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大津巡り8(終) ~光秀公の菩提寺・西教寺(その2)~

先月半ばよりG・Wを駆使しながら
書き進めて来た「大津巡り」編も、今回で一区切り

「番外編」として今回宿泊した
「びわ湖大津プリンスホテル」の様子を
2度に分けてお届けする予定ですが、
ひとまずナンバリングタイトルとしては、最終回

前回に続いて「明智光秀公の菩提寺」・
西教寺(さいきょうじ)の様子と、
帰り際に買い込んだ「お土産たち」をご紹介します!

仏堂伽藍の中枢となる本堂で、
ご本尊・阿弥陀如来さまと対面を果たした私。
千古の御仏との対面で心洗われる思いを味わい、
続いて向かうのは・・・
西教寺 2-1
西教寺客殿(重要文化財)

本堂と書院の間に在る建物で、
元は豊臣秀吉が京都・伏見の地に隠居城として築いた城・
伏見城から移築されたもの。

豊臣政権下で奉行を務め、
石田三成(いしだ みつなり)との交友、
関ヶ原での活躍で知られる武将・大谷吉継(おおたに よしつぐ)の母、
同じく奉行格・山中長俊(やまなか ながとし)の夫人より
寄進されました。

「豊臣の城」という響きから抱くイメージとは異なる
質素な装いながらも、桃山御殿とも称される殿舎は、
桁行十二間(21.72メートル)、梁間7間(12.67メートル)。

屋根はこけら葺きで二重構造とした重屋根
南面を入母屋造、北面を切妻屋根として、
外観に変化を付けています。

内部には二列に部屋が配置され、
それぞれ「鶴の間」、「猿猴(えんこう=猿のこと)の間」、
「賢人の間」、「花鳥の間」、
「上座の間」、「茶の間」の名で呼ばれ、
「茶の間」を除く五部屋の襖や壁、
腰障子には、
安土桃山時代に狩野派の絵師たちを率い、
日本美術史上に名を馳せた「美の巨人」・
狩野永徳(かのう えいとく)以下、
狩野派の絵師たちが描いた
障壁画が残されています。

作成から四百数十年を経て色あせてはいるものの、
人物や動物の仕草、表情を細やかに写し出す
精緻な筆遣い、
木や草花とそれら「登場人物」を巧みに絡める配置の妙が、
当時日本画壇に君臨した
「第一人者」の実力を窺わせます。
堂内撮影禁止のためファインダーに収められないこと、
拝観時間終了が近づいていたことから
じっくり観察出来なかったのが、残念)

賢人の間の奥には、
京・法勝寺(ほっしょうじ。院政期に建てられた、「六勝寺」の一つ。
応仁の乱以降衰退し、廃寺に)より伝来した
秘仏・薬師如来坐像(重要文化財、非公開)が
安置されています。
西教寺 2-2
客殿を見て回った後は、客殿庭園にご注目。

江戸時代初期、備中松山城や近江国小室藩の主を務めた
大名でありながら、
茶の湯、作庭、建築、書と多才を発揮した
「文化大名」・小堀遠州(こぼり えんしゅう)こと
小堀政一(こぼり まさかず)によって築かれた庭園。

いわゆる遠州流に則って構成された庭園は、
裏山の急傾斜を巧みに利用し、
丸刈や角刈といった小刈込を駆使。

中央には琵琶の姿を取り入れた
ひょうたん型の池泉琵琶湖をイメージ?)を配し、
山際と池泉との間に小丘を築いた二つの石組み
比叡山比良山系をイメージ?)が置かれています。
西教寺 2-3
客殿と書院の和風建築、萌え出す裏山に囲まれ、
落ち着いた佇まいを見せる、客殿庭園
こうして眺めているだけで、時が過ぎ去ってしまいそう♪
西教寺 2-4
続いては、「客殿」に隣接する、書院(登録有形文化財)へ。

西教寺書院は、大正5(1916)年の築。
大正6(1917)年に催行された法要、
不断(常)念仏十五万大法会に際し、
客殿北側に対面して建てられました。

桁行13間(23.53メートル)、梁間9間(16.29メートル)の
入母屋造、屋根は瓦葺で、
南側4室の表書院と北側6室の裏書院からなっています。

シンプルな造作ながらも伝統的な書院造を踏襲しており、
昭和の改築ながらも
室町時代末の建築様式を受け継いだ大書院、
桃山期よりの現存建築である客殿と並んでも、
違和感のない造りとなっています。

この書院で注目すべき場所の一つが、
併設された明智光秀公資料室

内部はもちろん撮影禁止となっており
展示資料をここで掲載することは叶いませんが、
「左馬助(さまのすけ)」の通り名で知られる
明智家家臣・明智秀満(あけち ひでみつ)が
主君・光秀が敗死へと至った山崎の戦い後、
坂本城への退却の際に追っ手から逃れるために
馬で琵琶湖を渡ったという有名な逸話・
左馬助の湖水渡り
騎乗に用いたとされる馬の鞍
合戦の後に光秀公が戦いで戦死した家臣の供養のため、
西教寺に米を寄進した際の書状などが
展示されており、見応え十分!

この書状では名字も持たない中間(ちゅうげん)と呼ばれる
最下級の士卒に至るまで平等に
供養米が贈られたことが明記されており、光秀公が
身分の隔てなく部下たちの死を悼むような
人物であったことを示しています。
西教寺 2-5
書院の前面に築かれた書院庭園は、
明治初期の作庭。

作庭に当たったのは、各地の城の石垣造りや
坂本の町の造成に関わった石工集団・
穴太衆(あのうしゅう)

彼らの手掛けた庭園は穴太式と称され、
坂本一帯で多く見られるものだそう。
客殿の切妻屋根の勾配を背景として取り込んだ
造形美が、見事。
西教寺 2-6
この西教寺で訪れるべき場所の一つが、
本堂前の広場の一角。
ここに在るのが・・・
西教寺 2-7
明智光秀一族の墓

天正10(1582)年、山崎の戦いに敗れ、
土民の手に掛かり無念の死を遂げた、光秀公。

堂宇の再建や檀徒としての帰依を受ける等、
光秀公と密な関りを持っていた西教寺では、
「謀反人」のそしりを受けたであろう故人の菩提を弔い、
境内に墓を建立。

これに坂本城や丹波亀山城で命を絶った
光秀公の家族、並びに一族の方々が合葬され、
安らかな眠りに就いています。
西教寺 2-8
「明智光秀一族の墓」の隣にズラリと並ぶのは、
阿弥陀如来二十五菩薩像

仏教でも最も主要な仏の一人・阿弥陀如来(あみだにょらい)が
二十五菩薩を従え、
遥か西方に在る浄土の世界から楽を奏でながら
来迎(らいごう。臨終の際、仏陀や菩薩が浄土の世界から迎えに来ること)して、
念仏に帰依する者を極楽浄土へ導くという、
浄土思想に基づいて建立されたもの。

前列中央、他より高く造られているのが
菩薩たちを率いる阿弥陀如来

その周りを固める菩薩たちはそれぞれ鼓、琵琶、
笛、笙などの楽器、
幡(ばん。仏の威徳を示すために掲げられる仏具)や
蓮華の花などを持ち、
浄土より来迎した様を表しています。

元来の二十五菩薩石仏像は、天正12(1584)年に
近江国栗太郡(くりたぐん。現在の草津市・栗東市、
大津市瀬田川以東、守山市の一部に当たる)の住人、
富田民部進によって
娘の極楽往生を願って建立されましたが、
四百年余の間に風化・破損が進んだため、
書院と客殿を結ぶ廊下・「欣浄廊」へ移設

代わりに平成16(2008)年に有志により建てられた
新二十五菩薩像が、
西教寺の檀徒や、光秀公とその一族を、
西方浄土へと導いています。
西教寺 9
光秀公と明智一族の墓から「二十五菩薩像」を挟んで反対側、
立派な石塔の傍らにひっそりと佇む(下部)のが、
光秀公の妻・熙子夫人の墓

明智家と関係深い妻木氏(つまきし)より嫁入りし、
苦楽を共にした熙子夫人。
本能寺の変の6年前、
天正4(1576)年に死去したとされており、
彼女の葬儀には夫・光秀公も参列したそうな。
(当時、妻の葬儀に夫は参列しない習わしでした。
二人の絆、愛情の深さを示す、素敵なエピソード)

墓が建てられた時期の違いから、
隣同士・・・とはならなかったようですが、
ここ西教寺で仲良く眠りに就いています。
西教寺 2-10
熙子夫人の墓の近くに建てられたこの石塔は、
明智家臣・妻木一族の供養塔

明智氏と同じく美濃国(岐阜県南部)・土岐氏の
庶流に当たる一族で、
光秀公立身の後は家臣として仕え、
また光秀公と熙子夫人の婚儀によって
一門衆とも言える間柄でした。

山崎の戦いでは明智「左馬助」秀満とともに
光秀公の居城・坂本城を守っていましたが、
合戦後に攻め寄せた羽柴軍と戦い、
討死自害を遂げました。

美濃・妻木城主を務めていた妻木広忠
(つまき ひろただ。熙子夫人の父との説あり)は、
坂本城の落城後、
明智一族に殉じた人々を西教寺に埋葬・供養した後、
熙子夫人の墓前で自刃したと伝えられています。
(壮絶だ・・・)

主君で親類である光秀公に天運を預け、
ともに散って行った妻木氏一族・・・

ここ西教寺には、凄絶苛烈を極めた戦国の世を、
懸命に生き抜いた人々の証が残されています。
(なお一部の人々は生き延び、
幕府の旗本として家名を後世に残しています)
西教寺 2-10、5
「閉門」時間も迫り、参道を戻って帰路へ!
就く前に・・・
西教寺 2-11
僧坊の一つ、禅明坊に寄り道。

「大本坊」にも劣らぬ立派な構え、
玄関上の入母屋屋根が見事な禅明坊は、
大河ドラマ・麒麟がくる放送終了後の3月31日まで
大津市各所で展開された企画展・
びわ湖大津・光秀大博覧会
会場の一つ・禅明坊光秀館として
装いを改められ、
大河ドラマの衣装や小道具、
光秀公の具足や織田信長の南蛮兜、
江戸時代前期・貞享年間(1684~88)にまとめられた
近江国の地誌で、「光秀公近江出身説」が記された書物・
淡海温故録(おうみおんころく)などの
資料等が展示・公開されていました。

残念ながら時間の都合で拝観叶わなかったものの・・・
西教寺 2-12
明智氏の家紋・桔梗紋(ききょうもん)と
旗印に用いられた水色が鮮やかな、
おみやげ処に入店!
西教寺 2-13
「光秀公グッズ」や地元の土産品が並ぶ店内で
今回の土産物を買い込み・・・
西教寺 2-14
京阪石山坂本線の起点・
坂本比叡山口駅へ!
西教寺 2-15
ここから緑色京阪電車に乗り込み、
JRに乗り継いで、居住地・竜王町へと戻ります!

飛鳥以来の伝統と風格、
戦国乱世を懸命に生きようとした人々の
足跡残る、西教寺。

琵琶湖一望の絶景と、
純白の雪景色が楽しめた、琵琶湖テラス。

湖上の堂宇・浮御堂や、
「堅田湖賊」の栄華と権勢を伝える
堅田の町並み・・・

境を接する「千年京・京都」や「商都・大阪」と比べると
魅力に乏しいように語られることが多い(失礼)、
滋賀県。

しかし「日本一の湖」・琵琶湖の情景を筆頭に、
古より開けた地ゆえの歴史や伝統、
今もなお継承され、創出される数多の魅力が溢れた
素敵な土地であると、
居住した今では、否、それ以前より感じます。

コロナ禍が収まった暁には、
皆さんも是非、湖国・滋賀県へ足をお運びください!
西教寺 2-16
ここからは、禅明坊光秀館・おみやげ処にて購入した、
「大津みやげ」たちをご紹介!
西教寺 2-17
まずはコチラ、
明智光秀 ふんわりはんかち

表面に明智家の家紋・「桔梗紋」をあしらい、
周囲を可愛らしい装飾で覆われたハンカチ。
明智軍の旗印にインスパイアされた、
淡い水色もgood!

その素材にはマイクロファイバー
用いられ、肌ざわり良好!
汗や水の吸収性も高く、お肌をケアする
ピーリングタオルとしての機能も
併せ持っているそう。
(実はまだ一度も使っていません 笑)
西教寺 2-18
お次はコチラ、麒麟光秀 三笠

京都土産の定番・八ツ橋の製造元の一つ、
井筒八ツ橋本舗が送り出す、
コラボレート商品。
西教寺 2-19
中身は「桔梗紋」があしらわれた、どら焼き
(関西の一部地域では、どら焼きの形が
奈良県奈良市の若草山(別名「三笠山」)に
似ていることから、
どら焼きの事を「三笠」と呼ぶそうな)

ふんわりと焼き上げられた表皮の中には・・・
西教寺 2-20
ほんのり甘い小豆あんに、
京銘菓の生八ツ橋が!

あんの風味に京都らしい上品な甘さと
モチモチ食感がプラスされ、
一般的などら焼き(三笠)とは一味違う味覚が楽しめます♪
西教寺 2-21
三品目は、地元滋賀県・琵琶湖の「湖(うみ)の幸」を
フル活用したグルメ、
琵琶湖三珍
西教寺 2-22
中身は琵琶湖で獲れた小鮎、ゴリ、モロコの
小魚三種を、砂糖、醤油、水飴、山椒などで
煮込んだ、佃煮
西教寺 2-23
一尾ずつは小ぶりながら、
砂糖や水飴で甘味を、醤油で風味と旨味を付け、
さらに山椒で締まった辛味を付け加えた一品は、
パリッとした食感と濃厚な風味、
小魚本来の旨味と多様な調味料が醸し出す
多彩な味わいが、ご飯にもお酒にもマッチする、逸品!

滞在先で名所や景観を味わい、
帰った後に持ち帰った名品やグルメを味わう・・・
これぞ旅の醍醐味かな♪

参考:西教寺 パンフレット
   文化庁 国指定文化財等データベース
   にっぽんの逸品を訪ねて | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
   LINEトラベルjp
   滋賀県立琵琶湖文化館 公式ホームページ
Wikipedia
   Weblio辞書

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。