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大津巡り2 ~堅田さんぽPart2~

以前の記事にて宣言しておりましたが、
前回記事投稿後よりユーザー名をac802tfkから、
ツイッターと統一性を持たせるべく、
詞-Nori-へと変更致しました!

旧ユーザー名を辿ってアクセスなさっていた方には
ご不便お掛け致しますが、
ブログ名は変えずにお届けしますので、
今後とも当ブログを、よろしくお願いします!

さて、前回より滋賀県の県都・大津市の北部、
「堅田湖賊」の栄華を留める歴史地区・堅田の様子を
お届け中!
堅田 19
堅田の主要な集落の一つ・、本堅田地区にて商いを行う
「御菓子司 金時堂」で、お菓子を購入した私(と友人)。
「どこか食べるのに良いところはあるかな?」と
見回してみたところ・・・
堅田 2-1
歴史地区らしい、趣のある路地を発見!
さらにその奥には・・・
堅田 2-2
日本最大の湖・琵琶湖がドーン!
堅田 2-3
・面積669.26㎢(滋賀県(約4,017㎢)のおよそ6分の一!)、
・周囲235.20km
・南北63.49km
・最大幅 22.8km
・最大水深103.58m
・平均水深約41.2m

その誕生はおよそ400万年の遥か昔。
断層・褶曲(しゅうきょく)などの地殻運動によって
現在の三重県付近(!)に出来上がった盆地の底に、
水が溜まることによって現れたのが、
古琵琶湖と呼ばれる「琵琶湖の素」。

その後古琵琶湖は消滅と復活を繰り返しながら
次第に移動し、
約43万年前に現在の琵琶湖となりました。
(つまり「お引越し」がなければ、
今頃三重県に「日本一の湖」が・・・?)

その長~い歴史からロシア・バイカル湖(淡水湖)、
タンザニア・タンガニーカ湖(淡水湖)、
中央アジア・ヨーロッパの境界付近に広がるカスピ海(塩湖)
などとともに世界20例ほどの古代湖
挙げられる自然豊かな琵琶湖には、
約1,100種もの動・植物が生息。

うち琵琶湖にしか見られない固有種も、
61種が確認されています。

また琵琶湖は毎年10万羽以上の水鳥が訪れる
重要な飛来地となっており、
平成5(1993年)にはラムサール条約
(正式名称:特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)
登録湿地として、保護・観察の対象となっています。
(意外!)

さらに注目すべきは、琵琶湖
水瓶としての重要性

天然河川の瀬田川と人工の琵琶湖疏水を通して
流れ出る水は、
下流に広がる京阪神地区約1,400万人
飲料水等として利用されており、
琵琶湖の水質・環境の維持は
大都市圏の暮らしにも直結し得る重要な課題となっています。
(滋賀県をバカにしてはいけないぞ~!)
堅田 2-4
ここ大津市堅田と対岸の守山市(もりやまし)付近は、
琵琶湖でも最も狭い地域。

その最狭部(幅1.35km)には2都市を結ぶ
琵琶湖大橋(矢印部分)が架けられ、
これを境に北側を北湖
南側を南湖と称しています。

南北で水質や水の流れ、さらに気候なども大きく変化しており、
単一の湖でここまで変容が見られるのも
珍しいのではないでしょうか?
堅田 2-5

堅田 2-8
そんな偉大な湖を眺めながら頂くのは、
「金時堂」名物・いちご大福!
堅田 2-6
湖上に輝く月の如く、
丸く形作られたお餅の中には・・・
堅田 2-7
極上の甘味が詰まった、いちご
これに果実の旨味を生かす白あん、
さらに程よい塩梅の砂糖も合わさり、
とっても美味!

「金時堂」百年の歩みが生み出した職人技、
とくと堪能致しました♪

もう少し琵琶湖の眺めを楽しんでいたいところでしたが、
またもや気まぐれな空雨粒を落とし始めたため、
移動⤵
堅田 2-9
こちらの橋の上からは・・・
堅田 2-10
「堅田湖賊」が勢威を揮っていた頃を思わせる、掘割
堅田 2-11
橋のたもとに建てられた石碑・湖賊の郷文学碑

そこに刻まれているのは、戦前の昭和16(1941)年に
テイチクレコード(現テイチクエンタテインメント)より
発売された流行歌・琵琶湖哀歌(びわこあいか)の歌詞。

地元・本堅田出身の作詞家・
奥野椰子夫(おくの やしお)が詞を創り、
東海林太郎(しょうじ たろう)と小笠原美都子(おがさわら みつこ)の
デュエットによって歌われたこの曲は、
同年4月6日に高島郡今津町(現・高島市)沖の
琵琶湖上で発生した琵琶湖遭難事故※を
悼んで作られたとされており、
哀愁漂う曲調の中に、近江の情景や湖上へ漕ぎ出す
金沢第四高等学校(現 金沢大学)漕艇部員たちの雄姿、
彼らへの哀悼の意が書き込まれています。

琵琶湖遭難事故・・・昭和16(1941)年4月6日に発生した、
             旧制第四高等学校(現:金沢大学)の漕艇(ボート)部員たち
             11名の遭難事故。
             当時、琵琶湖西側の比良山地から
             湖上に強風が吹き下りる季節風、
             いわゆる「比良おろし」が吹き荒れており、
             四高漕艇部員らを乗せたボートは
             この風に煽られて転覆したとされている。
堅田 2-12
掘割を渡った先、静かなたたずまいを見せてくれるのは、
臨済宗大徳寺派の寺院・祥瑞寺(しょうずいじ)
堅田 2-13
応永13(1406)年、
京都・大徳寺の高僧・華叟宗曇(かそう そうどん)和尚によって
開創された寺院で、山号は「太平山」。

訪れる人もまばら
(というか訪問時は私たち以外誰もいなかった)な
静閑な寺院ですが、
実はココ、「とんち話」と破天荒な生き様で名を馳せ、
「一休さん」の呼び名で知られる名僧・
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)修行の地

高い学識と厳格な禅宗の法を修めていながら、
華美で世俗的な都の寺院の在り方を嫌っていた
開山の祖・華叟和尚。

そんな和尚の高名を聞き付けてここ堅田の地を
訪れたのが、
当時22歳、若き日の「一休さん」。
(当時はまだ「一休」の道号は有しておらず、
「宗純」の戒名を名乗っていた)

自殺未遂を起こすほどに慕っていた師・
謙翁宗為(けんおうそうい)のから立ち上がって間もない
若僧宗純は華叟和尚に逢って入門を願い出ようとしますが、
和尚は寺の門を閉じてこれを拒否

しかし「もし華叟和尚にまみえることが
出来なければ、死んでもかまわぬ」

固く入門を誓った宗純は、
夜は漁師が湖岸に繋いだ舟の上で眠り、
朝は必ず庵の門前に坐って、
華叟和尚との邂逅の時を待ちました。

そんな日々を送ること4・5日。
ついに法事へ出掛ける華叟和尚と
逢うことが叶いましたが、
和尚は弟子たちに宗純に対して
水を掛け
棒で叩いて追い出すように
命じ、
そのまま出掛けてしまいました。
(みすぼらしい恰好で居付く宗純を疎ましく思われたか、
もしくは弟子をそれ以上抱えられない
事情があったのかも知れません)

それでも夕刻に和尚が戻ってくるまで
門前に止まり続けた、宗純。
その姿に感じるものがあったか、
ついに入門を許されることとなりました。

以後正長元(1428)年に師である華叟和尚が
亡くなり諸国行脚に出るまでの13年間、
ここ祥瑞寺にて修行の日々を送りました。
堅田 2-14
そんな「一休さん修行の寺」である、祥瑞寺。

門前には「とんち話」を代表するエピソードの一つである、
このはし渡るなの逸話を彷彿とさせる
小さな石橋が架けられています。
(あるいはこの橋がモデル・・・?)
堅田 2-15
禅宗様の庭園が広がる境内。

出入り自由ながら観光向けの公開は無く、
拝観は要予約とのことで庭園を歩くに留まりましたが、
境内に流れる静閑ながらも引き締まった空気は、
質素にして厳格な求道を貫いた開山の祖・
華叟宗曇和尚以来の「修法の場」としての形態を守った
「道場」としての態を表したもの。
堅田 2-16.5
過度な「華」を排しながらも、
趣と風情を感じさせる庭園

江戸時代の元禄3(1690)年には
「俳聖」・松尾芭蕉(まつお ばしょう)も
この祥瑞寺を訪れており、
その際詠んだ句が刻まれた句碑も残されています。
堅田 2-17
続いてはコチラ、伊豆神社へ。

堅田地域の総鎮守として祀られている
由緒正しい社で、
草創は平安時代の寛平4(892)年。

第13世天台座主※・尊意(そんい)僧正が
諸国行脚の途上に堅田を訪れた際、
この地の風景が伊豆と似ていたことから、
三嶋大社の祭神・大山祇命(オオヤマツミノミコト)を
勧請したのが始まりとされています。

※天台座主・・・読みは「てんだいざす」。
          天台宗の総本山・比叡山延暦寺を取りまとめる
          住職であるとともに
          天台宗に属する寺院全てを総監した、最高位の役職。

また天暦3(947)年には堅田が
京都・加茂御祖社下鴨神社荘園
となった縁から、
祭神の一柱である玉依姫命(たまよりひめのみこと)を勧請。

堅田大宮と称される、
堅田の総鎮守となりました。

そんな伊豆神社が大きな役割を果たしたのが、
ここ堅田の町を語る上で欠かせない、
堅田湖賊との関わり。

中世以降琵琶湖の水運を生かして
「宮座」と呼ばれる自治組織が発達し、
政治的・経済的に大きな影響力を行使するようになったのは
前回記事でも述べた通りですが、
その宮座が結成された始まりの場所が、
ここ伊豆神社。

琵琶湖がもたらす恵みと「琵琶湖最狭部」という
地理的優位を生かし、
時の権力者たちと渡り合いながら
莫大な富と自治都市・堅田を築いて行った、
「湖賊(宮座)」の人々。

彼らにとって、この伊豆神社は心の拠り所
あったのでしょう。
堅田 2-18
伊豆神社拝殿。

奥に本殿への入口となる「本殿門」、
さらにその向こうに主祭神・大山祇命を祀る
本殿が控えています。
堅田 2-19
境内に奉祀された、摂末社。
左が学問の神、「天神さま」・
菅原道真(すがわらの みちざね)公を祀った天満宮
右は玉依姫命を祀る樹下神社(じゅかじんじゃ)

「堅田大宮」と呼ばれた頃には大山祇命と並ぶ
主祭神として崇められていた玉依姫ですが、
戦国時代真っ只中の永禄12(1569)年、
兵火によって社殿が焼失

天正年間(1573~1593年)に社殿は再建されましたが、
大山祇命一柱を祭神とした
伊豆神社として再興され、
かつての主祭神である玉依姫は
摂末社の主としてひっそりと祀られています。
(戦乱によって加茂御祖社(下鴨神社)の影響力が
低下した結果(もしくはそれ以前から)、
堅田地域がその影響下から脱したのかも知れません)
堅田 2-20
伊豆神社境内で目を引くのが、
こちらの幸福を呼ぶ石
堅田 2-21
昔から境内に祀られている霊石で、
この石を擦ることで幸福になれる
また恋しい人・逢いたい人に
その想いが叶う
と言われているそう。
(根拠はなんだ・・・)

私も取り敢えず願いを込めて、擦っておく。
堅田 2-23
そしてこちらが、伊豆神社の本殿
(アップにし過ぎたかな・・・)

一間社流造(いっけんしゃながれづくり)という形式で
建てられた、
間口一間一尺(約210.5cm)、奥行一間(182cm)の社殿。

この中に祭神・大山祇命を祀る御神体が
(おそらく)安置されており、
参詣者に「農林・鉱業・海運・漁業・酒造」等の
御神徳を授けてくださいます。
(特に海運や漁業といった御神徳は、
琵琶湖と密接な関りを持つ「湖賊」の人々にとり、
とても重要視されるものだったのではないでしょうか?)

この歴史深き地と縁を結べたことに感謝して、
懇ろにごあいさつ。
堅田 2-24
伊豆神社を出た後は、これまた趣ある通りを抜けて、
堅田を代表する「あのスポット」を目指します!

参考:滋賀県庁 公式ホームページ
    堅田観光協会-一休さんのくにプロジェクト
    滋賀県神社庁
    滋賀県:歴史・観光・見所
    コトバンク
    YAHOO!JAPAN 災害カレンダー
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。