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安土城探索4 ~城の「心臓」・本丸と天主台へ~

先ほど、東北・関東地域で最大震度6強
強い地震が発生したとの情報が入って参りました!

震源地や被害地域にお住いの皆さま、
余震や二次災害に用心しつつ、
自らの身を守ることを第一に、
慎重な行動を心掛けてください!

安土城 3-1
2ヶ所の屋敷跡探索を終え、大手道へと戻って参りました。
ここから先は大手道を辿って一直線!
城の中枢・本丸跡を目指します!
安土城 4-2
「伝羽柴秀吉邸跡」・「伝前田利家邸跡」を出て
少し歩くと、
180m続いた直線路の終点!
ここで大手道は西へ90度のターンを決め、
安土山の山腹へと分け入って行きます。
安土城 4-3
振り返ってみると、
真っ直ぐ伸びる大手道とその先の大手口、
さらには安土の町を望む、良い眺め!
安土城 4-4
山腹部分へ差し掛かると、道の様相は一変!
急な斜面をジグザグに屈曲しながら登る険路となります。

信長公の威光を見せつけるように伸びた直線部分とは異なり、
軍勢の侵入を拒むかのような複雑な屈曲は、
ここが「城」であることを再認識させるよう。
安土城 4-5
屈曲部分の終端に位置する、伝武井夕庵邸跡

武井夕庵(たけい ゆうあん、生没年不詳)は
始め美濃(岐阜県南部)の斎藤家、
のち信長公に仕えた武将で、
信長公の右筆(ゆうひつ、武将に近侍し、公文書を作成する役職)を
務めた人物。

安土城では城の入口となる山麓部分に戦上手の家臣たち、
城郭主要部の近くに織田家一門や
信長公の近臣たちが住んでいた・・・と考えられており、
大手道の要所に当たる立地から、
ここに住んでいた人物が信長公の信頼を受けていたことが
窺えます。
安土城 4-6
「伝武井夕庵邸跡」の先に広がる空間。
ここには信長公の嫡男・
織田信忠(おだ のぶただ)の
屋敷が在ったと考えられている場所。

織田家の跡取りとして英才教育を受け、
天正10(1582)年の甲州征伐では
信長公の先を進む先鋒軍の総大将として
武田攻めの指揮を執り、
わずかひと月で因縁深き武田氏を滅ぼすなど、
信長公も認める将器を顕しつつあった信忠。

本能寺の変では毛利攻めのために上京した
父・信長に随行し、妙覚寺を宿所としていましたが、
信長公死去の報を聞き、二条御所
(時の皇太子・誠仁親王(さねひとしんのう)の御在所)に籠城。
しかしここも明智勢に囲まれ、
衆寡敵せず信忠は自刃

その後の織田家中の争いや羽柴(豊臣)秀吉の台頭、
最終的に織田家が没落に至ったことを顧みると、
ここで信長公の後継者が斃れてしまったことが、
実に惜しまれる。
(この時信忠に自害を勧めたとされる叔父・織田長益
(おだ ながます、「有楽斎」の号で知られる)は
しれっと城を抜けだし、生き延びていたりする)
安土城 4-7
大手道は「伝織田信忠邸跡」を抜けた先から
再び幅広なものとなり、
「メインストリート」の風格を表しながら
城郭主要部へと向かいます。
安土城 4-8
この辺りの左手に現れる、隣り合った武家屋敷跡。

左手は織田(津田)信澄邸跡
屋敷の主・織田信澄(おだ のぶずみ。元服後「津田」を称す)は
信長公の甥に当たる人物。

本能寺の変時は大坂城(一向宗の本拠・石山本願寺の跡地。
後の豊臣大坂城)にて四国征伐の準備に当たっていましたが、
彼が謀反人・明智光秀の娘婿であることから
共謀の疑いを掛けられ、
共に四国渡海の準備に当たっていた信長公の三男・
織田(神戸)信孝(おだ のぶたか)とその補佐役であった
織田家重臣・丹羽長秀(にわ ながひで)に攻められ、
討死
(かわいそう・・・)

一方右手に屋敷を構えていたのは、
信長公に小姓・近習として仕え、
本能寺の変では主君の最期の時を稼ぐために奮戦したことで
有名な、森蘭丸(もり らんまる)

織田家家臣・森可成(もり よしなり)の三男で、
12歳の頃より小姓として信長公の傍に近侍。
元服(成人)後は成利(なりとし)を名乗り
近習・使者として変わらず忠節を尽くしていましたが、
本能寺の変では主を守るべく
弟の坊丸(ぼうまる)・力丸(りきまる)とともに奮闘。

しかし1万を超える明智勢を防ぎきることは出来ず、
討死(諸説あり)。享年18。

主君に殉じ、弟たちとともに無念の死を遂げた忠義の士。
一門衆と並んで城郭主要部の近くに土地を与えられたことが、
彼に対する信長公の信頼(と情愛)の現れであるように
思えます。
安土城 4-9
麓から続く階段と勾配が途切れて
比較的平坦な場所へ出てくると、いよいよ城郭主要部は目前!

そんな要地の護りとなっていたのが、
この黒金門跡(くろがねもんあと)
山麓から二手に分かれて登ってきた
百々橋口道(どどばしぐちみち)・七曲口道(ななまがりぐちみち)の
合流点を固め、本丸・二の丸・三の丸の
中枢部への入口となっていた、重要な場所。

この付近から周囲を固める石垣はいよいよその高さを増し、
主要部分を取り巻く外周路と呼ばれる
道に沿って、
多数の隅櫓・櫓門が監視の目を光らせていました。

黒金門もそんな櫓門の一つで、
名前から察するに門扉の表面に鉄板を張ることで、
当時既に戦いの主流となっていた、
鉄砲(火縄銃)での銃撃戦に対応したものと思われます。

平成5(1993)年度に行われた発掘調査では、
付近から菊や桐の紋章を施された
金箔瓦が出土しており、
往時の煌びやかな姿を偲ぶよすがとなっています。
安土城 4-10
黒金門枡形内の石垣に嵌め込まれた巨石
(比較対象が写っていないため大きさが分かりづらいかと思うので、
下の編集写真にて改めてご覧ください)
安土城 4-9.5
城郭中枢部への入口、目立つ位置に巨石を置くことで
為政者の権威を示すという手法は、
後の徳川家所有の城を始め各地で見られたものですが、
信長公はここ安土城で他の近世城郭に先駆けて
この試みを採り入れており、
この点でも信長公の城造りに対する先進性・先見性を
見て取ることが出来ます。
安土城 4-11
黒金門付近の石垣でもう一つ注目すべきなのが、
石材表面に残された黒ずみ


これは本能寺の変後に城郭主要部を焼いた、
火災の痕跡。

天主含めた主要建築物を地上から消し去った業火は、
主要部に近いここ黒金門にも襲来
城郭中枢への道を閉ざした「かんぬき」も、
人の手を離れた焔の前にはひとたまりもありませんでした。

石材一つ一つに刻まれた痕跡が、
猛火の凄まじさを物語る。
安土城 4-12
写真手前、一列に並べられた石材は、
黒金門の由来となったであろう門扉の跡。
その上に、金箔瓦で装飾された櫓門が
載せられていたと思われます。

その向こう、石垣の上には恐らく土塀が置かれ、
黒金門を突破した敵軍を迎撃。
枡形・櫓門と合わせた侵入路を取り囲む
二段、三段構えの防衛機構は、
まさに「戦う城」の姿そのもの。
安土城 4-13
外周路を見下ろすように聳える石垣。
ここにもまた、火災の痕跡が残されています。
安土城 4-14
外周路の傍らに置かれた、こちらの石材。

これは仏足石といって、
仏教の開祖・仏陀(ブッダ、釈迦)の足跡を表現したもの。
大手道脇の「石仏」同様信仰の対象となるもので、
かつ中世の「仏足石」の遺物として
大変貴重なものだそうですが、
そこは時に信仰の敵ともなった信長公。

石仏ともども容赦なく石垣の材料として
徴発したようです。
安土城 4-15
山麓から続いていた「大手道」、そして城郭主要部の周りを
ぐるりと巡る「外周路」が終点を迎え、
「本丸裏門」を抜けると、天主直下の本丸へと出て参ります。

安土城本丸は周囲を天主台・帯郭・三の丸の石垣に囲まれた
東西約50m、南北約34mの細長い敷地に設けられた郭で、
通称千畳敷

かつてはここに中心施設の一つである本丸御殿
置かれていたと思われ、
発掘調査では焼損した形跡の残る119個の
礎石も発見されているのですが、
他の城郭と比べて特異なのが、その配置。

調査の結果中庭を中心とした
三棟の建物群が存在していたことが判明しているのですが、
その配列はなんと天皇の御所・内裏(だいり)の
清涼殿にそっくりだったというのです!

信長公に直臣として仕え、本能寺の変後は官僚として
丹羽長秀(にわ ながひで)、豊臣秀吉といった
実力者・天下人の行跡を見取った
太田牛一(おおた ぎゅういち)の著書・
信長公記(しんちょうこうき)によれば、
天主近くに「御幸の御間(みゆきのおんま)」と呼ばれる建物が在り、
その中に「皇居の間」という部屋があったのだとか。

このことから、安土城の本丸御殿は城主・信長公の
「生活の場」としてではなく、
天皇行幸が叶った際に迎え入れるための
行幸御殿(ぎょうこうごてん)だったのではないかと
考えられています。

結局天皇の安土行幸は信長公の死と
安土城中枢の焼失によって
実現することは無かったものの、
「城郭への天皇の行幸」と「御座所専用の御殿」という
トンデモナイ発想は、
天下をまとめ、新時代を築かんとしていた信長公ならではの
ものと言えましょう。
安土城 4-16
本丸を抜け、一段高い場所に在る「天主取付台」を越えて行くと、
いよいよ城の最高所へ。
そこに鎮座するこの石垣こそ・・・
安土城 4-17
かつて天に届かんばかりの威容を誇った安土城天主、
その天主台跡

現在は物資の貯蔵などに用いられた穴蔵(あなぐら)と呼ばれる
地下室部分を中心として、
東西・南北それぞれ約28mの範囲と
天主の重量を支えた礎石が残っているのみですが、
かつてはこの2倍以上の規模を持つ、
「天下人の城」に相応しい壮大な石垣であったそう。
安土城 4-18
安土城天主台の想像図。
中央部分が礎石の並ぶ「穴蔵」部分、
その周囲が現存する天主台遺構となっており、
かつての規模の大きさが分かるかと思います。

その形状は後代全国各地に建てられた
どの「天守」にも類例のない、
不等辺八角形という特異なもの。

また通常天守台中央には多大な重量を支えるための
心柱(しんばしら)という太い柱が
据えられているのですが、
ここ安土城では「心柱」を設置するための礎石が
確認されていません

発掘調査では礎石の代わりに天主台中央から「壺のようなものの欠片」が
出土しており、
一説では天主中央・一階(穴蔵)部分には、
仏舎利(ぶっしゃり、釈迦(ブッダ)が荼毘に付された際の遺骨)を
収めた宝塔が置かれていたとも言われています。

この上に立っていた「天主」もまたここにしか無い
特別なものだったそうで、
下階部分は天主台同様の不等辺八角形

その一階には前述の通り「宝塔」を置き、
その上はなんと四階まで吹き抜け構造(※諸説あり)として、
三階部分には信長公が好んだ芸能を上演するための
能舞台を設定。

また数々の部屋の中には信長公が居住した居室まで
用意されており、
各地の天守が倉庫や戦時の指揮所として
建てられたのに対し、
こちらも他に例の無い住むための天主だったという
推測も為されています。

天主上部は六階を八角形、
最上階・七階を望楼を備えた四角形とし、
外観は六階を、七階を金箔で飾った艶やかな装い。

その内部には信長公の御用絵師として重用された狩野派の絵師・
狩野永徳(かのう えいとく)筆の
障壁画が並び、
仏法の世界や中国の思想を示した世界観が
展開されていたそう。

その煌びやかさは実物の天主を目にした(羨ましい・・・)
ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイス曰く
ヨーロッパにも無いものであったそうで、
その壮麗さと贅を尽くしたさま、
見た人の驚きが伝わって来ます。

そんな「唯一無二の創造物」として君臨した天主が
わずか3年ほどで失われてしまったのは、
やはり惜しい・・・

安土城 4-19

安土城 4-20
外面の崩落等で、かつての姿こそ失われてしまった
安土城天主台ですが、
その眺望の良さは健在。

眼下には信長公の「夢」を体現していた、
安土の町並み。
安土城 4-21
遠方には満々と水を湛えた「日の本一の湖」・琵琶湖
安土城 4-22
現在は干拓などによって遠のいてしまっているものの、
かつては城下町、そしてこの安土城下まで
湖水が迫っていたそう。

信長公が目にし、「明日」を夢見た景色は、
如何なるものだったのでしょう・・・
安土城 4-23
天主台を後にして、方向転換!
もう二カ所、城内に残る要所を訪れます。

参考:城内解説パネル
    攻城団 - 日本全国のお城を検索できて訪問履歴が残せるサイト

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詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。