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湖北旅5 ~激戦の跡・大岩山~

木之本宿 2-5
賤ケ岳の戦い

天正11(1583)年4月、
本能寺の変に斃れた巨星・織田信長の跡を継ぐ
天下人の座を巡り、
「主君の仇討ち」を為して織田家中での地位を
急速に高めつつあった羽柴秀吉(はしば ひでよし。
のちの豊臣秀吉)と、
織田家の「筆頭家老」として、
北陸に一勢力を形成していた柴田勝家(しばた かついえ)が
雌雄を決した戦い。

その因縁は本能寺の変が起こった
天正10(1582)年、織田家の次期当主を決める
清州(清須)会議(きよすかいぎ)より始まり
(さらに言うと、信長存命当時から両者は不仲であったとされています)、
勝家・織田信孝(信長三男)派、秀吉派で織田家中が
二つに分かれたことから、ついに武力衝突に発展。

北陸が雪で閉ざされた隙を突いた秀吉の
湖北(「清州会議」で柴田領とされていた)、
美濃(信孝領)の占領と伊勢(柴田派に付いていた
織田家宿老・滝川一益(たきがわ かずます)の領国)への
侵攻を受けた勝家が北近江へ出兵したことから、
ついに両者の直接対決へと至ります。

今回からは天下分け目の戦いとも言える
一大決戦、
その旧跡を辿って、歴史の脈動に
思いを馳せて行きたいと思います。

4.12 Monday
賤ケ岳 1
「湖北旅」2日目。

木之本宿巡りに勤しんだ1日目同様、
芽生えの季節を感じる卯月晴れとなったこの日。

まずは宿場町の玄関口・木ノ本駅から、
北陸本線の普通列車に乗車。
一駅、3分ほどの乗車で・・・
賤ケ岳 2
合戦地への玄関口となる、余呉駅(よごえき)に到着!

賤ケ岳 3α
今回の散策ルート(赤線)は、こんな感じ。
通常であれば賤ケ岳南麓・木之本町側から
速くて楽なリフト(黄色い丸)が運行されているのですが、
私がこの地を訪れた4月12日は、未だ
冬期休業中
(今年度は4月17日(土)~11月30日(月)の営業)

同様のコースで登山道も設けられてはいるのですが、
そこまでの移動手段と所要時間が不便

そのため列車で戦域北側の余呉駅に出て、
そこを出発点に駅東側の登山口(オレンジ表記)から登山道へ。

激戦地の一つである大岩山(赤丸部分)に寄り道して
合戦に関連する旧跡を辿りながら
賤ケ岳(青丸部分)に登り、
飯浦切り通しを抜けて余呉湖畔から
余呉駅へと戻る、というコース。
賤ケ岳 4
てな訳で、まずは賤ケ岳登山口を目指し、
余呉駅を出発。

駅の東側を流れるのは余呉導水路という、
治水と利水を目的として昭和35(1960)年に
造られた水路。

少し上流の余呉町中之郷(なかのごう)地区で
余呉川より取水され、
余呉湖へと水を流すことで、
増水による水害のリスクを軽減しています。

岸辺には桜並木が続き、
には桜の名所としても人気なのだとか。
(今年の桜は早咲きであったため、
訪問時にはほとんど葉桜となっていました。残念💦)
賤ケ岳 5
もう一つの春の主役・菜の花は、
まだ元気に咲き誇っています♪
賤ケ岳 6
駅から5分ほどで、賤ケ岳登山口に到着!
ここから片道標準一時間(私の場合、散策に「標準以上」の時間を
掛けるのが、毎度のことですが 笑)の
ハイキングがスタート!
賤ケ岳 7
・・・と、登り始めたところで小さなを発見!
行路の安全と好天を祈り、お参り。
賤ケ岳 8
改めまして、散策スタート!
第一目的地の大岩山砦は、
標高280mの大岩山山上。

別段高い山でもないため、
目標地点までは緩やかなアップダウンが続きます。
(ただし余呉湖側から登った場合は
急坂チャレンジとなるそうです)
賤ケ岳 9
登山道の途中で現れる、分岐点。
左手の道は大岩山の隣・岩崎山に築かれた、
岩崎山砦に通じています。

岩崎山砦は賤ケ岳の戦いの際、
羽柴方の将でキリシタン大名としても知られる
高山重友(たかやま しげとも。
右近の名で知られる)が守備。

広範囲に郭や櫓などを配置した備えを持っていましたが、
柴田軍の攻撃で大岩山砦が陥落したため、
重友は戦線後方へと撤退

賤ケ岳を守る二つの砦は、
ともに柴田軍の手に落ちることとなりました。
賤ケ岳 10
大岩山まで、1km。
賤ケ岳 11

賤ケ岳 12
新緑広がる木々の間を、進む。
賤ケ岳 13

賤ケ岳 14
道端の倒木を愛でながら進むこと、30分ほど。
鬱蒼とした木立の間から・・・
賤ケ岳 15
土塁のようなものが現れました。
賤ケ岳 16
土塁上面には、武者走り(むしゃばしり。城壁や城に巡らされた
土手の内側に設けられた通路)が確認できます。
賤ケ岳 17
賤ケ岳側に開かれた、
坂虎口と呼ばれる坂道を上ると・・・
賤ケ岳 18
大岩山砦に到着!
賤ケ岳 19
大岩山砦は賤ケ岳の北麓、標高280mの大岩山上に築かれた砦で、
「二ノ丸」に当たる二の郭
本丸に当たる詰郭の二つの郭から構成。

賤ケ岳の戦いの際には、
羽柴方に付いていた摂津茨木城主・
中川清秀(なかがわ きよひで)が守り、
柴田軍の侵攻に備えていました。

そんな中、一度は秀吉に降伏しながら、
再び反旗を翻した織田信孝を討つため、
総大将・羽柴秀吉は美濃へ。

その隙に柴田軍の将・
佐久間盛政(さくま もりまさ)率いる軍勢が
大岩山砦を急襲

守将・中川清秀は自ら坂虎口に出て
防戦の指揮を執ったものの、衆寡敵せず討死
大岩山砦も陥落し、
隣接する岩崎山砦ともども柴田方のものとなりました。

この緒戦の勝利に対し、柴田軍総大将・柴田勝家は
奇襲部隊を指揮した盛政に対し、撤退を指示。

この撤退命令を盛政が無視したことが、
美濃大返しと呼ばれる
秀吉の反転攻勢を招くこととなりました。
賤ケ岳 20
合戦に備えた「野戦陣地」とも言える造りの
大岩山砦ですが、
守勢に対する備えも残されています。

砦の一部には黄線で示したように
敢えて土塁に屈曲した部分が設けられていますが、
これは横矢掛りと呼ばれる、
土塁を攻め上って来る敵勢に対し、
側面から矢玉を撃ちかけるためのもの。

また二の郭東側と先ほどの坂(坂虎口)には
防御性を兼ね備えた出入り口・
虎口(こぐち)が置かれ、
そこで攻め寄せる佐久間勢を防いだと思われます。
賤ケ岳 21
大岩山砦東側に広がる斜面。

こんな急峻な崖を駆け上って斬り合いをしたと
言うのだから、
昔の人のスタミナは凄まじい!
賤ケ岳 22
大岩山砦の「本丸」に当たる、詰郭。
その最奥に建てられているのは、
中川清秀主従の墓
賤ケ岳 23
本能寺の変後は羽柴秀吉に味方し、
山崎の戦いで活躍を見せた清秀。

佐久間隊の攻撃に対しても、
自ら槍を揮って奮戦した清秀でしたが、
勢いに乗る敵勢の猛攻の前に、
ついには斃れることとなりました。
享年42。

現在砦跡に建つ墓塔は、
豊後国(大分県の大部分)岡城主として存続した
中川氏の四代・久恒(ひさつね)公によって建てられたもので、
この地で名誉の討死を果たした、
祖先とその従者たちを称え弔っています。

参考:滋賀県観光情報 滋賀・びわ湖のすべてがわかる
    各所解説パネル
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。