大津巡り8(終) ~光秀公の菩提寺・西教寺(その2)~
- 2021/05/17
- 00:52
先月半ばよりG・Wを駆使しながら
書き進めて来た「大津巡り」編も、今回で一区切り
「番外編」として今回宿泊した
「びわ湖大津プリンスホテル」の様子を
2度に分けてお届けする予定ですが、
ひとまずナンバリングタイトルとしては、最終回
前回に続いて「明智光秀公の菩提寺」・
西教寺(さいきょうじ)の様子と、
帰り際に買い込んだ「お土産たち」をご紹介します!
仏堂伽藍の中枢となる本堂で、
ご本尊・阿弥陀如来さまと対面を果たした私。
千古の御仏との対面で心洗われる思いを味わい、
続いて向かうのは・・・

西教寺客殿(重要文化財)
本堂と書院の間に在る建物で、
元は豊臣秀吉が京都・伏見の地に隠居城として築いた城・
伏見城から移築されたもの。
豊臣政権下で奉行を務め、
石田三成(いしだ みつなり)との交友、
関ヶ原での活躍で知られる武将・大谷吉継(おおたに よしつぐ)の母、
同じく奉行格・山中長俊(やまなか ながとし)の夫人より
寄進されました。
「豊臣の城」という響きから抱くイメージとは異なる
質素な装いながらも、桃山御殿とも称される殿舎は、
桁行十二間(21.72メートル)、梁間7間(12.67メートル)。
屋根はこけら葺きで二重構造とした重屋根、
南面を入母屋造、北面を切妻屋根として、
外観に変化を付けています。
内部には二列に部屋が配置され、
それぞれ「鶴の間」、「猿猴(えんこう=猿のこと)の間」、
「賢人の間」、「花鳥の間」、
「上座の間」、「茶の間」の名で呼ばれ、
「茶の間」を除く五部屋の襖や壁、
腰障子には、
安土桃山時代に狩野派の絵師たちを率い、
日本美術史上に名を馳せた「美の巨人」・
狩野永徳(かのう えいとく)以下、
狩野派の絵師たちが描いた
障壁画が残されています。
作成から四百数十年を経て色あせてはいるものの、
人物や動物の仕草、表情を細やかに写し出す
精緻な筆遣い、
木や草花とそれら「登場人物」を巧みに絡める配置の妙が、
当時日本画壇に君臨した
「第一人者」の実力を窺わせます。
(堂内撮影禁止のためファインダーに収められないこと、
拝観時間終了が近づいていたことから
じっくり観察出来なかったのが、残念)
賢人の間の奥には、
京・法勝寺(ほっしょうじ。院政期に建てられた、「六勝寺」の一つ。
応仁の乱以降衰退し、廃寺に)より伝来した
秘仏・薬師如来坐像(重要文化財、非公開)が
安置されています。

客殿を見て回った後は、客殿庭園にご注目。
江戸時代初期、備中松山城や近江国小室藩の主を務めた
大名でありながら、
茶の湯、作庭、建築、書と多才を発揮した
「文化大名」・小堀遠州(こぼり えんしゅう)こと
小堀政一(こぼり まさかず)によって築かれた庭園。
いわゆる遠州流に則って構成された庭園は、
裏山の急傾斜を巧みに利用し、
丸刈や角刈といった小刈込を駆使。
中央には琵琶の姿を取り入れた
ひょうたん型の池泉(琵琶湖をイメージ?)を配し、
山際と池泉との間に小丘を築いた二つの石組み
(比叡山と比良山系をイメージ?)が置かれています。

客殿と書院の和風建築、緑萌え出す裏山に囲まれ、
落ち着いた佇まいを見せる、客殿庭園。
こうして眺めているだけで、時が過ぎ去ってしまいそう♪

続いては、「客殿」に隣接する、書院(登録有形文化財)へ。
西教寺書院は、大正5(1916)年の築。
大正6(1917)年に催行された法要、
不断(常)念仏十五万大法会に際し、
客殿北側に対面して建てられました。
桁行13間(23.53メートル)、梁間9間(16.29メートル)の
入母屋造、屋根は瓦葺で、
南側4室の表書院と北側6室の裏書院からなっています。
シンプルな造作ながらも伝統的な書院造を踏襲しており、
昭和の改築ながらも
室町時代末の建築様式を受け継いだ大書院、
桃山期よりの現存建築である客殿と並んでも、
違和感のない造りとなっています。
この書院で注目すべき場所の一つが、
併設された明智光秀公資料室
内部はもちろん撮影禁止となっており
展示資料をここで掲載することは叶いませんが、
「左馬助(さまのすけ)」の通り名で知られる
明智家家臣・明智秀満(あけち ひでみつ)が
主君・光秀が敗死へと至った山崎の戦い後、
坂本城への退却の際に追っ手から逃れるために
馬で琵琶湖を渡ったという有名な逸話・
左馬助の湖水渡りで
騎乗に用いたとされる馬の鞍、
合戦の後に光秀公が戦いで戦死した家臣の供養のため、
西教寺に米を寄進した際の書状などが
展示されており、見応え十分!
この書状では名字も持たない中間(ちゅうげん)と呼ばれる
最下級の士卒に至るまで平等に
供養米が贈られたことが明記されており、光秀公が
身分の隔てなく部下たちの死を悼むような
人物であったことを示しています。

書院の前面に築かれた書院庭園は、
明治初期の作庭。
作庭に当たったのは、各地の城の石垣造りや
坂本の町の造成に関わった石工集団・
穴太衆(あのうしゅう)
彼らの手掛けた庭園は穴太式と称され、
坂本一帯で多く見られるものだそう。
客殿の切妻屋根の勾配を背景として取り込んだ
造形美が、見事。

この西教寺で訪れるべき場所の一つが、
本堂前の広場の一角。
ここに在るのが・・・

明智光秀一族の墓
天正10(1582)年、山崎の戦いに敗れ、
土民の手に掛かり無念の死を遂げた、光秀公。
堂宇の再建や檀徒としての帰依を受ける等、
光秀公と密な関りを持っていた西教寺では、
「謀反人」のそしりを受けたであろう故人の菩提を弔い、
境内に墓を建立。
これに坂本城や丹波亀山城で命を絶った
光秀公の家族、並びに一族の方々が合葬され、
安らかな眠りに就いています。

「明智光秀一族の墓」の隣にズラリと並ぶのは、
阿弥陀如来二十五菩薩像
仏教でも最も主要な仏の一人・阿弥陀如来(あみだにょらい)が
二十五菩薩を従え、
遥か西方に在る浄土の世界から楽を奏でながら
来迎(らいごう。臨終の際、仏陀や菩薩が浄土の世界から迎えに来ること)して、
念仏に帰依する者を極楽浄土へ導くという、
浄土思想に基づいて建立されたもの。
前列中央、他より高く造られているのが
菩薩たちを率いる阿弥陀如来
その周りを固める菩薩たちはそれぞれ鼓、琵琶、
笛、笙などの楽器、
幡(ばん。仏の威徳を示すために掲げられる仏具)や
蓮華の花などを持ち、
浄土より来迎した様を表しています。
元来の二十五菩薩石仏像は、天正12(1584)年に
近江国栗太郡(くりたぐん。現在の草津市・栗東市、
大津市瀬田川以東、守山市の一部に当たる)の住人、
富田民部進によって
娘の極楽往生を願って建立されましたが、
四百年余の間に風化・破損が進んだため、
書院と客殿を結ぶ廊下・「欣浄廊」へ移設
代わりに平成16(2008)年に有志により建てられた
新二十五菩薩像が、
西教寺の檀徒や、光秀公とその一族を、
西方浄土へと導いています。

光秀公と明智一族の墓から「二十五菩薩像」を挟んで反対側、
立派な石塔の傍らにひっそりと佇む(↓下部)のが、
光秀公の妻・熙子夫人の墓
明智家と関係深い妻木氏(つまきし)より嫁入りし、
苦楽を共にした熙子夫人。
本能寺の変の6年前、
天正4(1576)年に死去したとされており、
彼女の葬儀には夫・光秀公も参列したそうな。
(当時、妻の葬儀に夫は参列しない習わしでした。
二人の絆、愛情の深さを示す、素敵なエピソード)
墓が建てられた時期の違いから、
隣同士・・・とはならなかったようですが、
ここ西教寺で仲良く眠りに就いています。

熙子夫人の墓の近くに建てられたこの石塔は、
明智家臣・妻木一族の供養塔
明智氏と同じく美濃国(岐阜県南部)・土岐氏の
庶流に当たる一族で、
光秀公立身の後は家臣として仕え、
また光秀公と熙子夫人の婚儀によって
一門衆とも言える間柄でした。
山崎の戦いでは明智「左馬助」秀満とともに
光秀公の居城・坂本城を守っていましたが、
合戦後に攻め寄せた羽柴軍と戦い、
討死や自害を遂げました。
美濃・妻木城主を務めていた妻木広忠
(つまき ひろただ。熙子夫人の父との説あり)は、
坂本城の落城後、
明智一族に殉じた人々を西教寺に埋葬・供養した後、
熙子夫人の墓前で自刃したと伝えられています。
(壮絶だ・・・)
主君で親類である光秀公に天運を預け、
ともに散って行った妻木氏一族・・・
ここ西教寺には、凄絶苛烈を極めた戦国の世を、
懸命に生き抜いた人々の証が残されています。
(なお一部の人々は生き延び、
幕府の旗本として家名を後世に残しています)

「閉門」時間も迫り、参道を戻って帰路へ!
就く前に・・・

僧坊の一つ、禅明坊に寄り道。
「大本坊」にも劣らぬ立派な構え、
玄関上の入母屋屋根が見事な禅明坊は、
大河ドラマ・麒麟がくる放送終了後の3月31日まで
大津市各所で展開された企画展・
びわ湖大津・光秀大博覧会の
会場の一つ・禅明坊光秀館として
装いを改められ、
大河ドラマの衣装や小道具、
光秀公の具足や織田信長の南蛮兜、
江戸時代前期・貞享年間(1684~88)にまとめられた
近江国の地誌で、「光秀公近江出身説」が記された書物・
淡海温故録(おうみおんころく)などの
資料等が展示・公開されていました。
残念ながら時間の都合で拝観叶わなかったものの・・・

明智氏の家紋・桔梗紋(ききょうもん)と
旗印に用いられた水色が鮮やかな、
おみやげ処に入店!

「光秀公グッズ」や地元の土産品が並ぶ店内で
今回の土産物を買い込み・・・

京阪石山坂本線の起点・
坂本比叡山口駅へ!

ここから緑色の京阪電車に乗り込み、
JRに乗り継いで、居住地・竜王町へと戻ります!
飛鳥以来の伝統と風格、
戦国乱世を懸命に生きようとした人々の
足跡残る、西教寺。
琵琶湖一望の絶景と、
純白の雪景色が楽しめた、琵琶湖テラス。
湖上の堂宇・浮御堂や、
「堅田湖賊」の栄華と権勢を伝える
堅田の町並み・・・
境を接する「千年京・京都」や「商都・大阪」と比べると
魅力に乏しいように語られることが多い(失礼)、
滋賀県。
しかし「日本一の湖」・琵琶湖の情景を筆頭に、
古より開けた地ゆえの歴史や伝統、
今もなお継承され、創出される数多の魅力が溢れた
素敵な土地であると、
居住した今では、否、それ以前より感じます。
コロナ禍が収まった暁には、
皆さんも是非、湖国・滋賀県へ足をお運びください!

ここからは、禅明坊光秀館・おみやげ処にて購入した、
「大津みやげ」たちをご紹介!

まずはコチラ、
明智光秀 ふんわりはんかち
表面に明智家の家紋・「桔梗紋」をあしらい、
周囲を可愛らしい装飾で覆われたハンカチ。
明智軍の旗印にインスパイアされた、
淡い水色もgood!
その素材にはマイクロファイバーが
用いられ、肌ざわり良好!
汗や水の吸収性も高く、お肌をケアする
ピーリングタオルとしての機能も
併せ持っているそう。
(実はまだ一度も使っていません 笑)

お次はコチラ、麒麟光秀 三笠
京都土産の定番・八ツ橋の製造元の一つ、
井筒八ツ橋本舗が送り出す、
コラボレート商品。

中身は「桔梗紋」があしらわれた、どら焼き
(関西の一部地域では、どら焼きの形が
奈良県奈良市の若草山(別名「三笠山」)に
似ていることから、
どら焼きの事を「三笠」と呼ぶそうな)
ふんわりと焼き上げられた表皮の中には・・・

ほんのり甘い小豆あんに、
京銘菓の生八ツ橋が!
あんの風味に京都らしい上品な甘さと
モチモチ食感がプラスされ、
一般的などら焼き(三笠)とは一味違う味覚が楽しめます♪

三品目は、地元滋賀県・琵琶湖の「湖(うみ)の幸」を
フル活用したグルメ、
琵琶湖三珍

中身は琵琶湖で獲れた小鮎、ゴリ、モロコの
小魚三種を、砂糖、醤油、水飴、山椒などで
煮込んだ、佃煮

一尾ずつは小ぶりながら、
砂糖や水飴で甘味を、醤油で風味と旨味を付け、
さらに山椒で締まった辛味を付け加えた一品は、
パリッとした食感と濃厚な風味、
小魚本来の旨味と多様な調味料が醸し出す
多彩な味わいが、ご飯にもお酒にもマッチする、逸品!
滞在先で名所や景観を味わい、
帰った後に持ち帰った名品やグルメを味わう・・・
これぞ旅の醍醐味かな♪
参考:西教寺 パンフレット
文化庁 国指定文化財等データベース
にっぽんの逸品を訪ねて | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
LINEトラベルjp
滋賀県立琵琶湖文化館 公式ホームページ
Wikipedia
Weblio辞書
書き進めて来た「大津巡り」編も、今回で一区切り
「番外編」として今回宿泊した
「びわ湖大津プリンスホテル」の様子を
2度に分けてお届けする予定ですが、
ひとまずナンバリングタイトルとしては、最終回
前回に続いて「明智光秀公の菩提寺」・
西教寺(さいきょうじ)の様子と、
帰り際に買い込んだ「お土産たち」をご紹介します!
仏堂伽藍の中枢となる本堂で、
ご本尊・阿弥陀如来さまと対面を果たした私。
千古の御仏との対面で心洗われる思いを味わい、
続いて向かうのは・・・

西教寺客殿(重要文化財)
本堂と書院の間に在る建物で、
元は豊臣秀吉が京都・伏見の地に隠居城として築いた城・
伏見城から移築されたもの。
豊臣政権下で奉行を務め、
石田三成(いしだ みつなり)との交友、
関ヶ原での活躍で知られる武将・大谷吉継(おおたに よしつぐ)の母、
同じく奉行格・山中長俊(やまなか ながとし)の夫人より
寄進されました。
「豊臣の城」という響きから抱くイメージとは異なる
質素な装いながらも、桃山御殿とも称される殿舎は、
桁行十二間(21.72メートル)、梁間7間(12.67メートル)。
屋根はこけら葺きで二重構造とした重屋根、
南面を入母屋造、北面を切妻屋根として、
外観に変化を付けています。
内部には二列に部屋が配置され、
それぞれ「鶴の間」、「猿猴(えんこう=猿のこと)の間」、
「賢人の間」、「花鳥の間」、
「上座の間」、「茶の間」の名で呼ばれ、
「茶の間」を除く五部屋の襖や壁、
腰障子には、
安土桃山時代に狩野派の絵師たちを率い、
日本美術史上に名を馳せた「美の巨人」・
狩野永徳(かのう えいとく)以下、
狩野派の絵師たちが描いた
障壁画が残されています。
作成から四百数十年を経て色あせてはいるものの、
人物や動物の仕草、表情を細やかに写し出す
精緻な筆遣い、
木や草花とそれら「登場人物」を巧みに絡める配置の妙が、
当時日本画壇に君臨した
「第一人者」の実力を窺わせます。
(堂内撮影禁止のためファインダーに収められないこと、
拝観時間終了が近づいていたことから
じっくり観察出来なかったのが、残念)
賢人の間の奥には、
京・法勝寺(ほっしょうじ。院政期に建てられた、「六勝寺」の一つ。
応仁の乱以降衰退し、廃寺に)より伝来した
秘仏・薬師如来坐像(重要文化財、非公開)が
安置されています。

客殿を見て回った後は、客殿庭園にご注目。
江戸時代初期、備中松山城や近江国小室藩の主を務めた
大名でありながら、
茶の湯、作庭、建築、書と多才を発揮した
「文化大名」・小堀遠州(こぼり えんしゅう)こと
小堀政一(こぼり まさかず)によって築かれた庭園。
いわゆる遠州流に則って構成された庭園は、
裏山の急傾斜を巧みに利用し、
丸刈や角刈といった小刈込を駆使。
中央には琵琶の姿を取り入れた
ひょうたん型の池泉(琵琶湖をイメージ?)を配し、
山際と池泉との間に小丘を築いた二つの石組み
(比叡山と比良山系をイメージ?)が置かれています。

客殿と書院の和風建築、緑萌え出す裏山に囲まれ、
落ち着いた佇まいを見せる、客殿庭園。
こうして眺めているだけで、時が過ぎ去ってしまいそう♪

続いては、「客殿」に隣接する、書院(登録有形文化財)へ。
西教寺書院は、大正5(1916)年の築。
大正6(1917)年に催行された法要、
不断(常)念仏十五万大法会に際し、
客殿北側に対面して建てられました。
桁行13間(23.53メートル)、梁間9間(16.29メートル)の
入母屋造、屋根は瓦葺で、
南側4室の表書院と北側6室の裏書院からなっています。
シンプルな造作ながらも伝統的な書院造を踏襲しており、
昭和の改築ながらも
室町時代末の建築様式を受け継いだ大書院、
桃山期よりの現存建築である客殿と並んでも、
違和感のない造りとなっています。
この書院で注目すべき場所の一つが、
併設された明智光秀公資料室
内部はもちろん撮影禁止となっており
展示資料をここで掲載することは叶いませんが、
「左馬助(さまのすけ)」の通り名で知られる
明智家家臣・明智秀満(あけち ひでみつ)が
主君・光秀が敗死へと至った山崎の戦い後、
坂本城への退却の際に追っ手から逃れるために
馬で琵琶湖を渡ったという有名な逸話・
左馬助の湖水渡りで
騎乗に用いたとされる馬の鞍、
合戦の後に光秀公が戦いで戦死した家臣の供養のため、
西教寺に米を寄進した際の書状などが
展示されており、見応え十分!
この書状では名字も持たない中間(ちゅうげん)と呼ばれる
最下級の士卒に至るまで平等に
供養米が贈られたことが明記されており、光秀公が
身分の隔てなく部下たちの死を悼むような
人物であったことを示しています。

書院の前面に築かれた書院庭園は、
明治初期の作庭。
作庭に当たったのは、各地の城の石垣造りや
坂本の町の造成に関わった石工集団・
穴太衆(あのうしゅう)
彼らの手掛けた庭園は穴太式と称され、
坂本一帯で多く見られるものだそう。
客殿の切妻屋根の勾配を背景として取り込んだ
造形美が、見事。

この西教寺で訪れるべき場所の一つが、
本堂前の広場の一角。
ここに在るのが・・・

明智光秀一族の墓
天正10(1582)年、山崎の戦いに敗れ、
土民の手に掛かり無念の死を遂げた、光秀公。
堂宇の再建や檀徒としての帰依を受ける等、
光秀公と密な関りを持っていた西教寺では、
「謀反人」のそしりを受けたであろう故人の菩提を弔い、
境内に墓を建立。
これに坂本城や丹波亀山城で命を絶った
光秀公の家族、並びに一族の方々が合葬され、
安らかな眠りに就いています。

「明智光秀一族の墓」の隣にズラリと並ぶのは、
阿弥陀如来二十五菩薩像
仏教でも最も主要な仏の一人・阿弥陀如来(あみだにょらい)が
二十五菩薩を従え、
遥か西方に在る浄土の世界から楽を奏でながら
来迎(らいごう。臨終の際、仏陀や菩薩が浄土の世界から迎えに来ること)して、
念仏に帰依する者を極楽浄土へ導くという、
浄土思想に基づいて建立されたもの。
前列中央、他より高く造られているのが
菩薩たちを率いる阿弥陀如来
その周りを固める菩薩たちはそれぞれ鼓、琵琶、
笛、笙などの楽器、
幡(ばん。仏の威徳を示すために掲げられる仏具)や
蓮華の花などを持ち、
浄土より来迎した様を表しています。
元来の二十五菩薩石仏像は、天正12(1584)年に
近江国栗太郡(くりたぐん。現在の草津市・栗東市、
大津市瀬田川以東、守山市の一部に当たる)の住人、
富田民部進によって
娘の極楽往生を願って建立されましたが、
四百年余の間に風化・破損が進んだため、
書院と客殿を結ぶ廊下・「欣浄廊」へ移設
代わりに平成16(2008)年に有志により建てられた
新二十五菩薩像が、
西教寺の檀徒や、光秀公とその一族を、
西方浄土へと導いています。

光秀公と明智一族の墓から「二十五菩薩像」を挟んで反対側、
立派な石塔の傍らにひっそりと佇む(↓下部)のが、
光秀公の妻・熙子夫人の墓
明智家と関係深い妻木氏(つまきし)より嫁入りし、
苦楽を共にした熙子夫人。
本能寺の変の6年前、
天正4(1576)年に死去したとされており、
彼女の葬儀には夫・光秀公も参列したそうな。
(当時、妻の葬儀に夫は参列しない習わしでした。
二人の絆、愛情の深さを示す、素敵なエピソード)
墓が建てられた時期の違いから、
隣同士・・・とはならなかったようですが、
ここ西教寺で仲良く眠りに就いています。

熙子夫人の墓の近くに建てられたこの石塔は、
明智家臣・妻木一族の供養塔
明智氏と同じく美濃国(岐阜県南部)・土岐氏の
庶流に当たる一族で、
光秀公立身の後は家臣として仕え、
また光秀公と熙子夫人の婚儀によって
一門衆とも言える間柄でした。
山崎の戦いでは明智「左馬助」秀満とともに
光秀公の居城・坂本城を守っていましたが、
合戦後に攻め寄せた羽柴軍と戦い、
討死や自害を遂げました。
美濃・妻木城主を務めていた妻木広忠
(つまき ひろただ。熙子夫人の父との説あり)は、
坂本城の落城後、
明智一族に殉じた人々を西教寺に埋葬・供養した後、
熙子夫人の墓前で自刃したと伝えられています。
(壮絶だ・・・)
主君で親類である光秀公に天運を預け、
ともに散って行った妻木氏一族・・・
ここ西教寺には、凄絶苛烈を極めた戦国の世を、
懸命に生き抜いた人々の証が残されています。
(なお一部の人々は生き延び、
幕府の旗本として家名を後世に残しています)

「閉門」時間も迫り、参道を戻って帰路へ!
就く前に・・・

僧坊の一つ、禅明坊に寄り道。
「大本坊」にも劣らぬ立派な構え、
玄関上の入母屋屋根が見事な禅明坊は、
大河ドラマ・麒麟がくる放送終了後の3月31日まで
大津市各所で展開された企画展・
びわ湖大津・光秀大博覧会の
会場の一つ・禅明坊光秀館として
装いを改められ、
大河ドラマの衣装や小道具、
光秀公の具足や織田信長の南蛮兜、
江戸時代前期・貞享年間(1684~88)にまとめられた
近江国の地誌で、「光秀公近江出身説」が記された書物・
淡海温故録(おうみおんころく)などの
資料等が展示・公開されていました。
残念ながら時間の都合で拝観叶わなかったものの・・・

明智氏の家紋・桔梗紋(ききょうもん)と
旗印に用いられた水色が鮮やかな、
おみやげ処に入店!

「光秀公グッズ」や地元の土産品が並ぶ店内で
今回の土産物を買い込み・・・

京阪石山坂本線の起点・
坂本比叡山口駅へ!

ここから緑色の京阪電車に乗り込み、
JRに乗り継いで、居住地・竜王町へと戻ります!
飛鳥以来の伝統と風格、
戦国乱世を懸命に生きようとした人々の
足跡残る、西教寺。
琵琶湖一望の絶景と、
純白の雪景色が楽しめた、琵琶湖テラス。
湖上の堂宇・浮御堂や、
「堅田湖賊」の栄華と権勢を伝える
堅田の町並み・・・
境を接する「千年京・京都」や「商都・大阪」と比べると
魅力に乏しいように語られることが多い(失礼)、
滋賀県。
しかし「日本一の湖」・琵琶湖の情景を筆頭に、
古より開けた地ゆえの歴史や伝統、
今もなお継承され、創出される数多の魅力が溢れた
素敵な土地であると、
居住した今では、否、それ以前より感じます。
コロナ禍が収まった暁には、
皆さんも是非、湖国・滋賀県へ足をお運びください!

ここからは、禅明坊光秀館・おみやげ処にて購入した、
「大津みやげ」たちをご紹介!

まずはコチラ、
明智光秀 ふんわりはんかち
表面に明智家の家紋・「桔梗紋」をあしらい、
周囲を可愛らしい装飾で覆われたハンカチ。
明智軍の旗印にインスパイアされた、
淡い水色もgood!
その素材にはマイクロファイバーが
用いられ、肌ざわり良好!
汗や水の吸収性も高く、お肌をケアする
ピーリングタオルとしての機能も
併せ持っているそう。
(実はまだ一度も使っていません 笑)

お次はコチラ、麒麟光秀 三笠
京都土産の定番・八ツ橋の製造元の一つ、
井筒八ツ橋本舗が送り出す、
コラボレート商品。

中身は「桔梗紋」があしらわれた、どら焼き
(関西の一部地域では、どら焼きの形が
奈良県奈良市の若草山(別名「三笠山」)に
似ていることから、
どら焼きの事を「三笠」と呼ぶそうな)
ふんわりと焼き上げられた表皮の中には・・・

ほんのり甘い小豆あんに、
京銘菓の生八ツ橋が!
あんの風味に京都らしい上品な甘さと
モチモチ食感がプラスされ、
一般的などら焼き(三笠)とは一味違う味覚が楽しめます♪

三品目は、地元滋賀県・琵琶湖の「湖(うみ)の幸」を
フル活用したグルメ、
琵琶湖三珍

中身は琵琶湖で獲れた小鮎、ゴリ、モロコの
小魚三種を、砂糖、醤油、水飴、山椒などで
煮込んだ、佃煮

一尾ずつは小ぶりながら、
砂糖や水飴で甘味を、醤油で風味と旨味を付け、
さらに山椒で締まった辛味を付け加えた一品は、
パリッとした食感と濃厚な風味、
小魚本来の旨味と多様な調味料が醸し出す
多彩な味わいが、ご飯にもお酒にもマッチする、逸品!
滞在先で名所や景観を味わい、
帰った後に持ち帰った名品やグルメを味わう・・・
これぞ旅の醍醐味かな♪
参考:西教寺 パンフレット
文化庁 国指定文化財等データベース
にっぽんの逸品を訪ねて | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
LINEトラベルjp
滋賀県立琵琶湖文化館 公式ホームページ
Wikipedia
Weblio辞書