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安土城探索3 ~生活と護りの場・武家屋敷跡~

初めに
改めまして、前々回記事(安土城探索1)にて
FC2ブログランキング旅行ジャンル、
堂々の総合1位を獲得することが出来ました!

17年3月のブログ開設から4年。
念願叶っての最高順位!
この場をお借りして、これまで当ブログをご覧くださった皆さまに
改めて御礼申し上げるとともに、これからも楽しく、
奥深い「旅模様」をお届け出来るよう、精進して参ります!

よろしくお願い致します!

さて、昨年11月に訪れた「幻の城」・安土城訪問の様子を
(ようやく)お届けしている「安土城探索編」。
第3回の今回は・・・
安土城 2-13
安土城の権威と特異性を象徴するメインストリート・
「大手道」から入った、
武家屋敷跡2軒をレポート!

生活の場であり、同時に安土城の防衛線の一端を担った、
居住空間の実態に迫ります!
安土城 2-14
大手道に沿って残る、武家屋敷群。
その造りがよく分かるのが、
受付処を抜けてスグのところに残る2軒の武家屋敷跡。

まずはこちら、伝前田利家邸跡
織田家家臣として「槍の又左(またざ)」の異名で勇名を馳せ、
のち加賀百万石の開祖となった名将・
前田利家(まえだ としいえ)が住んでいた!
・・・と伝わる屋敷跡。

写真は屋敷地の入口部分で、
「屋敷」とは言うものの敵勢の侵入を想定し、
虎口枡形を置いた堅牢な造り。

礎石が抜き取られているため詳細は不明であるものの、
枡形内にはこれまた頑強な櫓門が構えられ、
屋敷への出入り口としてだけでなく、
有事の際の防衛施設としての役割を帯びていました。
安土城 2-15
「伝前田利家邸」想像図。

先述の通り大手道に面した部分に枡形を置き、
内部は下段・中段・上段三つの郭を配した、
三段式の空間配置。

門と枡形を抜けた先(想像図右手)は、
屋敷の最下段となる下段郭
ここには馬を飼育するための施設・
(うまや)が置かれていました。

「伝前田利家邸」では馬三頭を収容することが出来たそうで、
その造りは江戸初期に書かれた「匠明(しょうめい)」という
大工の技術書に記載された平面図・
三間厩之図(さんげんうまやのず)と
一致するのだとか。
(そんな貴重な文書が現存しているのか!)

下段の上、枡形から石段を上った先に在ったのが、
屋敷地で最も広い空間となっていた、
中段郭

ここは屋敷の主(前田利家?)やその家族、
またそれら住人に仕える家臣や下女たちが暮らした
居住空間となっており、
手前に広い土間を備えた台所
警護の武士たちが詰めた部屋・遠侍(とおざむらい)が
一体となった建物を設け、
中段中央に最も大きな建築物であり、
館の主が暮らした主殿(しゅでん)、
そのさらに奥に書院造りの奥座敷
置かれていました。

中段郭のさらに上が、屋敷の最上段となる上段郭
ここは安土城防備のための防衛施設となっており、
枡形をぐるりと囲むように多聞櫓(たもんやぐら)※
を配置。

戦時にはここから大手道や屋敷に侵入した敵軍を迎撃した他、
より敵勢に近い櫓への移動も可能な構造と
なっていたようです。

※多聞櫓・・・横に長く伸びた、長屋状の櫓。
        乱世の梟雄・松永久秀(まつなが ひさひで)の居城・
        多聞山城が同種の櫓を備えていたことから
        その名が付いた。
安土城 2-16
枡形から上段郭を見上げる。
今でこそ樹木生い茂ると化してしまっていますが、
往時はこの上に枡形を取り囲むように
多聞櫓が配置され、
邸内に侵入した敵軍の容易なる移動を妨げる造りとなっていました。

多聞櫓の下、上段郭との間には高さ6m、
三段重ねの石垣が聳え、
敵兵の侵攻を阻止。

さらに石垣一段目と二段目の上端には
武者走り(むしゃばしり)と呼ばれる
兵が行き来できる通路が設けられ、
有事には屋敷内各施設への移動や敵軍の迎撃が
図られました。
安土城 2-17
枡形正面、中段郭への「勝手口」として、
また多聞櫓へのアクセス路として設けられた石段。

石段を遮蔽するように構えられた石垣は
蔀の石塁(しとみのせきるい)と言って、
多聞櫓へ通じる石段を枡形へ侵入した敵兵から
見えにくくするためのもの。

枡形右手には大手道を睨むように隅櫓
設けられており、
その裾の石垣が「蔀の石塁」との間を抜ける通路を
狭くする狙いがありました。
安土城 2-18
「伝前田利家邸」の西南部、
大手道を見下ろすように立ち上がる石垣。
この上にはかつて隅櫓が建てられており、
向かいの「伝羽柴秀吉邸」とともに
大手口やその先の侵入路を護る役割を
帯びていました。
安土城 2-19
続いて大手道を挟んで反対側の、
伝羽柴秀吉邸跡へ参りましょう!

羽柴秀吉(はしば ひでよし)と言えば、
信長公の下で草履取りの身分から
才知と機転を効かせた働きで大将格にまで上り詰め、
主の死後天下を取るにまで至った英傑・
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の旧姓。
安土城 2-20.5
この屋敷はその羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝わる屋敷地で、
上下二つの郭を持つ二段構造

下段は入口に二重の櫓門を構え、
その内側には遠侍を備えた(うまや)を配置。
郭の間に「伝前田利家邸」同様三段構えの石垣を
築くことで、
縦方向への敵兵の移動を阻害していました。

一方上段郭は館の主(羽柴秀吉か?)らが住まう
居住空間

その正面には下段郭とは別に高麗門※を構えた
入口を設け、
その隣には隅櫓を置くことで屋敷と大手道を警備。
そこから入ったところに生活空間である
主屋が建てられていました。
(詳細は後述)

※高麗門・・・本柱と控柱一対の上に大小の切妻屋根を載せた
        門の造り。城郭建築に多く採り入れられた。
安土城 2-21
下段郭の半分ほどを占める、の跡。
「伝羽柴秀吉邸」では「伝前田利家邸」の倍、
6頭の馬が飼育され、
邸内の防備と厩の警護に当たる武士たちが詰める
遠侍が併設されていました。

石で示された建物敷地から、その規模の大きさが窺えます。
(「厩」を除く下段郭のもう半分は、
建物を設けない「広場」となっていました。
ここで館の主人(秀吉?)が馬を走らせることも
あったかも知れません)
安土城 2-22
下段郭背面には、向かいの「伝前田利家邸」同様、
三段構えの石垣が侵入者を拒むかのように
立ちはだかっています。
安土城 2-23
城郭主要部同様、近江国(滋賀県)穴太(あのう)を拠点とした
石工集団・穴太衆によって築かれた、
強固な石垣。

一つの「高石垣」ではなく三段式となっているのは、
石材の加工と積み上げる技術が
発展途上であったため。

自然石を緻密な計算と熟練の職人技で積み上げる
野面積みという工法で、
信長公の求めた「高さ」と四百数十年を耐えうる「強度」を
獲得しています。
(素晴らしい!)
安土城 2-24
石垣背面に設けられた、上段郭へと通じる石段。
平時は上下段を行き来する移動空間として、
戦時には防戦に当たる兵士たちが移動・迎撃に
務める造りとなっていたのでしょう。
安土城 2-25
「伝羽柴秀吉邸」上段郭跡に残された、
邸宅の中心施設・主屋の痕跡。

「伝羽柴秀吉邸」では主が日常生活を送る主殿を中心に
玄関・式台(しきだい、主人が来客を出迎え、また見送るための小部屋)、
遠侍、料理の配膳を行う内台所が接続し、
複雑な造りとなっていました。

主殿自体も畳敷きの廊下に沿って、
複数の座敷や納戸、
床の間を設けて主人や上客(信長公など)が座した「上段の間」、
庭に面した「広縁」、
広縁中途に設けられた上客を迎え入れるための
豪奢な玄関・「車寄(くるまよせ)」等
様々な用途の空間から構成されており、
これら建物群の総面積は366㎡にも達したそう。

ここがあの「天下人・秀吉」の住処であったことを示す
確実な証拠はありませんが、
敷地の広がりと礎石の数から、
ここに織田家中でも重きをなした人物が暮らしていたことは
間違いないでしょう!

大手道を挟んだ向こう側に見えているのは、
現在摠見寺仏堂が建てられている、
伝徳川家康邸跡
安土城 3-1
武家屋敷地として居住に十分な空間を確保しながら、
守りをも意識した造りとなっていた、
安土城武家屋敷。

「大手道」や豪華な天主から「見せる城」という一面が
フォーカスされがちな安土城ですが、
その実態は数多の戦場を駆け抜けた信長公の
居城らしく、
実戦にも配慮されたものでした。

次回は大手道へと戻り、
城の中枢部を目指します!

参考:各所解説パネル
    コトバンク

コメント

羽柴

羽柴は苗字だから旧名じゃないよ。

No title

なんとなくさん

ご指摘ありがとうございます!
訂正しました!

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。