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横須賀旅8 ~ヴェルニー公園・その3~

一年でも思いっきり羽を伸ばせる貴重な時間・
お正月休みも、もうすぐお終い!
私もあと3日で忙しい日常へと戻ります。
(ああ・・・憂鬱)

未だ新型コロナウイルス(しかも「変異種」まで出現!)が
猛威を振るう中で始まる新年の日々。
皆さまどうか気を付けてお過ごしくださいませ。

さて、予定を変更(ヴェルニー公園の紹介を2分割→3分割へ)して
お届けしておりますが、
「公園散歩」も今回でお仕舞い
入った側(横須賀駅前)から反対側に点在する、
旧海軍関係の石碑たちをご紹介します。
ヴェルニー公園 2-17
まずはこちら、重々しい錨のモニュメントを傍らに、
「海軍が軍艦旗のもとに団結して海を見守り続けてきた」、
というイメージを表わしたという石壁に囲まれて佇むのは、
海軍の碑

中心に置かれた本体部分は黒御影石で葺かれ、
その上部には旧海軍の象徴である、
日章旗が刻まれています。

この「海軍の碑」は、日本海軍が八十年の歴史に幕を閉じてから
50周年に当たる平成7(1995)年に
「海軍の碑建立委員会」によって建てられたもので、
勝利と衰亡の道を辿った日本海軍の歴史、
および太平洋戦争で亡くなられた英霊たちを偲び、
我が国の永遠の平和を希求すべく建立した、とのこと。

建立に当たっては、全国の旧海軍関係者や有志から寄せられた
浄財が活用されています。
ヴェルニー公園 2-18
二つ目は軍艦山城之碑(ぐんかんやましろのひ)
上部を黒御影石、他の部分を御影石で葺き、
中央に海軍の象徴である「の紋章」、
下部に「戦艦山城」の彫像が刻まれた石碑。

山城は大正6(1917)年に竣工した
日本海軍戦艦
艦名の由来は、旧国名の「山城国」。
(やましろのくに。現在の京都府南部)

「金剛型」に次ぐ「超弩級戦艦」※・扶桑型
二番艦として大正2(1913)年に起工され、
同4(1915)年進水、前述の通り大正6(1917)年に
全ての工事を終え、竣工しました。
・主要要目(最終時)
基準排水量・・・34,700t
全長・・・212.75m
最大幅・・・33.20m
機関出力・・・75,000馬力
速力・・・24.5ノット(およそ45km/h)
・武装
36cm主砲・・・12門
15cm副砲・・・14門
12.7cm高角砲・・・8門
25mm3連装機銃・・・2基
同2連装機銃・・・17基
同単装機銃・・・10基

他水上偵察機3機、搭載機射出用のカタパルト1基、
10m測距儀(そっきょぎ。三角法に基づき光学的に距離を算出する
距離計の一種)1基を搭載。

※超弩級戦艦・・・ちょうどきゅうせんかん。
           1906年に就役し、軍艦史に革命を起こした英戦艦・ドレッドノートを超える
           規模・兵装を備えた戦艦の概念。
           大正~昭和に掛けて日本を含めた各大国が
           「超弩級戦艦」の建造に躍起になった。
           「大和型戦艦」や「長門型戦艦」なども超弩級戦艦に相当する。
ヴェルニー公園 2-19
「戦艦山城」像。近代化改装後の姿。

竣工後は横須賀鎮守府に配属
(ここに石碑が建立されたのも、このご縁でしょうか)され、
昭和2(1927)年には昭和天皇
「連合艦隊の戦闘射撃及び爆撃実験をご覧になられるため」
「お召し艦」として山城に乗艦

1928(昭和3)年12月から1929(昭和4)年11月まで
連合艦隊旗艦に任命された他、
1934(昭和9)年11月からの一年間、
のちに「第一航空戦隊(南雲機動部隊)」の司令官を務めることになる
南雲忠一(なぐも ちゅういち)大佐(ミッドウェー海戦時は中将)が、
艦長として「山城」の指揮に当たっています。

そんな「山城」ですが、
昭和8(1933)年~同10(1935)年に掛けて大改装が施され、
・主機・主缶(ボイラー)の換装
・船体後部の延長、ならびに対空兵装の追加
・主砲の仰角引き上げと対空兵装の換装
・水中防御力向上のためのバルジ(艦体側面の膨らみ)の追加
・水平防御のための装甲の追加
といった改装を実施。
その他大正末期~昭和初期に掛けても
艦橋構造の変更や煙突へのキャップの装着等
チョコチョコと改装が行われており、
竣工時と最終時では大きく姿が変わっています。

太平洋戦争開戦後は内地(日本本土)に留まり、
昭和17(1942)年には「大和」や姉妹艦「扶桑(ふそう)」等
主力戦艦群とともに初陣となるミッドウェー海戦
参加しますが、会敵はなし。

この頃既に戦いの主役は航空機へと移っており、
速力の遅い「山城」は航空母艦(空母)への随伴が
不可能であることから内地へと留め置かれ、
砲術学校の練習艦へと身をやつしてしまいます。

そんな「山城」に最初で最後の実戦の機会が訪れたのは、
昭和19(1944)年にフィリピン沖で起こった
レイテ沖海戦

フィリピン防衛を期して発動された
捷一号作戦(しょういちごうさくせん)は
残存する日本艦艇を総動員した大規模なもので、
「山城」も久々に内地を出動して南方海域へ進出。

主力部隊(栗田艦隊)とは別経路でレイテ湾突入を目指す、
西村祥治(にしむら しょうじ)中将率いる
第一遊撃部隊第三部隊(通称「西村艦隊」)の旗艦として
10月22日にブルネイを出撃、フィリピン方面へと向かいます。

25日未明、航空機や魚雷艇の攻撃を潜り抜けて
スリガオ海峡沖まで到達した「山城」以下
「西村艦隊」は、戦艦7隻を含む多数の米艦艇と会敵。
集中砲火を浴びた「山城」は
その後の雷撃で致命傷を被り、
なお健在の一番主砲で反撃を続けたものの
4時19分に沈没

およそ1,500名の乗員のうち最終的に帰還したのは
わずか10名という、壮絶な最期となりました。

一方的なものだったとはいえ、
史上最後となる戦艦同士の砲撃戦
戦った「山城」。
「軍艦山城の碑」は今もフィリピン沖に眠る
艦体と乗組員たちを、母港である横須賀の地から
慰霊・顕彰しています。
ヴェルニー公園 2-20
続いては、軍艦長門碑(ぐんかんながとのひ)
日本海軍の「象徴的存在」として太平洋戦争を戦い抜いた
「戦艦長門」を顕彰し、
昭和51(1976)年に建立された石碑。

中央部に立体感溢れる「長門」のブロンズ像が置かれ、
下部に「ありし日の 聯合艦隊旗艦長門の姿を ここに留めて 
昭和の激動の時代を偲ぶよすが とする」と碑文が刻まれています。

下部の碑文、上部の迫力ある「軍艦長門碑」の文は、
いずれも元海軍中将・新見政一(にいみ まさいち)氏の
揮毫によるもの。

戦艦長門は、大正9(1920)年に
世界初の40cm砲搭載艦(正確には41cm)として
竣工した、長門型戦艦の一番艦。
前々回記事でご紹介した戦艦陸奥(せんかん むつ)の
姉妹艦に当たります。
・スペック(最終時)
基準排水量・・・39,130t
全長・・・224.94m
全幅・・・34.60m
軸馬力・・・82,000馬力
速力・・・24.35ノット(およそ45km/h)
乗員・・・1,368名
・武装
41cm主砲・・・連装4基8門
14cm副砲・・・単装18門
12.7cm連装高角砲・・・4基
25mm3連装機銃・・・14基
25mm連装機銃・・・10基
同単装機銃・・・30挺
その他水上偵察機3機、カタパルト1基を搭載

建造後は連合艦隊旗艦に任命され、
「大和型戦艦」登場まで「陸奥」と交代で
連合艦隊司令長官が座乗。

世界有数規模を誇る「40cm砲搭載艦」として
「陸奥」とともにビッグ7にも数えられ、
「陸奥と長門は日本の誇り」と称されるなど、
日本海軍の象徴的存在に挙げられます。

昭和9(1934)年から同11(1936)年に掛けて
姉妹艦「陸奥」とともにボイラーの換装と装甲の追加、
主砲塔の改造や魚雷発射管の撤去などの
大規模改装を受け、
外見上でも艦橋の変更や煙突の一本化等
竣工時とは異なる姿へと大変貌を遂げました。
(上写真のブロンズ像は、竣工時の姿を模しています)

日米開戦が決定的なものとなりつつあった
昭和16(1941)年12月、「長門」は連合艦隊旗艦として
真珠湾攻撃に参加。
「陸奥」などの戦艦群とともに主力となる空母機動部隊の
後方支援に努めます。

昭和17(1942)年、連合艦隊旗艦の任を「大和」へ移譲。
ミッドウェー海戦では「大和」などとともに
機動部隊の後方を進軍するも会敵の機会はなく、
惨敗の報を受け取るのみに留まりました。

その後は内地やカロリン諸島(現 ミクロネシア)・
トラック島の泊地に留まる日々が続いていましたが、
昭和19(1944)年に起こった日米決戦・マリアナ沖海戦
続くレイテ沖海戦に主力として参戦。

いずれの海戦でも被害を受けながら「長門」は健在。
しかし連合艦隊は相次いで敗退が続き、
空母を始めとする航空戦力、戦艦「武蔵」の喪失等、
事実上の壊滅状態に陥りました。

結局同年11月のブルネイから日本本土への回航が
日本海軍所属艦として最後の航海となり、
慢性的な燃料不足もあって、空襲で損傷した状態のまま
横須賀軍港終戦を迎えます。

終戦後「長門」は航行可能な唯一の日本戦艦として
連合軍に接収。

米軍の原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦として
マーシャル諸島ビキニ環礁
(かつての核実験場として「悪い意味で」有名)
へと最期の航海を行い、
7月1日、同25日の原爆実験に供出。

いずれの実験でも損傷のみで沈まなかったものの、
25日の実験後、誰にも見られることなく沈没

2度に渡って原子爆弾原爆)の
熱線と爆風を受けながら即座に沈まず、
数日間海上に浮かんだ末に「敵軍」に見られることなく
ひっそりと沈んだ「長門」は、
改めて日本の誇りと喧伝されることとなりました。

「不沈艦」とうたわれた「大和」や「武蔵」、
他多数の艦艇が沈み行く中で終戦まで生き抜いた
「幸運艦」・長門。
日本海軍の技術と国民からの敬慕を集めた巨艦は、
今もなお放射能汚染が残る
遥か南方の海で眠り続けています。
(なお「ビッグ7」とうたわれた40cm砲搭載艦のうち、
(沈んだとはいえ)艦体が残っているのは、
「長門」と「陸奥」のみ)
ヴェルニー公園 2-21
軍艦各艇の碑とともに置かれているのが、
高名を誇る俳人・正岡子規(まさおか しき)の句碑。

伊予(愛媛県)松山の出で、日本海海戦
連合艦隊作戦参謀を務めた秋山真之(あきやま さねゆき)中佐の
松山在住時からの友人でもある子規は、
明治21(1888)年8月に夏期休暇を利用して
横須賀・鎌倉にて遊興。

その際に横須賀軍港に軍艦の艦橋が
連なる様を詠んだのが、こちらの句。
横須賀や 只帆檣の
冬木立(ふゆこだち)とあります。

横須賀軍港に立ち並ぶ帆檣(はんしょう、帆柱の意)が、
冬枯れした木立のようだなぁ」、といったところでしょうか。
(間違えていたら、恥ずかしぃ 汗)
ヴェルニー公園 2-22
大戦を戦った軍艦や縁故のある俳人を称えた碑が並ぶ一方、
異様な佇まいを見せる石碑が一基。
それがこの国威顕彰記念塔

重巡洋艦高雄型(たかおがた)を模した(良く出来てる!)碑に
大書されているのは、
戦前に彫られたと見られる「国威顕彰」の字。

一方でこの碑の「異質ぶり」を際立たせているのが・・・
ヴェルニー公園 2-23
石碑表面に残された、意図的に削られた痕跡。

実はこの石碑、戦前の昭和12(1937)年の海軍記念日
落成・除幕されたものだそうで、
当時は海軍基地の一部であった逸見門(へみもん)内に置かれ、
「国威発揚」と海軍軍人の「意気軒昂」のために
置かれていた石碑。

終戦後に何者か(おそらく当時の横須賀市か海軍関係者、
あるいは軍国主義を快く思わなかった一般市民かも知れません)によって
削り取られてしまい、
往時の姿を窺うことは出来ません。
ヴェルニー公園 2-24
ヴェルニー公園巡り」もこれにて終了!
黄色に色付いた木々を横目に
ヴェルニー公園 2-25

ヴェルニー公園 3-11
京急汐入駅から赤い電車に揺られて
(といっても一駅・1分ほどの短距離・短時間乗車でしたが)
中心市街地へ戻ります。
横須賀ナイト 1
次回はネオン輝く横須賀の街へ繰り出し、
「あの名物」を頂きます!

参考:軍事遺物
    海軍艦艇つれづれ
Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。