか)元帥、
日本海海戦で連合艦隊旗艦司令として指揮を執った
東郷平八郎元帥(三笠保存会名誉会長)といった海軍の重鎮、
加藤寛治(かとう かんじ)横須賀鎮守府司令長官
(元三笠砲術長)を始めとする元乗組員らの参列の下で
保存記念式が執り行われ、
三笠は戦史に刻まれる大勝利を象徴する証人として、
保存・継承されることとなりました。

現在では歴史的海戦に参加した「記念艦」として、
また旧日本軍唯一の現存艦艇として、
その姿を保ち続けています。
横須賀旅 11
艦尾側から。
現在三笠は岸壁に埋め込まれる形となっており、
再び海に浮かぶことは叶わない状態となっています。

しかしながら竣工から百年以上が経過しながらもなお
現役当時の姿を保っているという事実には、
驚きとともに畏敬の念すら覚えます。
横須賀旅 12
艦尾旗竿上に掲揚される軍艦旗

国際慣習法(国際法の一部)では
軍艦であることを示す旗の掲示が義務付けられており、
旧日本軍では旭日旗を掲揚して、
日本海軍所属艦艇の証としていました。

この伝統は後発の海上自衛隊にも継承され、
日本の海を守る防衛力の象徴として、
今もなおはためき続けています。
横須賀旅 13
艦首側から。
側面と並んで「軍艦らしい」シルエットが望める位置ですが・・・
横須賀旅 14
戦前戦艦・空母・巡洋艦・海防艦といった主力艦艇への
着用が許された菊花紋章は、
あいにく訪問時は塗装作業中

なんだか残念な状態となってしまいました・・・(泣)
横須賀旅 15
気を取り直しまして、30cm主砲と艦の「頭脳」たる
艦橋付近をアップで。

後年さらに大型化・重武装化していった戦闘艦には及びませんが、
威風堂々とした様は、まさに幾多の砲火を掻い潜った強者のそれ。
横須賀旅 16
前甲板側方に配置された、巨大な主錨(しゅびょう、イカリ)

近代以降の船舶や艦艇では船首(艦首)部分に錨を設置するのが
一般的ですが、
三笠建造当時、木造船以来の
艦首を敵船にぶつけてダメージを与えるという
戦術思想が残っており、
そういった近接戦に備えて主錨は側面に置かれています。

これに合わせて三笠艦首は船体下部が膨らんだ
鋭角的な形状となっており、
敵船に打撃を加えるための衝角としての
役割も兼ね備えていました。
横須賀旅 17

横須賀旅 18
艦体側面に配された、多数の火砲
大きめのものが15cm副砲
小さめの火器が8cm砲となっています。

2枚目写真下方に写っている黒い物体は、
日露戦争中の旅順攻囲戦で沈没・着底し、
日本軍による浮揚・鹵獲後に装甲巡洋艦阿蘇」として運用された
艦・バヤーンバヤーン級装甲巡洋艦1番艦)に装備されていた、
15cm副砲
横須賀旅 19
「乗艦」前に、艦体傍の展示品にもご注目!

今にも「鋼鉄の咆哮」が聞こえて来そうなこちらの大砲は、
1848年にで製造された、
30ポンドカノン砲

安政元(1854)年、日露和親条約締結のため来航していた
船・ディアナ号に搭載されていたもので、
同船は伊豆・下田港に停泊中の
旧暦11月4日(グレゴリオ暦12月23日)に発生した
安政東海地震によって引き起こされた
津波によって、破損

修理のために回航される途上、
強風に煽られ駿河国(現在の静岡県中部)宮島村(現・富士市)沖にて
沈没したと伝わります。

この30ポンドカノン砲
浮揚後米海軍横須賀基地に保存されていたもので、
当時のハウエル基地司令官から海上自衛隊へと
寄贈されたもの。
横須賀旅 21
こちらの写真右手、ちぎれた鉄片は、
明治37(1904)年の黄海海戦にて
被弾・脱落した三笠後部主砲先端部

同海戦では後部主砲の砲台長として
皇族出身の伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう)殿下が
指揮を執り、自身もこの被弾によって負傷
負われています。

その後も軍歴を重ねた博恭王殿下は、
艦長や艦隊司令を経て元帥海軍大将
軍令部総長にまで上り詰め、
終戦日本海軍の終焉に立ち会うこととなりました。

主砲身の横に置かれているのは、
三笠!・・・ではなく、艦艇(艦名記載なし)の主砲弾。
横須賀旅 20
で、一番驚かされたのが、コチラ!

「史上最大の戦艦」・大和型戦艦に搭載されていた主砲弾・
九一式徹甲弾

対空用の「三式弾」とともに旧海軍の戦艦巡洋艦に搭載された
対艦用の砲弾で、
大和型戦艦大和武蔵)に搭載された46cm主砲用のものは
・全長1,955mm
・重量1,460kg
・炸薬重量33.85kg
・最大射程42,030m(約42km)と、
言うまでもなく最大のモデルが採用されています。

これがあの「伝説の巨艦」たちに積み込まれていたと考えると・・・
スゴくグッとくる

それでは、三笠艦内へと参りましょう!
現在記念艦として保存されている三笠
そのうち見学可能なのは、最上部に当たる上甲板艦橋
士官クラス以上の居住区となっていた中甲板の2層。

艦内はもちろん自由に回ることが出来ますが、
「30分コース」と「60分コース」から成るガイド付きツアー
用意されています。
超絶ゆっくり回りたい私は、当然「自由見学」をチョイス!)

・観覧時間
4月~9月 9:00~17:30
3月・10月 9:00~17:00
11月~2月 9:00~16:30

・「休艦」日
12月28日~31日

・観覧料金
一般 600円
シニア(※満65歳以上) 500円
高校生 300円
小・中学生 無料
障碍者 200円
※介護者(2名まで)も200円

・団体料金
一般(シニア含む) 500円
高校生 200円
小・中学生 無料
横須賀旅 22
艦内へ入ったところで早速出迎えてくれたのは、
戦艦三笠最大の火力を誇る30cm主砲塔

最大射程約10km、重さ50t(!)。
主砲塔を動かす動力には水圧が利用され、
厚さ35cmの装甲板に包まれた内部では、
乗員40名が砲塔の操作・照準・射撃に当たっていました。

砲塔天蓋部分(天幕の外)に突き出ているのは
観測窓といって、
射手及び砲台長が砲塔外の観測に用いたもの。

黄海海戦では後ろ寄りに配置された
将校塔と呼ばれる部分に伏見宮博恭親王殿下が詰め、
被弾によって負傷しながらも戦闘指揮に当たりました。
横須賀旅 23
主砲塔の前に展示されている、
三笠の主砲弾
左が徹甲榴弾、右が鍛鋼榴弾と呼ばれるもので、
重さ約400kg

内部には爆発力と燃焼性に優れた下瀬火薬と呼ばれる、
当時最新にして世界トップクラスの威力を誇る火薬を充填。
起爆装置に安全かつ感度の高い伊集院信管
用いることで、
日本海海戦ではロシアバルチック艦隊を圧倒する
戦果を挙げることに成功しました。
横須賀旅 24
三笠主砲の射程を示したパネル。
最大射程10kmは、現在の位置から逗子市や久里浜、
観音崎、葉山町あたりまでその射程に収めることが可能。

もっとも「最大射程」はあくまで指標の一つに過ぎず、
実際には照準器の精度から砲戦に適した距離は
6kmほどだったそう。

さらに命中精度となれば10%程度に止まるのが普通で、
これを高めるために各国海軍は精力的な訓練に励みました。
日本海海戦の勝因の一つに、
連合艦隊の命中確率の高さが挙げられています)
戦艦三笠 2-1
ついに始まった、横須賀旅三笠見学
次回は艦の戦闘力となる艦砲が並ぶ上甲板と、
艦の「頭脳」たる艦橋を見て、
東郷長官らが指揮を執った艦橋頂部へと向かいます!

参考:記念艦三笠 公式ホームページ
    展示パネル
    wikipedia

Twitter:https://twitter.com/Nori86651955
インスタグラム:https://t.co/vjjvOaZqEn?amp=1

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。