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安土城探索2 ~安土城大手口と権威の象徴・大手道~

はじめに
終わりの見えないコロナ禍の中で幕を開けた2021年も、
はやカレンダーをめくるタイミングとなりました。
迫りくる脅威への不安、
自粛へのストレスなどとの戦いの最中ではありますが、
次なるひと月が皆さまにとってより良いものとなりますよう、
お祈り申し上げます。

さて、前回記事よりスタートとなりました、
「安土城探索編」。
2回目の今回は、いよいよ「幻の城」・安土城内へ!
他の城には無い独特な造りとなっている
「城の玄関」・大手口と、
その先に待つ「ここだけ」の情景をお届けします!
安土城 7
城へのアクセス口となる安土駅からスタートした「安土城探索」。
レンタサイクルを脚として、
寄り道しながらやって参りました・・・
安土城 2-1
安土城!
誰もが知る日本史きっての人気者、
戦国三英傑の一人・織田信長公最後の居城

その築城が開始されたのは上杉・毛利・本願寺・波多野各大名家や
宗教勢力による「信長包囲網」が展開され、
信長公や織田家家臣たちが戦いに明け暮れている最中の、
天正4(1576)年。

京(京都)への移動と北陸への押さえ、
琵琶湖の水運を活かすに至便の地である安土山
「天下人」に相応しい巨城を築くべく、
織田家重臣・丹羽長秀(にわ ながひで)指揮の下
畿内(近畿)・東海・北陸から多数の人夫を徴発。

近江国(滋賀県)穴太(あのう)を拠点とする石工集団・
穴太衆(あのうしゅう)を始めとする
当代随一の職人たちも動員され、
後年の「天下普請」にも匹敵する大工事がなされました。

そして工事開始から三年後の天正7(1579)年、
城の中心にして象徴となる高層建築・天主
(てんしゅ。一般的には「天守」と呼びますが、安土城ではこの名で称された)
が完成。

信長公も美濃国(岐阜県南部)岐阜城から
落成成った天主へと移り住み、
ここに安土城は「織田家の中心」となりました。

城とともに城下町の整備も進み、
「天下人の城」として君臨して行くかに見えた安土城。
しかし天正10(1582)年、
信長公が京・本能寺にて明智光秀の謀反によって斃れると、
状況が一変。

「謀反人」・明智光秀(あけち みつひで)の手勢の侵攻や
山崎の戦いを制した羽柴秀吉(はしば ひでよし。後の豊臣秀吉)の
台頭といった混乱の中で、
絢爛豪華を誇った城の中枢部は火災により焼失
(出火原因は諸説あり、いまだ不明)

信長公の栄華を象徴していた建物群は、
わずか3年ほど
灰燼に帰してしまいました。

これで安土城が城としての機能を失ったかというと
実はそうではなく
「織田家の城」として織田家中での主導権を握った
秀吉公庇護の下、
信長公の次男・信雄(のぶかつ)や
信長公の孫で「織田家」の名跡を継ぐこととなる
三法師(さんぽうし。元服後は織田秀信と改名)が
二ノ丸へと入城し、「織田家健在」をアピール。

しかし本能寺の変から2年後、
天正12(1584)年の小牧長久手の戦い
(こまき ながくてのたたかい)で信雄が秀吉公に屈して
織田家中での勢力争いに終止符が打たれると、
役目を終えた安土城は廃城

大正15(1926)年に史跡指定を受けるまで、
「過去の遺物」として忘れ去られることとなりました。
安土城 2-2
現在発掘調査を経て特別史跡として
保存・整備されている、安土城跡。

その入口となるのが、石塁で固められた大手口
一カ所の枡形と大手門を配するのが「城の玄関」・
大手口の常道ですが、
そこは常人とは発想を異とする信長公。

ここ安土城では大手門の他に東に一つ、西に二つ、
計4箇所に出入り口を設けた
特異な造りとなっていました。

この形は天皇の住まいであった
京の内裏(だいり)に倣ったもので、
最西端の枡形虎口を除く3箇所の門を内裏に見立てた
三門とすることにより、
天皇の行幸を想定した造りとしたのではないか、
と考えられています。

わざわざ弱点となりうる開口部を増やしてまで、
城の権威付けを図った信長公。
それまでの「戦いの場」から脱却した、
新たな城郭像を描いていたことが窺えます。
安土城 2-3
東側入口部分。
安土城「三門」の一つで、公家や朝廷からの勅使といった
賓客を迎え入れるための出入り口。

内部は城外側から一段、その奥にさらにもう一段の空間を配した
二段構造となっており、
上段と城外側石塁との間には幅約6mの通路を、
上段へと繋がる部分には防御設備である虎口(こぐち)を設定。

上下段の間の「踊り場」のような空間には
形式は不明ながらが置かれていたと
考えられています。
安土城 2-4
大手東側上段部分。

江戸時代以降の水田耕作によってここに在ったと思われる遺構は
惜しくも失われているものの、
ただっ広い広場と化しているこの場所には、
東側虎口から入った賓客を招じ入れるための
屋敷があったと考えられています。
安土城 2-5
続いて反対側、大手西側。

こちらには東西2箇所の虎口が設けられており、
一つは織田家家臣たちが出入りする日常的な用途のもの、
もう一つが東側同様賓客を迎えるための出入口であったと
考えられています。

写真の入口は平入り虎口と呼ばれる、
門から入ってすぐに城内へと至る形式のもの。
この入口は賓客を迎えるための
三門の一つとして造られたもので、
幅約5mと間口が広く取られています。

その広い間口を確保するため、周囲の石塁がL字状
曲げられているのが特徴的。
安土城 2-6
一方こちら、織田家家臣たちの出入りに用いられた、
大手最西端の出入り口。

先ほどの「平入り虎口」とは対照的な
武骨な趣の虎口には、
敵の侵入を阻止するため、通路に屈曲を設けた
枡形虎口が置かれています。

また昭和の発掘調査の結果、
ここから前回記事でも取り上げた帯郭を経て、
城内西側の百々橋口(どどばしぐち)まで防備と移動を兼ねた
通路が伸びていたことが
判明しています。
安土城 2-7
西側虎口内部。
2箇所の出入り口が設けられた大手西側ですが、
城内側の造りは東側同様。

上下二段となっており、下段側はこのような通路となっています。
安土城 2-8
大手西側上段部分。
こちらは遺構が完全に失われた東側と異なり、
一段低い空間から、礎石や礎石を引き抜いた痕跡の残る
建物跡が発見されています。

通常外敵を防ぐための櫓や土塁が置かれる
大手口に於いて、
このような防御施設以外の建築物が置かれる例は
城郭建築としては珍しいものだそうで、
この辺りからも信長公が異なる設計思想の下、
安土城を築いたことが窺えます。
安土城 2-9
西側上段部分に残された、井戸の跡。

この他この上段部分からは数基の竈跡(かまどあと)や、
炭と焼け土が入れられた凹地が発見されています。

このうち竈は何度も作り替えられた痕跡が見られ、
古い竈を壊しては整地し、新たな竈を作り直した様子が窺えます。
これらの竈は安土城築城時に使用されたものと
考えられており、
築城中の様子が垣間見られる貴重な遺構となっています。
(これらの竈を使い、築城工事に駆り出された人夫たちが
食事を摂っていたのでしょうか・・・)
安土城 2-10
城の正面に当たる大手門跡付近。

見た感じ当時を偲ばせる遺構は確認出来ませんが、
発掘調査では石塁から南(城外側)へ2間(約3.6m)飛び出す
特異な形で礎石と礎石抜き取り痕が見つかっており、
形式は不明ながらもここに確かに城門が在ったことが
確認されています。

では、この大手門跡から城内へと入って参りましょう!
安土城 2-11
大手門跡を通って見えて来る受付処が、
「有料エリア」への入口。
こちらで拝観料を払い、城内へと進みます。

現在城跡を含めた安土山全体の管理を請け負うのは、
臨済宗妙心寺派の寺院・摠見寺(そうけんじ)
信長公の菩提寺でもある摠見寺は、
安土城築城とともに開創。

城郭主要部を焼いた本能寺の変後の火災でも焼け残り
城址西側にて仏堂伽藍を展開していましたが、
安政元(1855)年に起こった火災で
堂宇の大部分を焼失

昭和初期に「大手道」に沿った「伝徳川家康邸跡」に
仮本堂が建てられた後、そのまま現在へ至っています。
(住職は代々織田家の末裔に当たる方々によって
受け継がれているのだとか)

営業情報
・拝観料
大人 700円
小人 200円(高校生以下)
※団体割引や身障者その他割引はありません。
・拝観時間
午前8時半~午後5時(入場受付最終4時) ※季節により変動あり。
・定休日
年中無休

その他不定期で現摠見寺の特別拝観日があり、そちらは
・午前8時半~午後3時まで
・抹茶と菓子付きで別途500円

この受付処を潜ると現れるのが・・・

安土城 2-12
安土城址を象徴する遺構の一つ、大手道

大手門から城内中央部を通って天主・本丸などの
城郭主要部分へと至る、いわば安土城のメインストリート
安土城 2-13
防御性能完全無視、
大手門から山腹までの約180mに渡って続く
直線部分の道幅、およそ6m!

両脇には石塁と石敷きの側溝が構えられ、
道の両側は羽柴秀吉や前田利家(まえだ としいえ)といった
家臣たちの住まう武家屋敷地となっていました。

とても防衛施設たる城のものとは思えぬ構えではありますが、
大手門から真っ直ぐに伸びる幅広な道と建ち並ぶ武家屋敷群、
その向こうに聳える天主の威容は、
城に暮らす家臣たちや訪れた者に、
信長公の権威と力を強く印象付けたことでしょう。

これもまた「見せる城」としての効果を意識した、
安土城ならではの設備。
安土城 2-13.5
大手道の傍らに置かれたこちらの石。
これはただの石材ではなく、
築城に際して近傍から徴発された石仏

言うまでも無くこういった石仏は本来信仰の対象であり
「罰当たりな」と思う向きもあることと思いますが、
ひとたび築城となれば膨大な建材や石材、
それら資材を運ぶ人夫や加工・組み立てを行う職人、
それらを工面するための資金など、
実に多くの財と資源を必要としました。

そのためこういった石仏をはじめ墓石・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・
燈籠・五輪塔・石臼などを石垣の一部として用いるケース(転用石と称す)が、
各地の城で確認されています。
(京都府・福知山城や奈良県・大和郡山城、
「世界遺産」となっている兵庫県・姫路城など)

ここ安土城でも大手道の各所に転用石として
徴発された石仏が残され、
膨大な資材と限られた時間の中で為された
工事の様を窺い知ることが出来ます。
(もちろん「仏様」として拝むことも可)
安土城 2-19
信長公の権威を示した「大手道」。
次回はその両側に広がる、
武家屋敷跡へと踏み込みます!

参考:安土城内解説パネル
    安土城址と摠見寺 公式ホームページ
    安土城跡 パンフレット
    Wikipedia

追記:前回記事にてFC2ブログランキング、
旅行ジャンル総合1位を獲得することが出来ました!ヽ(≧∀≦)ノ
当ブログをご覧の皆さん、
誠にありがとうございました!

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詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。