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安土城探索5 ~信長公本廟と摠見寺~

昨夜遅くに発生した、福島県沖地震

今もわれわれ日本人の心に深い傷を残す
あの震災から10年の時を経て、
再び起こった今回の地震。

今のところ死者は出ていないとのことですが、
震源となった東北地方から関東地方に掛けて、
100名以上の方が負傷。
東日本の大動脈となっている東北新幹線の被災や
停電・断水など、多くの影響が出ています。

今夜から明日に掛けては「警報級」とも言われる
降雨が予想されており、
被災地の方々が受けているであろうショックとストレスと合わせ、
気掛かりなところ。

遠く滋賀という隔地からではありますが、
被災地域の方々への手厚いケアとライフラインの迅速なる復旧、
町やコミュニティの早期復興を
お祈り申し上げます。
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安土城 4-17
さて、昨年11月の安土城探訪の模様を(遅ればせながら)
お届けして参った「安土城探索編」も、いよいよ終盤

安土城のシンボル・天主が聳え立っていた
「天主台跡」を下りまして・・・
安土城 5-1
苔むした石垣を横目に、大手道方向へ!
・・・向かう前に、ちょっと寄り道。
安土城 5-2
まず立ち寄ったのは、天主台跡の西方、
小高い台地上に広がる伝二の丸跡

天主台・本丸・三の丸跡とともに城郭主要部を形成し、
本能寺の変後の火災からも逃れたことで
一時織田家当主の居所となった・・・と思われる郭跡。

今はがらんとした空き地のような場所に在るのが・・・
安土城 5-3
信長公本廟(のぶながこうほんびょう)

京・本能寺にて無念の死を遂げた信長公を祀り、
本拠としていたここ安土城にてその御霊を慰めるために、
(まだ)織田家重臣の立場であった
羽柴(豊臣)秀吉(はしば ひでよし)によって建立された廟所

歴史の大転換点(本能寺の変)となった天正10(1582)年が明けた
翌11(1586)年1月、
「謀反人」明智光秀討伐の功により
天下人候補としてその影響力と発言力を強めつつあった
秀吉は、
「織田家当主」として焼け残った安土城二の丸に
身を置いていた三法師(さんぽうし、のちの織田秀信)への
年賀のあいさつとして登城

その際信長公佩用の太刀、着用の烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)といった
衣類等の遺品を埋葬して、
ここを故人を弔う本廟と定めました。

(名目上の)織田家当主の居所に廟所を建設したこと、
その後(6月)に織田家一門や家臣を集めて大規模な
一周忌の法要を行っていることから
政治的意図がぷんぷん漂う
場所ではありますが、
日本史・戦国史に名を残した偉人を偲び、拝礼。
(廟所上部に置かれた石ですが、
生前信長公は自らを「神」と称して天主一階に
ご神体として石(盆山)を置いていたと言われており、
あるいはこの石がそれに当たるのかも知れません)

「信長公本廟」を拝んだ後は、
元来た道を引き返して「伝織田信忠邸跡」まで到達。
そこからは分かれ道となっており、
左手が「大手道」へと繋がっているのですが、
ここで右手へと方向転換

「立ち寄りスポット」二カ所目へと向かいます。

安土城 5-4
それがこの石段を上った先に在る・・・
安土城 5-5
摠見寺跡(そうけんじあと)

摠見寺安土城探索2でも述べた通り、
臨済宗妙心寺派に属する寺院で、
山号は「遠景山(えんけいさん)」。

後年「伝徳川家康邸跡」に仏堂を移しながらも
安土山全体の管理者として存続する同寺ですが、
元々はこちらが寺地

安土城築城と時を同じくする天正4(1576)年、
信長公自身の菩提寺として
安土城内西方、天主と城下町を結ぶ
百々橋口道(どどばしぐちみち)の途上に創建されました。

開創に当たり近江国(滋賀県)内各所より「仏石」のごとく
建築物を移築
信長公存命中には城を訪れた人の多くが
摠見寺境内を通って信長公の下へ参上したことが
記録に残されています。

天正10(1582)年、本能寺の変後の火災では
ここ摠見寺は類焼を免れ
江戸時代には多数の仏堂伽藍を連ねる名刹として
安土城そのものの荒廃に反して隆盛。

しかし幕末の1854(嘉永7/安政元)年、
火災によって本堂を始めとするほとんどの仏堂が焼失

昭和に入ってから「伝徳川家康邸跡」に仮本堂が建てられ
寺地を移転し、現在へと至っています。
安土城 5-6
こちらは江戸時代に刊行された近江国の案内記(いわゆるガイドブック)・
近江名所図会(おうみめいしょずえ)に描かれた、
最盛期の「安土山摠見寺」の姿。

寺地中央に本尊を置いた本堂、
二段下がったところに現存建築物の一つである三重塔、
左下にこちらも現存建築・二王門(楼門)、
その他鐘楼や鎮守社、
秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)によって
建立された書院や庫裏(くり)、
長屋や浴室、蔵など多数の建築物が在るのが確認出来ます。

これら建築物も、先述の火災によって
三重塔・二王門を除くほとんどが失われてしまいました。
(実に残念・・・)
安土城 5-7
摠見寺本堂跡
信長公による創建以来、
寺地の中心として佇んでいた堂宇の跡。

「密教本堂形式」に則した建築物で、
他の仏堂同様他所からの移築であったと思われますが、
前述の火災によって焼失

現在では建物を支えていた
基壇と礎石を残すのみとなっています。
安土城 5-8
ほとんどが失われてしまった、摠見寺の仏堂伽藍。
しかし二度の火災を生き延び、
現在までその姿を留める建造物も存在しています。
安土城 5-9
その一つが、こちらの三重塔
(角度的に全体像を収めるのが厳しかった・・・汗)

摠見寺開創当時から残る三間(およそ5.5メートル)四方×三重の
仏塔で、屋根は本瓦葺き。
棟札によれば室町時代の享徳3(1454)年築で、
天文24(1555)年修理の記録アリ。

安土城築城と摠見寺開創に合わせ、
甲賀地方の長寿寺(ちょうじゅじ、現在の甲賀市石部町)より
移築されたと伝わります。

慶長9(1904)年には豊臣家二代・
豊臣秀頼(とよとみ ひでより)によって、
大正3(1914)年には三層目の屋根と一・二層目の軒の
崩落(こっわ!)に伴う修理が行われています。
安土城 5-10
一・二層目部分。
特に彩色がなされていないため、建築物としての華々しさは
あまり感じられませんが、
屋根上端部の鬼瓦や軒裏の裳階
(もこし。仏堂、塔、天守等で、軒下壁面に付けられた庇状の構造物)
が、仏塔らしい風格を醸し出しています。

この三重塔と麓側から境内への出入り口となっていた
二王門(楼門)の二棟は、
安土城在世中からの遺構として、
ともに重要文化財指定を受けている
貴重な建物。
安土城 5-11
季節は晩秋
イチョウの彩りに包まれたかつての寺地からは・・・
安土城 5-12
かつての琵琶湖の一部であり、
周辺の干拓によって取り残された内湖・
西の湖を望む絶景!
安土城 5-13
しばし寺跡で歴史ロマンと眺望に浸った後、
移動再開。
その途上、山麓側へと向かう石段の先に見えて来るのが・・・
安土城 5-14
もう一つの現存建築物・二王門(楼門)

元亀2(1571)年、「甲賀武士・山中俊好」によって建立された楼門で、
建築様式は入母屋造り、本瓦葺き。
三重塔同様甲賀地域から移築された建築物であり、
こちらも重要文化財に指定されています。
安土城 5-15

安土城 5-16
「二王門」と名が付くからには、
当然門内には「二王」こと一対の金剛力士像
納められています。

門同様重要文化財に指定されている
仏像の頭部には、
「戦国時代」が幕を開けたとされる応仁の乱開戦の年
応仁元(1467)年の造像銘が残されており、
因幡院朝(いなば いんちょう)なる仏師による
作品なのだそう。
(「院朝」と言うと平安後期に活躍した「院派(いんぱ)」の
仏師が著名ですが、年代が異なることから
同名を名乗った別人と思われます)
安土城 5-17
11時頃の入山から2時間以上に及んだ安土城探索も、
これにて終了!

ここからは再び自転車に跨り、
安土町内に在る城に関わる展示施設へと向かいます!

参考:各所解説パネル
    特別史跡安土城跡 パンフレット
                 公式ホームページ
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。