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彦根城雪景1 ~「国宝」・彦根城を目指して~

巷で流れる「ワクチン配布」のニュースに希望の光
見出す思いと幾らかの懐疑心を抱き、
ツイッター等を通して流れて来る河津桜の彩りに、
遠出したくてウズウズする心を抑える日々を送っております。
ac802tfkです。

前回記事にてようやく「安土城探索編」を畳むことが
出来ましたが、
引き続いてお城ネタと参ります。

未だネタ的には昨年から抜け出せない
状態となってしまっていますが、
ゆるりとお付き合いくださいませ。

2020.12.31 Thursday
彦根城 1
新年を目前に控えながら、
全国各地で厳しい冷え込みと降雪が旋風を巻き起こした、
2020年大晦日

当初は「部屋こもり」を決め込んでいた私でしたが、
積もった雪を見て何をトチ狂ったか、
そうだ!映えるトコロへ行こう!
と出撃を決意。
彦根城 2
バスの車中から別世界のような雪原を眺め・・・
彦根城 3
これまた雪に包まれた近江八幡駅から
彦根城 4

彦根城 5
「西の韋駄天」・新快速に乗り込み・・・
彦根城 6
やって来ました、彦根駅

湖東・湖北地域の主要都市の一つ・
彦根市(人口11万2,588人)の中心駅で、
これから向かう「観光地」への玄関口となる駅ですが、
既に雪まみれの状態。
彦根城 7
湖東・湖北地域に大雪警報が発令されたこの日、
「警戒地域」の真っ只中に在る彦根駅前も、
ご覧の通りの銀世界

普段なら国内外の観光客でごった返したであろう駅前も、
コロナ禍+進退に難渋するほどの大雪で、
人影もまばら。
(そしてそんな日に出掛ける私 笑)
彦根城 8
駅前に飾られた彦根藩の開祖・
井伊直政(いい なおまさ)公の銅像も・・・
彦根城 9
見事に雪まみれ!

さて、直政公の名前も登場したところで、
改めまして今回の目的地となるのは、
国宝・彦根城!

江戸幕府を創始した徳川家の旧領・遠江国(とおとおみのくに。現在の静岡県西部)
井伊谷(いいのや)に住し、
徳川家康公に直臣として取り立てられてからは
新参ながら徳川家の筆頭家臣として功を立て、
徳川麾下で武名を誇った徳川四天王の一人として、
また忠勇無双の武田家旧臣を多く取り込んだ「井伊の赤備え」の
先頭を修羅の如く駆け抜けたことから、
井伊の赤鬼と恐れられた猛将・井伊直政

関ヶ原の戦いでの戦功によって
上野国(現在の群馬県)高崎12万石から
近江国北部・18万石への栄転叶った直政公でしたが、
当初与えられた佐和山城(さわやまじょう)は、
敵将・石田三成の居城

このことを嫌った直政公(と家康公)は城を佐和山から
平地を挟んで向かいに在る小高い山・
彦根山(現在の彦根城地)に移そうと考えましたが、
慶長7(1602)年、直政公が関ケ原での戦傷が元で病死(享年42)

直政公の死後は嫡男・直継(なおつぐ)公が跡を継いで、
慶長9(1604)年に築城に着手。

大御所・家康公の特別の計らいにより、
3名の奉行の下で尾張名古屋藩・越前福井藩など
7ヶ国12大名が参加する
天下普請として築城が進められましたが、
直継公は「病弱」・「大坂の陣への不参加」を理由に
上野国安中藩(あんなかはん)へと移封

代わって「彦根藩2代」となった弟・直孝(なおたか)公の下で
築城工事は進み、
元和8(1622)年に全ての工事が完了。

城地面積およそ0.25k㎡(約75,800坪)、
周囲約4kmの城域の構築と建造物の築造に、
20年の歳月を掛けた大事業でありました。

以後彦根藩井伊家14代、幕府よりの「預かり米」を加えて
35万石の大領を有する「譜代家臣筆頭格」として、
一度の合戦・国替えもなく
明治時代を迎えた彦根藩と彦根城。

明治の新政の下で他の城同様彦根城も
存続の危機を迎えましたが、
大蔵卿・大隈重信(おおくま しげのぶ)の上奏
(明治天皇の従妹・かね子女史の説あり)によって、
奇跡的に保存が決定。

戦時中の昭和19(1944)年に井伊家より彦根市へと
寄贈された城は
同26(1951)年に国の史跡、
同31(1956)年には特別史跡に指定された上、
その間の同27(1952)年、
天守とそれに付随する附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)が
日本の城郭でも5つのみの国宝に、
他複数の建築物が重要文化財に指定され、
近世城郭の姿をよく留めた、まさに国の宝として
彦根山の頂に聳え立っています。
彦根城 10
では、彦根城目指して移動して参りましょう!
彦根駅から現在の城跡入口となっている
「佐和口」までは、(何もなければ)徒歩10分ほど。

駅前から「井」の頭文字を戴いた、井伊家の旗印がはためく
アーケードを抜け
彦根城 11

彦根城 12
真っ白けの彦根の街を進む・・・
雪道用の靴など持っていない私。
足下に降り積もる雪に難渋しながら、ともかく前へ!(汗)
彦根城 13
しばらく歩いて行くと、通り沿いに凹地が現れました。
大部分が雪で埋まってしまっていますが、
ここがかつての彦根城外堀跡

藩政時代、内堀中堀とともに城の守りを固めていた
堀の一つで、
名前通り城の在る彦根山(城山)を中心とした
防御線の最も外周に巡らされ、
城下町をも取り込んだ、惣構え(そうがまえ)の一角。
彦根城 14
現在ではここを含めた数カ所のみ現存しているそうですが、
かつては隣接した車道部分を含めた広大な堀幅を持ち、
「親藩筆頭」の城に相応しい堂々たる備えを誇っていたそう。

しかし戦後にマラリア対策としてその大部分が
埋め立てられてしまい、
今ではその一部分からかつての姿を偲ぶのみと
なっています。
彦根城 15
外堀跡」を抜けて「滋賀縣護国神社」付近に差し掛かると、
左手に石垣と中堀が見えて来ました!
(写真右手には、うっすらと「佐和口多聞櫓」が見えています)
彦根城 16
ここで沿道右手にもご注目!
木立に囲まれひっそりと佇むこちらの石碑は、
幕末の混沌に陥った幕政に於いて幕閣の筆頭たる大老を務め、
桜田門外の変に散った彦根藩第13代藩主・
井伊直弼(いい なおすけ)公が詠んだ歌を刻んだ、
井伊大老歌碑
彦根城 17
雪を被って、ご尊顔が白面に・・・

文化12(1815)年、彦根藩11代藩主・井伊直中(いい なおなか)の
十四男として生を享けた直弼公。
大名家の子息としてさぞ華やかな暮らしが待っている・・・!
と思いきや、さにあらず

当時の武家では跡取りとなる嫡男以外は養子に出される他
生きる道筋は無く、
かといって十四男という末席、おまけに側室の子である直弼公には
養子の貰い手が現れず
そのため井伊家中に身を置きながら中級武士クラス
生活を送るという、
なんとも微妙な立場に追い込まれてしまいます。

天保2(1831)年、父・直中の死をきっかけに
自ら埋木舎(うもれぎのや。豪雪による倒壊と復元を経て、
彦根城前に現存)と名付けた屋敷へと移り住み、
「埋もれた」立場の中で30代を迎える頃まで、
茶道・国学・兵学・禅・和歌・居合術など
実に多岐にわたる武芸・学問に
打ち込む日々を送ります。
(この修練の日々で蓄えた知識と磨いた思想・思考が、
のちの「大老・直弼」の形成に寄与したことでしょう)

そんな彼に転機が訪れたのは、
弘化3(1846)年、32歳の時。

彦根藩では前藩主・直中の十一男(すなわち直弼公の兄)・
直元(なおもと)が跡取りと決められていましたが、
その直元が死去

既に他の兄弟たちは養子に出された後であり、
家中に残る子息は「十四男」の直弼公ただ一人
という訳で、なんと末席として生まれた直弼公が
消去法で井伊家の後継者の座へと収まることに。

そして嘉永3(1850)年、直弼公36歳の時、
藩主を務めていた三男・直亮(なおあき)公が死去
「藩主の望みなし」と思われていた直弼公が
彦根藩13代藩主の座に就くこととなりました。

後年に悪名を轟かす直弼公。
その藩政もさぞかし・・・と思いきやそんなこともなく、
・直亮公の遺産・15万両を藩内で分配
・領内を自ら巡見し、貧民への援助や病人の保護に努める
と、藩主としては善政を施していたそうな。

こうして名君として名を残すかと思われた矢先、
嘉永6(1853)年に再び転機到来。
泰平の世を謳歌していた天下を揺るがした、黒船来航

この一大事に江戸幕府は「譜代筆頭」である井伊家の藩主・
直弼公を江戸へと招集
安政5(1858)年には幕閣首座たる大老に就任し、
難局に立たされた幕政の「舵取り役」を担うこととなりました。

そして直弼公が歴史に名を残すこととなったのが、
アメリカとの日米修好通商条約の調印。

後世から見れば半強制的とはいえ「日本の開国・近代化への端緒」として
評価し得る事跡であるこの出来事ですが、
国内が「開国派・攘夷派」で分かれた情勢下、
しかも孝明天皇(こうめいてんのう)の勅許(天皇直々の裁可)を
得ずしての調印であったため、
「攘夷派」の藩や志士たちがこれに大反発

これら攘夷派有力者たちに対し
直弼公も毅然とした態度で臨み、
・水戸藩家老、安島帯刀(あじま たてわき)
・元小浜藩士、梅田雲浜(うめだ うんぴん)
・越前福井藩士、橋本左内(はしもと さない)
・長州藩士、吉田松陰(よしだ しょういん)
らが死罪、または獄死
・一橋徳川家当主、一橋慶喜
(ひとつばし よしのぶ。後の15代将軍・徳川慶喜)
・越前福井藩主、松平春嶽(まつだいら しゅんがく)
・尾張名古屋藩主、徳川慶勝(とくがわ よしかつ)
・伊予宇和島藩主、伊達宗城(だて むねなり)
・土佐藩主、山内容堂(やまうち ようどう)
といった藩主・藩士らが隠居・謹慎処分に、
その他多数の武士や公家、町人らが処分を受ける
安政の大獄(あんせいのたいごく)へと発展します。

こうして攘夷派からのヘイトを貯めに貯めまくってしまった直弼公。
当然過激派からの標的とされてしまった彼は、
安政7(1860)年3月、
江戸城・桜田門外にて元水戸藩士ら18名の襲撃を受け、
暗殺されてしまいました(桜田門外の変)。
享年44歳。

数奇な運命を辿った後、非業の死を遂げることとなった直弼公。
しかし彼が為した「英断」とも「蛮行」とも取れる事跡は、
間違いなく近代日本に繋がる道筋として
歴史の底流に流れ続けています。
彦根城 18
直弼公歌碑をアップで。

あふみ(淡海・近江)の海 磯うつ浪の いく度(たび)か

御世(みよ)にこころを くだきぬるかな

という和歌は、桜田門外の変の二か月前、
安政7(1860)年正月に詠まれたもの。

この時上写真の肖像画を
御用絵師の狩野永岳(かのう えいがく)に描かせ、
この和歌とともに井伊家の菩提寺・清凉寺に納めたと
伝えられています。

幕政のため、寄せる琵琶湖(=淡海・近江の海)の波の如く、
幾度となく粉骨砕身して来た心の内を表した和歌。
日ごとに攘夷派からの反発と憎悪が高まりつつあった日々に、
あるいは己の最期を悟っていたのかも知れません。
彦根城 19
「井伊大老歌碑」の前を過ぎ、「滋賀縣護国神社」の横を抜けると、
ついに彦根城の建造物が姿を現しました!

ここは佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)という、
二の丸への入口を固めていた防御施設。

佐和口中堀に面した二の丸の外周、
城外に向けて開かれた4つの口の一つで、
城下から彦根城内へと向かう登城道の正面に位置する
重要な場所でした。

その要地を2基の門(「高麗門」と「櫓門」)とともに
守護していたのが、一対の多聞櫓(たもんやぐら)

「多聞櫓」は郭の外周部分に伸びた長屋状の櫓で、
戦国末期にそれまで掘立柱造りの兵舎として使われていた
長屋建築を、
本格的な造りの防御施設として整備したもの。

転々と主を変え、「茶釜抱えて大爆死」の最期を遂げた
「乱世の梟雄」・松永久秀(まつなが ひさひで)が
居城とした、大和国(やまとのくに。現在の奈良県)・
多聞城(たもんじょう)に走りとなる建物が在ったことから
「多聞櫓」と称されるようになりました。

このうち現存しているのがかつて「高麗門」が構えられていた
佐和口正面から見て左側(上写真左側)の部分で、
明和4(1767)年に城内で発生した火災が類焼して
一度焼失したのを、
同6(1769)~8(1771)年に掛けて
再建したのが、現在の現存部分。

建物こそ築城当時のものではありませんが、
近世城郭の姿を留める現存建築として、
城内各所の櫓や門とともに重要文化財
指定されています。
彦根城 20
長~く伸びた多聞櫓右手部分。

こちらは二基の門とともに明治初期に解体されてしまったのを、
昭和35(1960)年に井伊直弼公の没後100年
記念する事業として、彦根市民の浄財を基に
コンクリート造によって復元したもの。

現在では文化財や各種企画展が展示・催行される展示施設・
開国記念館となって、
現代の「寄せ手」を迎え入れています。
彦根城 21
軍勢のスムーズな行軍を妨げ、
食い止めるために設けられた屈曲・枡形(ますがた)

撮影地点の辺りには高麗門(一対の「本柱」と後方の「控柱」で
切妻屋根を支える構造の、比較的簡素な造りの門)形式の
一の門が構えられ、
外周から城内主要部へと向かう敵軍の勢いを削ぐ
役割を与えられていました。
彦根城 22
「佐和口多聞櫓」の現存部分(左手)と、
復元部分である「開国記念館」(右手)。

石垣の長さに対し櫓が不自然に途切れているように見えますが、
かつてはこの部分に櫓門形式の二の門
載せられており、
一の門を突破した敵勢に対して火縄銃や弓矢による射撃
「石落とし」による投石を加える備えとなっていました。
彦根城 23
櫓門を支えていた石垣。

彦根城では築城時に用いられた「牛蒡積み」(ごぼうづみ)と
「打ち込み接ぎ(はぎ)」、
江戸後期の改修工事などで採用された「落とし積み」の
二つの形式が混在していますが、
ここ佐和口付近の石垣に見られるのは、
表面に出る石の角や面を叩き、
平たくした石材を囲いの上から落とし込むことで高く、
かつ隙間を減らして積むことが可能な
落とし積みという技法。

これは佐和口付近の建築物が再建された際、
足下を支える石垣も形式を改めて
積み直したためと思われます。
彦根城 24
折角来たので「開国記念館」も覗いて行きたい!
ところでしたが・・・
残念ながら年末休館中(12月25~31日)
彦根城 25
和風建築(旧彦根藩筆頭家老・木俣家屋敷。非公開)と雪。
素晴らしい取り合わせ♪

始まりました、「彦根城雪景編」!
次回は二の丸内に残る現存建築を観覧して、
城郭中枢部へと向かいます!
お楽しみに♪

参考:国宝 彦根城 公式ホームページ
             パンフレット
    各所解説パネル
    歴史人.com
    彦根観光ガイド
    日本を究める~日本の城郭石垣と伝統~
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。