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横須賀旅4 ~三笠中甲板~

いよいよ年変わりの時が近づいて参りました!
皆さん、準備はよろしいでしょうか!?
私は・・・通常運転です(笑)
戦艦三笠 4-1
ここまで「冬休み」を利用して急ピッチで書き進めております、
「横須賀旅編」。
目下日本の近代史に於ける大きな転換点となった戦い・
日露戦争象徴的存在であり、
旧日本海軍唯一現存艦艇
記念艦ともなっている戦艦三笠艦内の様子を
お届けしている真っ最中!

前回までは艦載砲が並ぶ上甲板
「指揮所」となった艦橋を取り上げて参りましたが、
ここからは厚い装甲の下に護られた、
中甲板へと下りてみましょう!

日露戦争前後を中心に三笠連合艦隊、東郷長官にまつわる
展示が為された中央展示室(見逃した~!)を始め、
各種展示が行われている中央部。

そこでまず目に留めたのが、
三笠を含めた世界三大記念艦の模型と、
それらを運用した国々を代表する司令官たちを描いた姿絵!
戦艦三笠 4-2
まずはコチラ、イギリス海軍の記念艦・ヴィクトリー号

1765年に建造された、木造1等戦列艦※で、
スペックは
・全長・・・226フィート(およそ68.8m)
・全幅・・・52フィート(約15.8m)
・排水量・・・3,500t
・乗員・・・850名
・兵装・・・68ポンド砲等104門搭載

完成後7年戦争の終結もあって
13年もの間放置されてしまいますが、
1778年の試験航海後、
当時の海軍提督オーガスタス・ケッペル大将の座乗艦として
英国海軍の旗艦に就任。

乗組員や提督たちを替えながら、
第一次・第二次ウェサン島海戦サン・ビセンテ岬の海戦などに
旗艦として参戦しました。

1797年には経年化と旧式化から第一線から離れた
病院船へと改修され掛かりましたが、
2等戦列艦インプレグナブル座礁・喪失されたことから
大規模な修繕と改修を受けて復帰

この際施されたの横縞の装色は
のちにネルソンチェッカーと呼ばれ、
イギリス軍艦の標準塗色となりました。
阪神t・・・なんでもない)

同艦の名とイギリス海軍の武名を世界に知らしめたのが、
1805年10月21日に起こったトラファルガー海戦

当時欧州を席巻していたフランス皇帝
ナポレオン・ボナパルト
イギリス侵攻のためにフランス海軍
同盟国であるスペイン海軍の連合艦隊による
海上封鎖を企図。

これに対し迎撃行動に出たホレーショ・ネルソン提督率いる
艦隊が、ネルソン・タッチと呼ばれる
2列縦隊で敵艦隊を分断する戦法で接触。

激闘の最中ネルソン提督は戦死してしまうものの
戦いは英国海軍の勝利に終わり、
結果フランス軍のイギリス本土上陸は阻止され、
英国海軍による英仏海峡の制海権は守られることとなりました。

こうして戦史に輝かしい名を刻んだヴィクトリー号も、
1812年に戦線での活動を終え、
ポーツマス軍港にて係留。

1922年に同軍港のNо.2ドック(ヴィクトリー・ドックと呼ばれる)に移され、
記念艦として、また現在もイギリス海軍に属する
最古の現役艦として、
輝かしき英海軍の象徴で在り続けています。

※戦列艦・・・17世紀から19世紀にかけて、欧州各国で運用された軍艦の形式。
         舷側に計50門以上の大砲を装備した3本マスト付きの
         木造船を指し、主に他の艦と単縦陣を構成して
         敵艦隊との砲戦を行った。
戦艦三笠 4-3
続いてはコチラ、記念艦コンスティテューション

1797年に建造された、
アメリカ海軍木造フリゲート艦。
全長・・・204フィート(約62m)
全幅・・・43フィート(約13m)
排水量・・・2,200t
乗員・・・450名
兵装・・・32ポンド砲44門

1798年の就役後はフランスとの間で行われた
「海上での戦争(疑似戦争と呼ばれる)」に参加し、
仏船やスペインと交戦。
1803年に北アフリカで勃発した
第一次バーバリ戦争にも参戦し、
戦果を残しました。

1812年に米英戦争が起こると、
アイザック・ハル艦長指揮の下で海上警備に参加。

8月19日、カナダ・ノバスコシア州沖で
イギリス海軍のフリゲート・グリエールと交戦した
コンスティテューションは、
砲撃に加えて衝突によって敵船のマストを破壊
航行不能へと追い込みました。

また同年12月には同じくフリゲート船ジャバと交戦。
3時間に及ぶ戦いの末にこちらも航行不能となり、
2度の戦いでコンスティテューションは見事な勝利を収め、
敵弾を跳ね返す強固な装甲も相まって、
オールド・アイアンサイズ(「古い鉄の船腹」の意)の異名で
米国民の勝利の象徴となりました。

その後は2度の解体の危機を乗り越え、
記念艦として、
また現役で航行可能な最古の軍艦として、
海軍と米国民の敬愛を集め続けています。
戦艦三笠 4-4
そして我が日本が誇る、戦艦三笠


詳細はここまで散々述べて来たので省きますが、
連合艦隊旗艦として刻まれた経歴と
日本海海戦で収めた勝利の象徴としての存在感は、
前2隻にも劣らないもの!

その名は指揮を執った東郷平八郎長官とともに、
戦史に刻み込まれています。

ここからは、3隻の「記念艦」の所属国で名を上げ、
「世界三大提督」に挙げられる、
偉大なる軍人たちをご紹介!
戦艦三笠 4-5
まずはコチラ、イギリス海軍に、否、
世界の戦史に名を残す名将の一人と呼んで差支えないでしょう!
ホレーショ・ネルソン提督

1758年、イギリス・ノーフォークのバーナムソープ村にて出生。
幼年を寄宿学校で過ごした後、
軍人である叔父を頼り、わずか12歳
英国海軍に入隊。
20歳で現在の大佐に相当する勅任艦長
任命されます。

その後は英仏関係の改善から不遇の日々を送ることと
なりましたが、
1793年に勃発した英仏戦争をきっかけに
地中海艦隊臨時提督の任を与えられ、
軍役に復帰。

翌1794年のカルビー湾攻略戦では
敵の砲弾で飛散した砂利が目に刺さってしまい、失明
それでも一歩も引きさがらずに指揮を続け、
艦隊を勝利へと導きました。

この戦いにより正式に艦隊司令官に任命され、
97年には海軍少将にまで出世を遂げますが、
同年に起こったカナリア諸島の戦い
敵の狙撃を受け、右腕を切断
一時は中毒症状まで発する重症を負いましたが、
驚異的な回復力で翌年には戦線に復帰しました。

同年のナイルの海戦アブキール湾の海戦では
決戦前夜に「明日のこの時間までには、
私は貴族の称号を手に入れているか、
ウェストミンスター寺院に行くか(=国葬に処されるか)のいずれかだ」と
士官たちに語り、
前頭部に重傷を負いながらも見事に勝利


宣言通り貴族の称号(ナイル及びバーナムソープ男爵)を
手に入れました
(有言実行!素晴らしい!)

また次席司令官として出撃した1801年の
コペンハーゲンの海戦では、
撤退命令に対して見えない右目で望遠鏡を覗き、
戦闘を続行(事実上の命令無視)。
結果勝利を収めてしまいました。

1803年、「戦の天才」・ナポレオンの台頭と
勢力拡大を受けた英国政府は、
再びフランスに対して宣戦を布告

ネルソンも地中海艦隊司令官として、
再度の招集を受けることとなります。
そして運命の1805年10月21日。

英国は各員がその義務を果たすことを期待する」という
有名な信号旗で艦隊各員の士気を高めたネルソン提督は、
自らの乗艦「ヴィクトリー号」を先頭に、
2列縦隊でフランス・スペイン連合艦隊の分断を図るという
ネルソン・タッチを敢行。

見事に作戦は成功し英国海軍はイギリス本土上陸を目論む
ナポレオンの野望を挫くこととなりましたが、
戦いの最中フランス軍艦に乗り込んでいた
狙撃兵の放った銃弾が、
提督の脊椎を貫通

医務室に運び込まれながらも指令を発し続けた
提督でしたが、
自軍勝利の報を聞き届けてから
「神に感謝する。我が義務を果たした」という言葉を残して死去。
47年の生涯を閉じました。

トラファルガーの海戦から2ヶ月半後の1806年1月、
ネルソン提督は君主以外ではとなる国葬を受け、
ロンドンのセント・ポール大聖堂に葬られました。

彼が残した数々の武功や逸話、
英国本土を守ったという事実は「伝説」となって、
200年が過ぎた今でも
英国民の情愛と敬慕の対象となっています。
戦艦三笠 4-6
続いてはアメリカ独立戦争英雄
ジョン・ポール・ジョーンズ提督。

1747年、スコットランド南部の町・カークカッドブライトシャーで
ジョン・ポールとして生を享けた彼は、
長じて船乗りとして海へと出ることに。

しかし商船の船長を務めていた頃、
トバゴ島(現トリニダード・トバゴ領)で
給料の未払いに腹を立てた水兵たちが反乱
それに関わった者を殺害してしまいます。

このことから生じ得る法廷闘争を逃れるため、
「ジョン・ジョーンズ」と名を変えた彼は
アメリカ・バージニア州に住む兄弟の元へと逃亡し、
のち「ジョン・ポール・ジョーンズ」として
生きていくこととなりました。

1775年にアメリカ独立戦争が始まると、
ジョン・ポールは大陸海軍創設のアドバイザーを経て
正式に海軍士官へと就任。
アメリカ独立を支援するフランスより艦船を与えられ、
イギリス艦を拿捕するなどの戦果を上げます。

そんな彼が一躍名声を高めたのが、
1779年9月23日に起こった、
フラムボロ―・ヘッドの海戦

老朽船を改造した軍艦、ボンノム・リチャード号以下
数隻の軍艦を引き連れて哨戒任務に就いていた彼は、
イギリス近海で同国の輸送船団を発見。

積み込んでいたオンボロ大砲の暴発
敵船セラピスの砲火で大損害を被りながらも、
敵司令官からの降伏勧告に対し、
俺はまだ戦いを始めていない!
さあ戦いはこれからだ!
士官はその務めを忘れるべからず!

という有名な文句を返して乗員たちを鼓舞。

果敢な接弦攻撃と「ボンノム・リチャード号」の反対側から
引っ張ってきた大砲で、
見事敵船の拿捕に成功!
この戦果と逸話は、アメリカンスピリットの象徴として、
後世まで語り継がれることとなりました。
(まあ、彼自身はスコットランド人なのだが)

独立戦争後はへと渡り、
女帝エカテリーナ2世より託された艦隊で
オスマン帝国との露土戦争に参戦。
勲章を授与されるほどの働きを示しました。

晩年はフランスで過ごし、
パリにて45歳で死去。
同地で葬られた後、現在は米海軍兵学校が置かれた街・
アナポリスにて眠りに就いています。
戦艦三笠 4-7
そして三人目は、日本が世界に誇る名将・
東郷平八郎提督!

日本海海戦で圧倒的戦力を誇る
・バルチック艦隊を破り、
日露講和(事実上の勝利)と「大国日本」への足掛かりをもたらして
陸の大山(陸軍司令官・大山巌)・海の東郷」、
「アドミラル・トーゴ―」、「東洋のネルソン」等、
様々な異名と逸話で語られる、伝説的人物

弘化4(1847)年、薩摩国(現鹿児島県)鹿児島城下・
加治屋町(かじやちょう)にて薩摩藩士・東郷実友(とうごう さねとも)の
4男として出生。

文久3(1862)年、薩摩藩と英国の間で起こった
薩英戦争(さつえいせんそう)に、
兄たちと共に従軍し、初陣を飾りました。
(ただし薩摩藩が英軍艦にフルボッコにされるという戦況もあって、
特段の武功はなかった模様)

戊辰戦争では薩摩藩所属の軍艦・「春日丸」に
三等砲術士官として乗り込み、
阿波沖海戦箱館戦争宮古湾海戦と転戦し、
幕府勢力の衰亡と新時代の到来を見届けます。

明治4(1871)年21歳の時、海軍の第一回留学生として
かつて砲火を交えたイギリスへ留学

ハンプシャー・ゴスポートの海軍予備校・バーニーズアカデミーや
商船学校のウースター協会で学びますが、
この頃の交友関係がきっかけで、
それまでのおしゃべりな性格が一変
後年沈黙の提督と称されるなど、
冷静沈着で寡黙な人物へと豹変したとか。
(苦労してますな・・・)

帰国後は木造船「天城(あまぎ)」の艦長として清仏戦争に従軍。
また明治26(1893)年にハワイ政変が起こると、
防護巡洋艦「浪速(なにわ)」艦長として
邦人保護に赴き、
ハワイ王政に対してクーデターを起こしたアメリカ人たちを威嚇しました。

明治27(1894)年に日清戦争が勃発すると、
引き続き「浪速」艦長を務めて
豊島沖海戦黄海海戦威海衛海戦に従軍。

7月24日に豊島沖海戦とともに発生した
高陞号事件(こうしょうごうじけん)では、
対敵である清国兵および兵器を積載した
英国船・高陞号に対し、
国際法に則った停戦勧告を行ったのち撃沈

一時は日本とイギリスの間で国際問題に発展しましたが、
留学時代に培った国際法の知識と「高陞号」船長以下
イギリス人乗組員が清国兵に脅されていることを見抜いた洞察力、
乗組員を退去させて船舶のみ砲撃した冷静沈着な判断と対処が、
のちの出世と艦隊司令への抜擢へと繋がることになります。

日清戦争後は佐世保鎮守府や舞鶴鎮守府の
司令長官を歴任し、
日露戦争開戦前の明治36(1903)年に
常備艦隊司令長官として実戦部隊に呼び戻されると、
連合艦隊結成にともない司令長官に就任。
指揮官として大国・との開戦に備えます。

明治37(1904)年の日露戦争開戦後は
連合艦隊司令長官として旅順港閉塞作戦黄海海戦といった
海軍実戦部隊の作戦指揮を執り、
日本海海戦にてバルチック艦隊を撃破
ポーツマス条約締結への道筋を作りました。

戦後この活躍は国内外に知れ渡り、
日本国内では数々の勲章を獲得。

国外では大国の圧力に苦しんでいた国々や
植民地の人々を勇気付け、
アメリカイギリスといった大国の軍人からも
多大な敬意と憧憬を獲得し、
アドミラル・トーゴ―の名は
広く知られるところとなりました。

連合艦隊解散後は軍令部長、軍事参議官といった
海軍の要職を歴任。
大正2(1913)年には元帥
さらに東宮御学問所総裁として
裕仁親王(ひろひとしんのう、のちの昭和天皇)の
教育係を務めました。

昭和9(1934)年、89歳(長寿!)で死去。
その葬儀は国葬として執り行われ、
各国海軍より派遣された儀礼艦が半旗を掲げ、
弔砲を撃ち上げる光景が展開されました。

死後は国内で「東郷神社」が建てられるなど神格化された他、
その逸話や存在は日本海軍だけでなくアメリカを始めとする
外国海軍にも大きな影響を与え、
名将チェスター・ニミッツ元帥
太平洋戦争後に荒廃した三笠を見かねて、
私財をなげうってまでその復元に尽力しています。

ここからは、中甲板各所の様子を見て参りましょう!
戦艦三笠 4-8
中甲板の一角に在る副砲砲室
ここは展示室とされており、
「三笠」の航跡として
戦艦三笠の辿った建造から戦史に名を刻んだ日露戦争期
その後と退役から記念艦として保存されるまでの足取りが、
写真を添えたパネルで解説されています。
初回三笠紹介で用いた写真も、ここから引っ張って来ていたりする 笑)
戦艦三笠 4-11
同展示室内に飾られた、
イギリス、バーロー・イン・ファーネス市より贈られた
同市の紋章

バーロー市(某テレビアニメのキャラクターとは無関係)は
三笠を建造したヴィッカース・アームストロング社造船所の所在地であり、
この紋章はその竣工を記念して贈られたもの。
(紋章下部のプレートには、ヴィッカース社の社名と三笠の艦名、
バーロー市の名とともに竣工年(何故か前年の1901年になっていますが)が
記載されています)

右端に見えるは、
三笠就役110周年に当たる平成24(2012)年、
当時の三笠保存会・増田会長に
バーロー市長より寄贈されたもの。

戦艦三笠の艦歴と保存へと至る経緯は、
過去の記事でも述べた通りですが、
その三笠が見る影もなくなってしまった時期があったのを、
皆さんご存じでしょうか?
戦艦三笠 4-9
第二次大戦終結後、連合国軍が海軍基地の置かれていた
ここ横須賀にも進駐。
彼らの命によって大切に保存されていた三笠の
艦橋やマスト、砲門、煙突などの上部構造物は全て撤去
(つまり上甲板に置かれた主砲塔や副砲、
8cm砲といった艦載砲、艦橋などは復元品

跡地には駐留外国人向けの水族館
ダンスホールが建てられ、
旧海軍の栄光と勝利を象徴する艦は、
すっかり変わり果てた姿となってしまいました。

そんな名艦の惨状を憂いたイギリス人ジョン・ルービン氏
帰国後「ジャパンタイムズ」に寄稿したのをきっかけに、
国内外で三笠の復元運動が勃興。
戦艦三笠 4-10
国民からの募金や相撲協会による勧進相撲興行、
山梨勝之進(やまなし かつのしん)元海軍大将
チェスター・ニミッツ元帥アーレイ・バーク大将といった
元日本軍人や米海軍軍人たちの協力、
さらに日本政府の支援も加わって、
日本海海戦から56年の記念日に当たる
昭和36(1961)年5月27日、
三笠は見事復活を遂げ、改めて歴史と勝利に彩られた
その姿を蘇らせることに成功したのです!

かつて太平洋を挟んで血で血を洗う戦いを繰り広げた両者が、
手を取り合って一隻の艦の復活に尽力する・・・
この一事業を成しえたのも、
東郷提督と三笠が残した伝説的な戦果と名声、
歴史的な価値があってこそ!かも知れません。
戦艦三笠 4-12
こちらの船室はロシアコーナーと名付けられた、
日露戦争時の対敵であるに関わる品々が
展示された区画。
戦艦三笠 4-13
室内には、ロシア(およびソ連)軍より贈られた帽子やメダル、
図書といった品々が飾られ、
過去の遺恨を超えた交流を窺わせます。
(なお外交では・・・)
戦艦三笠 4-14
壁面に飾られた数点の絵画は、ロシア人画家・コルバコフ氏の作品。

同氏はロシア・ヴォログダ州の生まれで
国民芸術家の称号を持ち、
ロシア各地の美術館に作品が収蔵されている画家。
(の割に、日本語ページのどこにも詳細が無い・・・)

この作品は第二次大戦に水兵として参加した経歴も持つ同氏が、
「日本人にもロシア人にも真の誇りがあった時代」をテーマに描いた
100点に及ぶ作品群の一つで、
日露戦争百年を迎えた平成17(2005)年に
同氏より寄贈されたもの。

旅順港内のロシア艦隊と題し、
夕日に照らされた(旅順港内に立てこもる)
ロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の姿を描いています。
戦艦三笠 4-15
別の部屋に置かれたパネルに写されているのは、
搭載前に撮影された三笠の主機関

建造元であるイギリス・ヴィッカース社で製造された
直立3気筒3連製往復動(レシプロ)タイプの
蒸気機関
石炭を燃焼させボイラーで発生された蒸気は、
この機関内で
高圧シリンダー
   ↓
中圧シリンダー
   ↓
低圧シリンダー
の順で送られてそれぞれのピストンを駆動(往復動)。

エネルギーを発生させた蒸気は復水器で冷却されて
へと戻り、
再びボイラーへと送られる、という仕組みになっていました。

三笠にはベルヴィル式と呼ばれるボイラーが25基、
主機関となる上写真の蒸気機関が2基搭載され、
計15,000馬力を発生。
これで4枚翼のスクリュー2基を回転させることで、
最大18ノット(約33km/h)の航走を可能としていました。

写真ではそのサイズ感が伝わりづらいのですが、
左隣に置かれた縮尺を合わせた士官の姿から、
その大きさのほどが窺えます。
戦艦三笠 4-16

戦艦三笠 4-17
士官たちが利用したと思しき部屋に置かれた家具たち。

これらの家具は三笠建造当時
ヴィッカース社で作られたもので、
上甲板に張られたものと同じ、強固なチーク材
作成されています。
戦艦三笠 4-18
こちらの部屋は日本海海戦当時使われた、
艦隊機関長居室を再現したもの。

当時「艦隊機関長」の任にあった山本安次郎(やまもと やすじろう)
機関大監(大佐相当)も、
この部屋で睡眠を摂り、艦隊首脳としての
執務に当たっていたことでしょう。
(艦内の表記では「安太郎」となっていましたが、
同時代の漁網製造者・山本安太郎氏と混同しての
誤記と思われます)

なお歴史小説の大家・司馬遼太郎(しば りょうたろう)先生著・
「坂の上の雲」の主人公として知られる作戦参謀・
秋山真之(あきやま さねゆき)中佐も同様の部屋を
直下の甲板にて与えられ、
東郷長官とともに「バルチック艦隊撃滅」の案を
練り上げていたと思われます。
戦艦三笠 4-19
中甲板内には、本格的な浴槽と洗面台まで
用意されていました!
戦艦三笠 4-20
「艦隊機関長居室」よりも「イイ造り」のこちらの部屋は、
艦長公室

歴代三笠艦長が来客の接待や執務といった「公の場」として
用いた部屋で、
テーブルや椅子、写真右手には棚が置かれています。
戦艦三笠 4-21
部屋の一角に立てられている屏風は、
三笠十一第艦長を務めた久保来復(くぼ きまた)
海軍少将の遺品

大正3(1914)年から同5(1916)年まで三笠艦長(大佐)の
任に在った久保少将は、
昭和4(1929)年の退官に際しこちらの屏風を作製。
右上には東郷元帥の手による「武威」の揮毫が、
左上には久保少将の経歴が記されています。
(地味に貴重な品!)
戦艦三笠 4-22
背後の棚の上に飾られた神棚は、
三笠現役当時艦長室に奉祀されていたもの。

ご神体は文永・弘安の役(元寇)の折に
亀山上皇によって「敵国降伏」の祈願が
執り行われたという由緒を持つ、
福岡県・筥崎宮(はこざきぐう)より
分祀され、歴代艦長によって大切に護持されていました。

艦内には伊勢神宮よりの分祀を受けた三笠神社(後述)も
設けられており、
軍艦内にまで持ち込まれた「精神性」に基づく風習は、
日本人ならではのものと言えましょう。
戦艦三笠 5-1
次回は東郷長官も過ごしたであろう、
「長官公室」と「長官室」へと踏み込んで参ります!

参考:記念艦三笠 解説パネル
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    サバゲーオンライン
    歴史人 レキシビト
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。