湖北旅3 ~「眼の仏さま」・木之本地蔵院~
- 2021/06/05
- 22:21
木之本宿巡り3回目は、
いよいよ木之本観光のメインスポットへ!

それがココ、木之本地蔵院!
眼病平癒・長寿の仏さまとして、
地元・滋賀県や関西圏内はもちろん、
全国各地から参拝客が足を運ぶ、
湖北きっての名刹。
その創建は遥か昔の飛鳥時代(!)、
天武天皇(てんむてんのう)治世の頃。
難波江(なにわえ、現在の大阪湾)に
金色に輝く一体の地蔵菩薩像が流れ着き、
これを本尊として難波の地に「金光寺」を建てたのが
始まりとされています。
その後木之本に「地蔵院」が開かれるには
二通りの経緯があるそうですが、
そのうちの一つが、
奈良・薬師寺の僧、祚蓮(それん)上人によって
この地に遷されたというもの。
それによれば、天武天皇より「より縁深き場所を探すように」との
勅命を受けた祚蓮(それん)上人は、
自ら地蔵菩薩像を背負い、
遷座の地を探す旅へと出発。
近江国に入り、北国街道を下る途上、
一本の柳の木に差し掛かったところ、
背負っていたお地蔵さまが急に重くなったので、
祚蓮上人は背中の仏像を降ろし、一休み。
さて、出発!と腰を上げようとしたところ、
先ほどまで背負うことが出来ていたお地蔵さまが、
ピクリとも動かない
これを「御仏の思し召し」と考えた上人は
柳の木の下にお堂を建て、
そこにお地蔵さまを祀ることとしました。
そしていつしか「柳の下にお堂の在る地」は
木之本と呼ばれるようになり、
お堂は柳本山金光善寺と
名付けられました。
これが白鳳3(675)年のことと伝わります。

以来1350年近い歴史を持つ古刹は
史上の人物たちの崇敬も受けて来たようで、
平安時代の弘仁3(812)年には
真言宗の開祖・弘法大師空海(こうぼうだいし くうかい)が
巡錫(しゃくじゅん。僧侶が錫杖を持って諸国を巡ること)によって
集めた寄付を以て補修した他、
昌泰元(898)年には醍醐天皇(だいごてんのう)の
勅旨を受けた菅原道真(すがわらの みちざね)公が
参拝し、山号を長祈山浄信寺
(ちょうきさんじょうしんじ)と改名。
建武2(1335)年には室町幕府の祖・
足利尊氏(あしかが たかうじ)より
使者が遣わされ、
毎年8月に法会(ほうえ)を開くことと定めました。
(この風習は現在も毎年催行される
木之本地蔵大縁日として
続けられています(2020年は中止))
地蔵堂と称される本堂は、
江戸時代の宝暦年間(1751年 – 1764年)に再建されたもの。
一度は火災で、その前はあの賤ケ岳の戦いの
兵火によって焼失したとされています。
(賤ケ岳の戦いの際に、
羽柴(豊臣)秀吉が本陣を敷いたとも言われています)

参拝前に、手水舎で手と口を「お浄め」。

カエルが鎮座する、手水鉢。
(なぜ「カエル」なのかは、後述)
通常ならば鉢に溢れる水を直接すくって
浄めるところですが、
コロナ禍のこのご時世、
各地の寺院や神社同様、樋から直接水を受ける形へと
改められています。

手水鉢の上に光る、細やかな装飾。

ぽっかり口を開けた、観音堂。
現在ご本尊として祀られる木造地蔵菩薩立像は、
鎌倉時代、仁治3(1242)年の作。
(祚蓮上人がはるばる背負って来た「金光地蔵像」は、
いずこへ・・・?)
脇侍として控える閻魔王立像(えんまおうりゅうぞう)、
倶生神(くしょうじん、インド神話から仏教に受け継がれた神)立像ともども
門外不出・非公開の秘仏となっており、
その姿を目にすることは叶いません
(ついでに堂内も撮影禁止)が、
後述する御戒壇巡りでご本尊とご縁を結ぶことが出来る他、
ご本尊の写しである地蔵大銅像が
境内に建てられています。

境内各所で目に留まるのが、こちらの身代わり蛙
可愛らしくデフォルメされた陶器のカエルさんですが、
きちんとしたいわれあり。
地蔵院に住むカエルは、
「全ての人々の大切な眼が、お地蔵さまのご加護を
頂けるように」、また
「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」
との願いから、
自ら身代わりの願を掛け、
片目をつむって生活しているという。
この身代わり蛙のおなかに
参拝者の名前・数え年を記入して
ご本尊の身代わりたる「地蔵大銅像」の前に
ご心願とともにお供えすることで、
厄を肩代わりしてくれるのだそう。
私も志納金千円を納め、
カエル一匹をお供え。

そしてこちらが、ご本尊の「身代わり」として
本堂右手に佇立する、地蔵大銅像
秘仏であり衆目に晒されることのないご本尊に代わって、
明治27(1894)年に建立されたもの。
その高さはご本尊の3倍(赤いs・・・)となる約6mで、
これは地蔵菩薩立像としては日本一なのだとか。
建立に際し、県内はもとより近隣の愛知や岐阜、
福井からも銅鏡を集め、
それらを溶かして作られたそう。
国を挙げての総力戦となった第二次大戦中には、
各地で銅像や梵鐘などが供出されて
武器弾薬の資材に転用される中、
時の住職や、陸軍大臣・首相を務めた東條英機(とうじょう ひでき)の妻・
かつ子夫人などの援助により
かろうじて供出を免れ、今日までその姿を留めています。
衆生の願いを聞き入れ、穏やかな
表情を浮かべた「お地蔵さま」の足下には・・・


ひとびとの願いが注がれた身代わり蛙が、びっしり!
(中には押し出されて転落し、割れてしまったカエルさんも。
なんだかかわいそう)

無事「身代わり蛙」をお供えした後は、
御戒壇巡りへ!
本堂横に設けられた入口から地下へと潜り、
ご本尊の御座す御厨子(ずし)の直下、
長さ三十一間(56.7メートル)の回廊を巡る、
精神修養の場。
回廊内へ進むと、内部は一寸先も見えない暗闇
他に「御戒壇巡り」に挑む参拝客はいないようで、
私の手が壁に触れる物音の他は、
一切の音も気配も感じられない、
正真正銘の「静寂」。
頼りとなるのは腰の高さに上げた右手で、
回廊右側の壁面を手探りで進む。
地蔵菩薩の真言(サンスクリット語由来で、
(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意)を唱えながら
階段(と言っても文字通りの「階段」では危険なので、
「スロープ」に近い)を降り、
曲がり角をいくつか曲がっていくと・・・
手に何かが触れた感触。
これは御法印※を納めた御法箱と呼ばれる
箱を封じるための、錠前
この錠前はご本尊である地蔵菩薩立像の
御手に結び付けられており、
錠前に触れることによって、
ご本尊と結願出来る、
すなわちご縁で結ばれる、
というもの。
無事ご本尊との結願叶い、ひと安心。
(皆さんも、レッツ・チャレンジ♪)

「御戒壇巡り」の後は、本堂(地蔵堂)裏手へ。
順路に沿って、書院や庫裏が並びます。
手前の書院はちょうど本堂(ご本尊)の裏側に当たり、
裏地蔵尊と呼ばれる
ご本尊の複製を、厨子の向こうより拝めるそう。
(今回はパス)

僧侶 の生活の場となる建物・庫裏(くり)の頂部には・・・

細やかな彫刻と、立派な鬼瓦!

境内最奥に建てられた仏堂・阿弥陀堂(あみだどう)
その名の通り「西方浄土の主」・
阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀るお堂で、
ご本尊は木造阿弥陀如来立像
共に堂内に納められた木造阿弥陀如来坐像とともに
重要文化財に指定されています。
手前に建てられた「国寶(宝)阿弥陀如来」と刻まれた
石碑ですが、
ここで言う「国宝」とは、昭和25(1950)年の
文化財保護法施行以前に
国宝指定を受けていた、いわゆる旧国宝

仏教寺院の象徴・五色幕の向こうに・・・

厨子に納められた、
木造阿弥陀如来立像の
神々しき立ち姿!
(隣(画面外)には同じく重要文化財指定を受けた、
木造阿弥陀如来坐像も控えています)

最後に「四天王」の一尊・毘沙門天(多聞天)を祀った
毘沙門堂にお参りしてから、
再び「宿場町巡り」へ戻ります!
参考:境内解説パネル
Wikipedia
いよいよ木之本観光のメインスポットへ!

それがココ、木之本地蔵院!
眼病平癒・長寿の仏さまとして、
地元・滋賀県や関西圏内はもちろん、
全国各地から参拝客が足を運ぶ、
湖北きっての名刹。
その創建は遥か昔の飛鳥時代(!)、
天武天皇(てんむてんのう)治世の頃。
難波江(なにわえ、現在の大阪湾)に
金色に輝く一体の地蔵菩薩像が流れ着き、
これを本尊として難波の地に「金光寺」を建てたのが
始まりとされています。
その後木之本に「地蔵院」が開かれるには
二通りの経緯があるそうですが、
そのうちの一つが、
奈良・薬師寺の僧、祚蓮(それん)上人によって
この地に遷されたというもの。
それによれば、天武天皇より「より縁深き場所を探すように」との
勅命を受けた祚蓮(それん)上人は、
自ら地蔵菩薩像を背負い、
遷座の地を探す旅へと出発。
近江国に入り、北国街道を下る途上、
一本の柳の木に差し掛かったところ、
背負っていたお地蔵さまが急に重くなったので、
祚蓮上人は背中の仏像を降ろし、一休み。
さて、出発!と腰を上げようとしたところ、
先ほどまで背負うことが出来ていたお地蔵さまが、
ピクリとも動かない
これを「御仏の思し召し」と考えた上人は
柳の木の下にお堂を建て、
そこにお地蔵さまを祀ることとしました。
そしていつしか「柳の下にお堂の在る地」は
木之本と呼ばれるようになり、
お堂は柳本山金光善寺と
名付けられました。
これが白鳳3(675)年のことと伝わります。

以来1350年近い歴史を持つ古刹は
史上の人物たちの崇敬も受けて来たようで、
平安時代の弘仁3(812)年には
真言宗の開祖・弘法大師空海(こうぼうだいし くうかい)が
巡錫(しゃくじゅん。僧侶が錫杖を持って諸国を巡ること)によって
集めた寄付を以て補修した他、
昌泰元(898)年には醍醐天皇(だいごてんのう)の
勅旨を受けた菅原道真(すがわらの みちざね)公が
参拝し、山号を長祈山浄信寺
(ちょうきさんじょうしんじ)と改名。
建武2(1335)年には室町幕府の祖・
足利尊氏(あしかが たかうじ)より
使者が遣わされ、
毎年8月に法会(ほうえ)を開くことと定めました。
(この風習は現在も毎年催行される
木之本地蔵大縁日として
続けられています(2020年は中止))
地蔵堂と称される本堂は、
江戸時代の宝暦年間(1751年 – 1764年)に再建されたもの。
一度は火災で、その前はあの賤ケ岳の戦いの
兵火によって焼失したとされています。
(賤ケ岳の戦いの際に、
羽柴(豊臣)秀吉が本陣を敷いたとも言われています)

参拝前に、手水舎で手と口を「お浄め」。

カエルが鎮座する、手水鉢。
(なぜ「カエル」なのかは、後述)
通常ならば鉢に溢れる水を直接すくって
浄めるところですが、
コロナ禍のこのご時世、
各地の寺院や神社同様、樋から直接水を受ける形へと
改められています。

手水鉢の上に光る、細やかな装飾。

ぽっかり口を開けた、観音堂。
現在ご本尊として祀られる木造地蔵菩薩立像は、
鎌倉時代、仁治3(1242)年の作。
(祚蓮上人がはるばる背負って来た「金光地蔵像」は、
いずこへ・・・?)
脇侍として控える閻魔王立像(えんまおうりゅうぞう)、
倶生神(くしょうじん、インド神話から仏教に受け継がれた神)立像ともども
門外不出・非公開の秘仏となっており、
その姿を目にすることは叶いません
(ついでに堂内も撮影禁止)が、
後述する御戒壇巡りでご本尊とご縁を結ぶことが出来る他、
ご本尊の写しである地蔵大銅像が
境内に建てられています。

境内各所で目に留まるのが、こちらの身代わり蛙
可愛らしくデフォルメされた陶器のカエルさんですが、
きちんとしたいわれあり。
地蔵院に住むカエルは、
「全ての人々の大切な眼が、お地蔵さまのご加護を
頂けるように」、また
「全ての人々が健康な生活を営むことが出来ますように」
との願いから、
自ら身代わりの願を掛け、
片目をつむって生活しているという。
この身代わり蛙のおなかに
参拝者の名前・数え年を記入して
ご本尊の身代わりたる「地蔵大銅像」の前に
ご心願とともにお供えすることで、
厄を肩代わりしてくれるのだそう。
私も志納金千円を納め、
カエル一匹をお供え。

そしてこちらが、ご本尊の「身代わり」として
本堂右手に佇立する、地蔵大銅像
秘仏であり衆目に晒されることのないご本尊に代わって、
明治27(1894)年に建立されたもの。
その高さはご本尊の3倍(赤いs・・・)となる約6mで、
これは地蔵菩薩立像としては日本一なのだとか。
建立に際し、県内はもとより近隣の愛知や岐阜、
福井からも銅鏡を集め、
それらを溶かして作られたそう。
国を挙げての総力戦となった第二次大戦中には、
各地で銅像や梵鐘などが供出されて
武器弾薬の資材に転用される中、
時の住職や、陸軍大臣・首相を務めた東條英機(とうじょう ひでき)の妻・
かつ子夫人などの援助により
かろうじて供出を免れ、今日までその姿を留めています。
衆生の願いを聞き入れ、穏やかな
表情を浮かべた「お地蔵さま」の足下には・・・


ひとびとの願いが注がれた身代わり蛙が、びっしり!
(中には押し出されて転落し、割れてしまったカエルさんも。
なんだかかわいそう)

無事「身代わり蛙」をお供えした後は、
御戒壇巡りへ!
本堂横に設けられた入口から地下へと潜り、
ご本尊の御座す御厨子(ずし)の直下、
長さ三十一間(56.7メートル)の回廊を巡る、
精神修養の場。
回廊内へ進むと、内部は一寸先も見えない暗闇
他に「御戒壇巡り」に挑む参拝客はいないようで、
私の手が壁に触れる物音の他は、
一切の音も気配も感じられない、
正真正銘の「静寂」。
頼りとなるのは腰の高さに上げた右手で、
回廊右側の壁面を手探りで進む。
地蔵菩薩の真言(サンスクリット語由来で、
(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意)を唱えながら
階段(と言っても文字通りの「階段」では危険なので、
「スロープ」に近い)を降り、
曲がり角をいくつか曲がっていくと・・・
手に何かが触れた感触。
これは御法印※を納めた御法箱と呼ばれる
箱を封じるための、錠前
この錠前はご本尊である地蔵菩薩立像の
御手に結び付けられており、
錠前に触れることによって、
ご本尊と結願出来る、
すなわちご縁で結ばれる、
というもの。
無事ご本尊との結願叶い、ひと安心。
(皆さんも、レッツ・チャレンジ♪)

「御戒壇巡り」の後は、本堂(地蔵堂)裏手へ。
順路に沿って、書院や庫裏が並びます。
手前の書院はちょうど本堂(ご本尊)の裏側に当たり、
裏地蔵尊と呼ばれる
ご本尊の複製を、厨子の向こうより拝めるそう。
(今回はパス)

僧侶 の生活の場となる建物・庫裏(くり)の頂部には・・・

細やかな彫刻と、立派な鬼瓦!

境内最奥に建てられた仏堂・阿弥陀堂(あみだどう)
その名の通り「西方浄土の主」・
阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀るお堂で、
ご本尊は木造阿弥陀如来立像
共に堂内に納められた木造阿弥陀如来坐像とともに
重要文化財に指定されています。
手前に建てられた「国寶(宝)阿弥陀如来」と刻まれた
石碑ですが、
ここで言う「国宝」とは、昭和25(1950)年の
文化財保護法施行以前に
国宝指定を受けていた、いわゆる旧国宝

仏教寺院の象徴・五色幕の向こうに・・・

厨子に納められた、
木造阿弥陀如来立像の
神々しき立ち姿!
(隣(画面外)には同じく重要文化財指定を受けた、
木造阿弥陀如来坐像も控えています)

最後に「四天王」の一尊・毘沙門天(多聞天)を祀った
毘沙門堂にお参りしてから、
再び「宿場町巡り」へ戻ります!
参考:境内解説パネル
Wikipedia