横須賀旅3 ~三笠艦橋と前甲板~
- 2020/12/27
- 18:59

三笠上甲板を一通り見て回った私。
今度はここから続く階段の森を上って、
東郷長官が戦闘指揮を執った「伝説の場所」・
最上艦橋を目指します。
注)記念艦三笠は明治時代の軍艦であり、
「バリアフリー」という概念は導入されておりません。
艦橋部分へ上がる際には足下に気を配り、
お怪我などなさいませんようご注意ください

「階段の森」を上る途中に在るのが、
艦長を始めとする士官たちが航海や戦闘の指揮を執った、
操舵室
艦の進路を見通す部屋には
1.艦の針路を指し示す羅針儀(らしんぎ)
2.舵取り機械と接続され、操艦を行うための操舵輪(そうだりん)
3.機関室へ速力を伝える速力指示器
4.艦内各部へ指令を伝達するための伝声管(でんせいかん)
といった操艦に必要な機器が揃えられています。
このうち羅針儀と操舵輪は、
日露戦争当時使用されていた実物
だそうな。
日本海海戦当日、ここから伊地知艦長を始めとする
士官たちが指令を発して三笠を操っていたと考えると、
非常に胸熱

操舵室の裏側には、艦の航海責任者たる航海長が
予定の航路を引いて艦の位置を算出した重要な部屋、
海図室も残されています。
ここには航海に必要な水路図誌、海図(チャート)、信号旗、
六分儀、測程儀、晴雨計などの機器・道具が
置かれていました。
写真左上、古びた棚の上に並んでいるのは、
僚艦との交信に使われた信号旗でしょうか?

艦橋横に置かれたこちらの機器は、
僚艦への発信や夜間の索敵・探照に用いられた
60cm信号探照灯
戦場を照らす光源として開発・発展したこれらの照明器具は、
当初は炭素棒を光源に、後電照式となり、
2度の大戦や高度な電子化を経た現在でも
艦船の必需品であり続けています。

艦橋付近から望む、横須賀新港。
沖合に浮かぶのは、
要塞跡が残る「東京湾最大の島」・猿島
人の居住しない無人島でありながら、
バーベキューや海釣り、磯遊び、
歴史散策等多様な楽しみ方が可能な
一大レジャースポットであり、
記念艦三笠そばに在る三笠ターミナルから
小型クルーズ船でわずか10分ほどで上陸可能な、
都会の隣の無人島
(横須賀再訪の機会があれば、行ってみたい!)

艦橋から眺める、30cm主砲塔と前甲板。
一見何気なく現在地に置かれているようにも思える三笠ですが、
向けられた方角にはちゃんとした意味があるそう。
艦首の延長線上には現役時の主である
天皇の住まい・皇居を拝み、
さらには日露戦争時の敵国であり、
今に至るまで北辺の脅威であり続けるロシアを睨んだ方位に
定められているとか。
(太平洋戦争終結後、進駐して来たソビエト連邦軍から
解体要求が出た、などという話も)
日露戦争戦勝の象徴的存在である艦は、
現役を退いた今でも皇統を敬い、日本の海を護り続けています。

そしていよいよ、(構造物を除く)艦内最高所である、
最上艦橋に到着!
115年前の日本海海戦のまさにその時、
東郷平八郎司令長官を始めとする連合艦隊首脳たちが
海戦の指揮を執った、まさにその場所!

最上艦橋床面に取り付けられたプレート。
そこに示されているのは、
主要人物たちの立っていた位置
前回記事に掲載した絵図の通り(逆の構図ではありますが)、
1.東郷平八郎 連合艦隊司令長官
2.加藤友三郎 連合艦隊参謀長
3.伊地知彦次郎 三笠艦長
4.秋山真之 連合艦隊作戦参謀
の順で配置されています。
折角なので・・・

東郷長官の目線に立ってみました!
ここから伝説の名将がロシア艦隊を睨み、
弾雨をものともせず指揮を執っていたと思うと・・・
実に感無量

日本海海戦と戦艦三笠を語る上で忘れてはならないのが、
艦橋後方、前部マストに掲揚されたZ旗
アルファベットの末尾を意味するこの信号旗は、
皇国の興廃この一戦にあり
各員一層、奮励努力せよとの
東郷長官の意を三笠乗員、ならびに艦隊各艦へと伝え、
戦闘員たちの士気高揚と海戦の勝利へと
繋がることとなりました。
今日では難事を打開するための慣用句として、
また「大成功を期する旗印」としても用いられるこの故事は、
伝説的勝利と並ぶ歴史的な事跡として
語り継がれています。

大興奮の「艦橋巡り」を終え、
艦橋前方に広がる前甲板へ。

鎖が巻かれた大きな機械は、
海中に投じられた主錨を巻き上げるための
巻き上げ機

振り返れば、艦橋を始めとする構造物と、
ドドンと構えた30cm主砲塔が!
先ほどまで立っていた最上艦橋も見えます。

三笠の「最強兵器」・30cm主砲は、
さすがの存在感!

同じ造りの右舷・・・は飛ばしまして、
次回は一段下りた中甲板へと向かいます!
参考:記念艦三笠 公式ホームページ
解説パネル
TRYANGLE WEB
Wikipedia