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大津巡り7 ~光秀公の菩提寺・西教寺(その1)~

昨年1月19日から去る2月7日まで、
新型コロナウイルスの感染拡大の影響による
撮影中止やそれに伴う放送休止、
沢〇エ〇カさんのスキャンダルによる
配役変更・撮り直しといった非常事態を乗り越え、
一年以上に亘って放送された大河ドラマ・
麒麟がくる

戦国時代の、否、日本史を描くうえで
「ド定番中のド定番」と言い得る事件・
本能寺の変の当事者の一人で
「謀反人」、明智光秀(あけち みつひで)を主人公として
全44回が放送され、
平成28(2016)年放送の「真田丸」以来の
好評を以て、完結を迎えた同作。

今回は「石垣の町」・坂本の外れに寺門を構える、
麒麟がくるの「主人公」・明智光秀公
「ゆかりの寺」をご紹介します。
琵琶湖テラス 24
びわ湖テラスびわ湖バレイスキー場)」の最寄り駅・
志賀駅から湖西線に乗り込んだ私。

「天台宗の総本山」・比叡山延暦寺や坂本の町への
玄関口となる比叡山坂本駅で下車し、
そこからバスに乗り替えて向かったのは・・・
西教寺 1
西教寺(さいきょうじ)

天台宗の一派・「天台真盛宗」の総本山で、
山号は戒光山(かいこうざん)
正式名称は「天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺」という、
由緒と格式を兼ね備えたお寺。
(フルネームで呼ぶ人は居るのだろうか・・・)

飛鳥時代・推古天皇の御代、618年の開創と伝えられ、
かの聖徳太子(厩戸王)
仏法の師である慧慈(えじ)・慧聰(えそう)のために開いたと
されています。

天智天皇8(669)年には「西教寺」の寺号を賜り、
仏教寺院として栄えて行くかと思われましたが、
その後荒廃。

これを18代天台座主
(てんだいざす。比叡山延暦寺の住職にして、天台宗最高位の僧)・
慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)が
復興し、念仏の道場と定めました。

堅田の満月寺浮御堂を建てた
恵心僧都(源信)(えしんそうず)も
ここ西教寺に入寺し、修行に励んだと記録されています。

文明18(1486)年には比叡山にて修行を積んだ
真盛(しんせい)上人が入寺。
堂塔と教法を再興するとともに、
西教寺を不断念仏※の根本道場として
定められ、
今日に至る修法の場としての地位を確立することとなりました。

※不断念仏・・・伝教大師最澄(でんぎょうだいし さいちょう)の弟子である
          慈覚大師円仁 (じかくだいし えんにん)が日本に伝えたとされる修行。
          90日という期間を決め、僧侶が順番に交代しつつ
          阿弥陀仏の周りを念仏しながら歩く、というもの。

明治16(1941)年には明治政府によって
別派独立が許され、
戦中の「天台三派合同」を経て、
天台宗三派の一つ・天台真盛宗の総本山として、
比叡山の足下、坂本の地に鎮座しています。

拝観情報
拝観料
大人 500円 中学生 300円
小学生 200円 身障者 200円
団体割引 30名以上から受付、一人450円

営業時間
9:00~16:30

お問い合わせ
宗教法人 西教寺
TEL.077-578-0013
FAX.077-578-3418

アクセス
自家用車
湖西道路下阪本ICから約10分
駐車場は普通車50台収容

公共交通機関
JR湖西線 比叡山坂本駅下車、
江若交通バス約7分(西教寺バス停下車スグ)、
又は徒歩30分
京阪電車 坂本比叡山口駅下車、
江若交通バス約4分(西教寺バス停下車)、又は徒歩25分
西教寺 2
この寺と明智光秀公の関りを示す遺物の一つが、
寺の正面玄関となる、この総門

元亀2(1571)年に光秀公の主君・織田信長(おだ のぶなが)が
比叡山に対して焼き討ちという挙に及んだ折、
天台宗に名を連ねる寺院が並ぶ坂本の町や、
ここ西教寺も織田軍による攻撃を受け、
由緒ある堂塔伽藍は焼失してしまいます。

この存亡の危機に手を差し伸べたのが、
坂本城の城主に任じられた、明智光秀公
彼は自ら西教寺の檀徒となるとともに、
坂本の町や西教寺の復興に尽力。

大本坊の再建(後に改築)や鐘楼の鐘、
経筒の寄進等、
寺の立て直しに力を注ぎました。

この総門は天正年間(1573~1593。
光秀公は1582年に亡くなっているので、それ以前)に
居城である坂本城から移築されたものと
伝えられており、高さ6.4m、幅5.6m。

昭和59(1984)年には老朽化から
修理が行われましたが、
形はそのままとして復元が施されています。
(移築が本当ならば、坂本城唯一の遺構ということに・・・)
西教寺 3
天台宗を代表する寺院の一つとして、
仏教界に重きを成していた、西教寺。

そんな名刹を訪れた人物の一人が、
江戸時代に京都・大徳寺の住持を務め、
書・詩文・茶道に通じた文化人
(さらに「沢庵漬け」の考案者である、とも)、
沢庵宗彭(たくあん そうほう)

徳川将軍家と豊臣家の対立が日増しに高まりつつあった
慶長19(1614)年5月、
近江巡歴に赴いた沢庵禅師は、
石山寺、三井寺(園城寺)に参詣した後、
船で琵琶湖を渡って坂本からここ西教寺を訪れました。

総門横に置かれた石碑は、沢庵禅師が近江巡歴の際に記した
紀行文・石山行記の一節を書き出したもので、
静かに不断の念仏が唱えられている様、
境内の自然の静けさに感銘を受けている心情が
綴られています。
西教寺 4
総門を挟んで反対側に立て掛けられた看板には、
かわいらしいお猿さんたちのイラストが描かれています。

これは手白猿(てじろのましら)と言って、
西教寺の「中興の祖」である真盛上人を法難から守った、
身代わりの護り猿(まもりざる)の
逸話が由来となっています。

室町時代の明応2(1493)年、
坂本で徳政一揆※が起こった際、
首謀者が真盛上人であると誤解した山門(延暦寺)の
僧兵たちが、西教寺に攻め入りました。

しかし境内にはただ一人の人影も無く、
聞こえるのは本堂から響く鉦の音のみ。

そこで僧兵たちが本堂へと駆け込んでみれば、
そこに居たのは白い手をした一匹の

比叡山山麓に鎮座する日吉大社の神使である
猿までもが上人の教えを受けて念仏を唱え
自ら身代わりとなっていることに
感じ入った僧兵たちは、
それ以上の荒事を控えて立ち去った、というお話。

以来この「手白猿」は護猿として、
災難除け・商売繁昌の守りとして
珍重されているそう。

ちなみに真盛上人を法難から救った一匹ではなく
五匹いるのは、
客ござる(五猿)という、
商売繁昌のための験かつぎ(もしくは語呂合わせ)
なのだとか。

※徳政一揆・・・室町時代、高額の債務を課す金融業者に対し、
          質に取られた土地や物品の返還、
          貸借関係の破棄を意味する「徳政」を求め、
          馬借(ばしゃく。運送業者)や問屋(といや。卸売業者)、
          農民などが中心となって起こった土一揆。
          金融業者を襲って、借用証文の破棄や質物の強奪等に及ぶ
          「私徳政」の他、
          幕府に徳政令(債権者・金融業者に債権放棄を命じた法令)の
          発布を要求することもあった。
西教寺 5
長い前置きはここまでにして、
境内へと入って参りましょう!

総門を入って現れるのは、
境内中央を真っ直ぐに突っ切る、参道
(なんだか安土城の「大手道」を思い出す)

緩やかに上りながら伸びる参道は、
秋には真っ赤な紅葉に包まれ、
西教寺の名物ともなっているそう。
(見てみたい!)
西教寺 6
参道の両側には、僧侶が生活を送る房舎・
僧房(そうぼう)が並びます。

その数の多さが、西教寺の規模の大きさ、
修行場としての格の高さを示すよう。
西教寺 7
斜面に合わせて、境内各所に築かれた石垣。
坂本の町並み同様、
安土城築城にも関わった地元近江の
石工集団・穴太衆(あのうしゅう)による築造でしょうか?
西教寺 8
参道の突き当りに立ちはだかる、勅使門

名前からすると、朝廷からの使者を迎え入れるための
特別な通り道なのでしょう。

その用途故か、普段は通行に使われることはなく、
このように固く閉ざされているようです。
西教寺 9
勅使門から右に折れ、緩やかなスロープから「大本坊」へと至る、
参拝ルート。

その手前に現れるこちらの坂道の名は・・・
西教寺 10
槻坂(けやきざか)
西教寺 10.5
お堂見学の前に、ちょっと寄り道。

本堂(のちほどご紹介します!)の向かいに立っている
鐘楼は、江戸時代の天保2(1831)年、
中嶌治郎左衛門春道(なかじまorなかしま じろうざえもん はるみち)なる
人物を棟梁として建立されたもの。

桁行(奥行き)三間(約5.4メートル)、
梁間(左右)二間(約3.6メートル)。
入母屋造、本瓦葺きで、
切石積みの基壇の上に鎮座し、
袴腰(はかまごし。鐘楼・鼓楼の下層に設けられた、
末広がりになった部分)を備えています。

大津市指定文化財。
西教寺 10.75
細やかな装飾が施された鐘楼は、総欅造(そうけやきづくり)

上部には細やかな彫刻や装飾が施され、
作事を担当した者たちの腕の良さを窺わせます。
西教寺 11
ではでは、お堂見学と参りましょう!
まず登場するのが、大本坊

本堂を始めとする諸堂への入口となり、
寺務所も兼ねた重要な建物。

現在の大本坊は昭和33(1958)年に改築されたもので、
東西33.42メートル、南北25.43メートル、
面積257.5坪。
昭和の木造建築としては、
滋賀県内最大

改築前の大本坊は、元亀2(1571)年の
織田信長による比叡山焼き討ち後に
光秀公によって西教寺が再興された際、
坂本城の陣屋を寄進
する形で再建されたそう。

老朽化等お寺側の事情もあったのでしょうが、
光秀公寄進の建物も、見てみたかった!
(建材の一部は今も残されているそうですが)
西教寺 12
とはいえ再建に当たって、
それまでの意匠や規模は引き継いだのでしょう。

建物の造りはまるで城郭の御殿のよう。
玄関の上には、鬼瓦を戴いた立派な入母屋屋根が
載せられています。
西教寺 13
各堂内は撮影禁止とされているのですが、
上がってスグのところにあるこの部屋は、
このように記念撮影用のパネルが置かれており、
撮影可能となっています。

描かれているのは、
ここ西教寺で菩提を弔われている、
明智光秀公と煕子夫人。
西教寺 14
てなわけで、室内をちょっとパシャリ。
西教寺 15
障子には西教寺の紋章である、
三つ巴の雀(・・・でしょうか?)が描かれています。

隣の部屋には、光秀公と煕子(ひろこ)夫人の
位牌が安置されています。
お二人の安寧を願い、懇ろに拝む。
西教寺 16
本坊庭園は、
寺院のそれに相応しく、落ち着きと趣のある造り。

江戸時代の作庭で、
三尊石組(ダンソ・・・さんそんいしぐみ。
仏教の三尊仏のように、中央に大きな中尊石、
左右に脇侍石(きょうじせき)を据えて構成される作庭方法)
を用い、枯山水(かれさんすい)の様式に則って
造られています。
西教寺 17
お次は渡り廊下を通って、本堂へ!

西教寺 18
(外から撮影)

こちらがご本尊が安置されている、
西教寺本堂

一宗派の総本山に相応しい豪壮な造りの本堂は、
桁行7間(12.67メートル)、梁間6間(10.86メートル)、
総欅(けやき)入母屋造(いりもやづくり)で、
屋根は本瓦葺。

再建にあたって、紀州徳川家より
用材が寄進されたそうで、
修法の場としての西教寺の格の高さ、
高名さを窺い知ることが出来ます。
西教寺 19
向拝(こうはい。社殿や仏堂で、
屋根を正面の階段上に張り出した部分)が大きく突き出された、
西教寺本堂。
その大きさは三間(5.43m)にも及び、
太い柱ともども勇壮な印象を与える。

現在の建物は比叡山焼き討ち後に再建されたお堂を、
元文4(1739)年に改築再建したもので、
上棟後寛延2(1749)年に屋根瓦を葺き、
安永4(1775)年に天井を張るという、
長期に及ぶ工事の末に竣工を見ました。
(竣工年が明記されていないあたり、
記録には残されていないのかも知れません)

堂内(撮影禁止)は正面に本尊を安置する
須弥壇(しゅみだん)を設け、
その周囲に極彩色に飾られた四天柱(してんはしら)を配置。

四天柱の内側には十六羅漢を彫り込んだ欄間を
嵌め込み、
須弥壇ともどもの地肌を生かした
素木造り(しらきづくり)としています。

須弥壇の奥には金色に輝く本尊・
阿弥陀如来像(重要文化財)が御座し、
平安の世から変わらぬ慈愛を人々に注ぎ続けています。

また堂内右手奥には鐘楼が設けられているのですが、
その中に収められている鐘は、
光秀公より寄進された
坂本城の陣鐘
(じんしょう。合戦の際、軍勢の進退を下知するために使われた鐘)
なのだそう。(残念ながら非公開
西教寺 20
「名刹の趣」を楽しみながら、境内探索は続きます♪

参考:西教寺 境内解説パネル
         パンフレット
    総持寺 公式ホームページ
   ヒストリスト 山川出版社
   枯山水めぐり
   Weblio辞典
   コトバンク
   Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。