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湖北旅1 ~北国街道・木之本宿 その1~

春の陽気に包まれたかと思いきや、
なだれ込むように梅雨へと突入して行った
2021年の5月もあっという間に通り過ぎ、
早や年も半ばの6月

このところ「晴れ間」が続いている中で、
駆け足傾向のまま早々と梅雨明けを迎えるのか、
それともジメジメ湿気
引き続き日本列島を覆い続けるのか・・・

先の見えないコロナ禍のトンネルの中で、
お天道様も注目を集めていることでしょう。

さて、先日ようやく「大津巡り」編を畳んだところですが、
まだ過去ネタは片付きません

続きましては先月(4月)半ば頃に訪れた、
滋賀県長浜市、旧北国街道(ほっこくかいどう)沿いに
残る宿場町・木之本宿(きのもとしゅく)を中心に、
戦国時代の古戦場跡・賤ケ岳(しずがたけ)や、
「軍師官兵衛」こと黒田孝高(くろだ よしたか)を輩出し、
筑前福岡藩52万余石を領した大名家・
黒田氏発祥の地である
黒田地区など、
歴史と趣に彩られた2泊3日の湖北旅の模様を
お届け致します!

旅に至る経緯

昨年11月の滋賀県入り以来、
アクシデントによる休業、冬休みを除いて
ひたすら働き続けた私に数日の休暇が与えられることが
伝えられたのが、3月末のこと。

真っ先に浮かんだのが「そうだ京都、行こう。」という
某JRのキャッチフレーズのような発想に基づいた
「伏見めぐり」であったのですが、
出発直前にまん延防止等重点措置
京都府に発令される運びとなったため、断念

そこで滋賀県内に行先を定め、
以前より訪れてみたいと考えていた
北国街道の宿場町・木之本宿を拠点として、
町歩きや周辺の歴史スポットを巡るという、
今回の旅のプランに行きついた訳であります。

4.11 Sunday
木之本宿 1
通常の土日休に2日間の休暇を組み合わせた、
春の4連休

初日は一週間のハードワークから回復することに充て、
2日目となる日曜日から行動開始!

素晴らしい天気の下、
バスで最寄り駅の一つである近江八幡駅へ!
木之本宿 2
ここから琵琶湖線北陸本線と直通運転される
JR西日本メインウェポン」・新快速に揺られ
木之本宿 3
滋賀県最高峰にしてお隣・岐阜県にまたがる高峰・
伊吹山(1,377m)を眺めながら走ること、およそ50分。
木之本宿 4
目的地の玄関口となる、木ノ本駅(きのもとえき)に到着!

明治15(1882)年、北陸本線の母体となる
官設鉄道(のちの日本国有鉄道(国鉄))の駅として
開業した歴史ある駅で、
現在の駅舎は平成18(2006)年に
移設・開業した2代目

駅構内に地元の特産品や工芸品、
農産物などを販売する「ふれあいステーション おかん」を
併設する駅舎は、
駅名標や建材の一部に木材を用い、
宿場町の玄関駅に相応しい
和様の装いとなっています。

地名(長浜市木之本町)と駅名(木ノ本駅)が
異なっているのも、面白いところ。
(経路検索の際には、お気を付けを)
木之本宿 5
冬季・秋季の土休日やゴールデンウィークを中心に
運転されていたイベント列車・
SL北びわこ号(米原‐木ノ本間)の
(去る5月21日に、運行終了が発表された)、

木ノ本駅はその終着駅となっていた所で、
駅舎内にはSLの動輪をイメージした柵や、
乗客たちを歓迎する横断幕
木之本宿 6
記念撮影用のパネル等が設置されていました。
(今となっては、なんだか物哀しい)
木之本宿 7
そしてこの駅の特色は何といっても、
古い町並みが残る宿場町・木之本宿
「眼の仏さま」、「長寿の仏さま」として
古来より篤く敬われて来た名刹・
木之本地蔵院への、
最寄り駅に当たること。

ここ木ノ本駅から宿場町の入口へは
徒歩5分ほどとなっており、
軽くお散歩感覚で宿場町散策を楽しめるのも、魅力的♪
木之本宿 8
木之本宿は、天正11(1583)年に
羽柴秀吉(はしば ひでよし。のちの豊臣秀吉)と
柴田勝家(しばた かついえ)が雌雄を決した大戦・
賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)

その古戦場へのアクセス口の一つとなっており、
近隣の余呉湖(よごこ)や周囲の山々には、
砦や激戦地の跡が点在。

「木之本地蔵院」には秀吉公が本陣を敷いたとも
伝えられており、
駅前のポストには、秀吉公ご愛用のを模した
飾りが付けられています。
(本当に歴史深い場所だ・・・)

で、この木ノ本駅からほんのちょっと歩き・・・
木之本宿
木之本宿、到着!

古くより「日本三大地蔵」・木之本地蔵院の
門前町として栄え、
江戸時代に入ってからは、湖東・湖北地域を通って
中山道北陸道
連絡する北国街道(ほっこくかいどう)、
ここから分かれて「天下分け目の合戦場」・関ケ原へと至る
北国脇往還(ほっこくわきおうかん)の
中継・分岐点に設けられた宿場町としても、
重要な枠割を担って来た町。

写真の通りは地蔵坂と呼ばれる
「木之本地蔵院」の参道であり、
地蔵院と木ノ本駅前を一直線に繋いでいます。
(地図を見てみると、北陸本線を越えて
余呉川あたりまで、真~っ直ぐに道が伸びています)
木之本宿 10
(逆光Fire)
木之本宿 11
街道や地蔵院参道沿いには
昔ながらの町家が並び、
さながら江戸時代にタイムスリップしたかのよう。
木之本宿 12
「地蔵坂」から移動しまして、
宿場町北側から散策をスタート!

写真は宿場町でも端に近い場所ですが、
この辺りまで道の両側に整然と町家が並んでいます。

そしてこの一枚を撮るために立っている
この通りこそ!
彦根・鳥居本(とりいもと)と越前・敦賀を繋ぎ、
畿内や東海、遠くお江戸と
北陸地方を連絡する役割を果たした
古の道・北国街道

多くの旅人が行き交ったであろう「歴史の通り道」に
こうして立っている・・・
実に感無量である。
木之本宿 13
この辺りでは室町期より昭和の初めまで、
牛馬を売買する牛馬市(ぎゅうばいち)が
開かれていました。

この宿場町北側を中心として馬宿5軒、牛宿15軒、
計20軒の旅宿が定められ、
売方、買方に分かれて投宿。

それぞれの同宿禁止
先人、先輩から引き継いだ
なじみの宿に泊まること
新規参入には「市親」と呼ばれる
市場取締役の承認を必要とすること、
等の規則の下、
地元近江はもとより隣国の越前や
若狭(わかさ。敦賀地域以外の福井県南部)、
さらに但馬(たじま。兵庫県北部)、丹波(京都府中部など)、
伊勢(三重県中部。北部など)といった国々から
数百頭を超える牛馬が集まり、
江戸時代には彦根藩による保護・監督もあって、
年二回開かれた市場は大層賑わったそう。

ここでの収益は主催・監督する木之本宿・彦根藩
双方にとって大きなものであり、
藩は目付役調馬役を派遣して
監督に当たらせました。
(優馬・駿馬を他領に渡らせず、自藩で買い付ける、
といったことも行っていたそう。
そのための「調馬役」でしょうね)
木之本宿 14
そんな牛馬市でも大切な役割を果たしていた
旅宿の一つが、この馬宿 平四郎

「木之本牛馬市」にて宿を提供した馬宿5軒の一つで、
牛馬市開催の折には売方、買方のいずれかが
投宿し、市場開催中の活況に身を投じたことでしょう。
木之本宿 15
店先には、かつての雰囲気を感じさせる
大八車と思しき車輪や、
市場での規則を記した定書(さだめがき)が
並べられています。
木之本宿 16
こちらが牛馬市にて守るべき規則が記された、
定書

いわく
・(おそらく到着日時)事前通知の上、堅く守るべきこと。
 ただし、無鑑札の者(市場取締役の承認を得ていない者)は
 牛馬市に於いて売買することは出来ない
・牛馬一頭につき売買の上、
 手数料金三銭を主催者に支払う
・宿の宿泊料は三十五銭
・酒、壺(あとの一字は判読出来ず。読める人~!)代
 三十五銭
と規定が為されています。
どうやらこの定書、明治32(1899)年に
定められたもののようで、
それ以前にはまた異なる形の
「定」が存在していたのでしょう。

この平四郎で知られるのが、
土佐藩初代藩主・山内一豊(やまうち かずとよ)と
その妻・千代(ちよ)の逸話。

尾張国(おわりのくに。愛知県西部)の守護代※・
岩倉織田氏に仕えた重臣の出で、
一族離散と放浪ののち織田家(信長)に仕官。

守護代・・・しゅごだい。室町時代に一国の主となった役職・
       「守護」の任に就いた大名に代わり、
       領国経営を取り仕切る「代官」。
       のちに「戦国三傑」の一人となる信長公は、
       尾張守護・斯波氏に仕え、「清州三奉行」と称された、
       織田弾正忠(おだだんじょうのちゅう)家の出。

織田家の出世頭でありのち天下人となる
羽柴(豊臣)秀吉の下、近江長浜城主、
遠江(とおとうみ、静岡県西部)掛川城主と
出世を重ね、
関ヶ原の戦いの直前、「小山評定(おやまひょうじょう)」での
居城差し出しの機転により、
土佐国20万2,600石の太守
となった一豊公ですが、
織田家に仕えて年浅い頃には、
まだ城も持たない小録の士卒に過ぎませんでした。

そんな折、織田家の軍備と威光を示す
馬揃え(うまぞろえ。観兵式、軍事パレード)が
行われることとなり
(有名な「京都御馬揃え」ではなく、それ以前に安土城下で
催行されたものと思われる)、
駿馬を探していた一豊公の目に、
一頭の馬が留まった。

しかしその馬は一豊公には手の届かぬ
高値のものであり、
このままでは朋輩(同僚)や主君・信長公の目に留まるような、
優れた馬を用意することは叶わない。

その話を聞いた妻・千代は、
日頃自らの鏡箱に蓄えておいた金子十両
(つまり「へそくり」)を差し出し、
一豊公は無事名馬を購入。
これが信長公の目に留まり、出世の足掛かりになった、
というお話。

妻・千代の内助の功
代表譚ともなっているこの逸話ですが、
一豊公が名馬を購入したのが
この馬宿 平四郎であった
とされています。
木之本宿 17
続いて向かうのは、「北国街道」の標柱の隣に店を構える
造り酒屋、(有)山路酒造

創業はなんと489年も昔の、
天文元(1532)年
「戦国三傑」・信長公生誕の2年前に当たります。

日本で4番目(もしくは5番目)に古い酒蔵で
あるそうで、
同じ宿場町に店を構える「七本槍」の冨田酒造とともに、
戦国の頃からここ木之本で酒造りを営む
超老舗

営業情報

営業時間
9:00~18:00

定休日
毎週水曜日
(元旦も休業)

お問い合わせ
山路酒造有限会社
TEL : 0749 - 82 - 3037
FAX : 0749 - 82 - 5100
木之本宿 18
店頭には造り酒屋の象徴であり、
飲み頃のお酒を報せる指標ともなる、杉玉
木之本宿 19
店内の様子。
外観そのまま、古式ゆかしい和様の造り。
流石に創業当時の建築・・・という訳ではないのでしょうが、
それでも百年以上の歳月を感じる趣があります。
木之本宿 20
店舗の一角に置かれた、古い看板たち。
ここの名物である「桑酒」や、
古びた「アサヒビール」の字が
見えています。
木之本宿 21
店頭に並べられたお酒たち。
日本酒としての銘柄は、「北國街道」。

古くから門前町・宿場町として栄えた
木之本で、
営々と酒造りを続けて来た老舗に相応しい、
品のある名称。
木之本宿 22
そんな山路酒造の「名物」となっているのが、
こちらの桑酒

桑の葉を焼酎に漬け込んで
生成されたエキスに、
もち米に麹を混ぜて糖化させて出来たみりんを
混ぜ合わせることによって造られる、
黄金色リキュール

かつては全国数カ所で造られていたと言われる
桑酒ですが、
現在製造しているのはここ山路酒造のみ

試飲させていただいたのですが、
桑の葉由来の独特な香りと風味、
子ども用風邪薬のような甘さと濃厚さが
強く立ち、「純・日本酒党」の私からすると、
ちょっと苦手な味(※個人の感想です)。

しかしながらこの「甘さ」に惹かれる人も
多かったようで、
江戸時代の文化10(1813)年には
前田土佐守家※に献上され、
家臣いわく「大変よい風味であった」、
「徳利二つ、取り寄せた」とある他、
明治~昭和初期に文壇を駆けた小説家・
島崎藤村(しまざき とうそん)も
この桑酒を深く愛飲し、
自筆の手紙には
桑酒を所望する一文まで残されているそう。
(これだけの由緒があるのなら、
買ってみたいかも・・・)

前田土佐守家・・・読みは「とさのかみけ」。「土佐守」は官名。
           加賀藩前田家の祖・利家公の次男・
           利政(としまさ)を家祖とし、本家に仕えた家柄。
           文化10年は当主が交代した年であり、
           「殿様」は6代直方(なおただ)か7代直時(なおとき)の
           いずれかと思われる。
木之本宿 23
「山路酒造」を営む山路清平家は、
江戸時代には「本陣」の予備的役割を果たす
脇本陣を務めていた他、
江戸末期には柳ケ瀬関所を通って
北陸と畿内や東海・江戸を往来する人馬を改める
伝馬所取締という、
重大な役目を負っていたそう。

木之本宿でもその名を知られ、
藩や文化人とも関りを持っていたであろう、
山路家。

そんな彼らが要職を兼ねるようになったのも、
自然な成り行きだったのかも知れません。
木之本宿 24
木之本滞在一日目の
「山路酒造」にて購入した、
北國街道 生貯蔵酒を開封!
木之本宿 25
華やかな香りとそれに反する清らかな口当たり、
バナナを思わせる甘味が合わさった、
土地の水と酒造りに用いた
素性の良さを思わせる、極上の味
木之本宿 26
近くのスーパーで買った、
お隣・福井県は敦賀港産のヒラメをつまみに、
頂きました♪
木之本宿 2-1
北国街道・木之本宿散策。
まだまだ続きます!

参考:山路酒造有限会社 公式ホームページ
    日本文化の入り口マガジン 和樂web
    前田土佐守家資料館
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。