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湖北旅6 ~絶景!賤ケ岳~

賤ケ岳 2-1
賤ケ岳の戦いの前哨戦、
激闘が繰り広げられた舞台である大岩山砦を訪ねた私。
次はいよいよ賤ケ岳を目指します!
賤ケ岳 2-2
大岩山賤ケ岳に掛けては、建材に用いるための
植林も行われている様子。

根元に巻き付けられているビニールは、
「商品」である木材が風雨で倒れるのを
防ぐためのものでしょうか?

※閲覧注意
賤ケ岳 2-3
大岩山から賤ケ岳へ続く尾根。
その途上にも、
戦いにまつわる場所が点在しています。
その一つがこの首洗いの池

大岩山砦にて壮絶な討死を遂げた守将・
中川清秀

その遺体はこの地に住まう土民(どみん)たちによって運ばれ、
柴田勢の目の届かぬよう、谷に降ろして芝で隠されたそう。
(非情なる戦国時代にも、情に溢れた人たちも
居たのですね・・・( ;∀;)

その際清秀の首を洗ったのが、
この池とされています。
賤ケ岳 2-4
首洗いの池から進んだところ、
アップダウンのてっぺんに在る狭小な平坦地は・・・
賤ケ岳 2-5
猿が馬場と呼ばれる場所。

大岩山砦の戦いで中川清秀を討ち取り、
次いで岩崎山砦も確保した柴田軍の精鋭・
佐久間盛政(さくま もりまさ)隊。

佐久間隊は総大将・柴田勝家(しばた かついえ)からの
撤退命令を無視して
賤ケ岳に迫ったものの、
守将・桑山重晴(くわやま しげはる)と合流した
羽柴派の織田重臣・丹羽長秀(にわ ながひで)率いる軍勢の反撃、
さらに美濃・大垣城(約50km離れている)よりわずか5時間
引き返して来た(いわゆる美濃大返し)羽柴本隊の攻撃を受け、
撤退を開始。

その際羽柴軍大将・羽柴秀吉が本陣を置いて
追撃戦を指揮したのが、
この「猿が馬場」とされています。
(「猿」と呼ばれた秀吉公が馬上で指揮を執ったことから、
名前が付いた・・・とか?)
賤ケ岳 2-6
大岩山(標高280m)と隣の賤ケ岳(同421m)との
標高差は、100m以上

猿が馬場を過ぎたあたりから、
行く手には厳しい上り坂が出現。
賤ケ岳 2-7
木立に囲まれた狭い道を、汗をかきつつ上る。
賤ケ岳 2-8
今度は短い下り坂。
足下には散ってしまった桜の花
賤ケ岳 2-9
いよいよラストスパート!
写真では分かりづらいですが、
登坂者を阻むかのように、一際険しい坂が続きます。
賤ケ岳 2-10
そしてついに・・・
賤ケ岳 2-11
標高421m、賤ケ岳山頂に到着!

賤ケ岳の戦いでは、
羽柴家臣で但馬竹田城(「天空の城」で有名な、あのお城です!)主の
桑山重晴(くわやま しげはる)が
賤ケ岳の守備を担当。

大岩山・岩崎山の二砦を落とした佐久間隊の勢いに
一度は砦を放棄しようとしましたが、
海津(現在の高島市マキノ町)より船で上陸して来た
丹羽長秀(にわ ながひで)の援護を得て、
賤ケ岳防衛に成功しました。

そんな戦いの舞台でもある賤ケ岳
辿り着くのも一苦労な山の上ですが、
それだけに山上からの眺めは素晴らしく・・・
賤ケ岳 2-12
左手には、豊かな恵みをもたらす湖北平野!
賤ケ岳 2-13
平野の北端には、木之本の町並み。
賤ケ岳 2-14
気まぐれに雲隠れする滋賀県の最高峰・
伊吹山(いぶきやま、標高1,377m)も、
今日はハッキリ見えています♪

その右手前には、戦国大名・浅井氏の本拠であった、
小谷山(おだにやま、494.6m)の姿も。
賤ケ岳 2-15
右前方に目を転じれば、
日本一の湖」・琵琶湖北端部!
賤ケ岳 2-16
島内に一社一寺が鎮座する、
神の島」こと竹生島(ちくぶじま)も良く見えます!
賤ケ岳 2-17
琵琶湖の彼方には、
六角氏の本拠・観音寺城が置かれた
繖山(きぬがさやま、432.9m、写真中央)と、
あの安土城が建っていた、
安土山(198m、同左)。
賤ケ岳 2-18
後ろを振り向けば、余呉湖
凪いだ湖面が輝きます♪
賤ケ岳 2-20
賤ケ岳山上からは、合戦場も一望の下。
右手には、大岩山や先ほど訪れた大岩山砦の跡。
その隣に岩崎山(岩崎山砦跡)。
賤ケ岳 2-19
余呉湖の周囲にも、合戦に関わる場所が点在しています。

右手の堂木山(どうぎやま)は羽柴軍の防衛線を成した
堂木山砦の跡で、
賤ケ岳の戦いでは羽柴軍に降伏した
長浜城主・柴田勝豊(しばた かつとよ)の家老・
山路正国(やまじ まさくに)が着陣。

しかし佐久間盛政の調略を受けて、
柴田方に寝返り
佐久間隊とともに味方であった
大岩山・岩崎山の二砦を攻撃しました。
(最期は秀吉家臣の配下に討たれたとも、
加藤清正に討たれたとも言われています)

中央に見える神明山(しんめいざん)は、
堂木山砦、その右の東野山砦(守将・堀秀政)とともに
羽柴軍の最前線となった、神明山砦の跡。

賤ケ岳の戦いでは「小六」の名で知られる
秀吉直臣・蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)と、
羽柴方に付いた木村重茲(きむら しげこれ)が守備を担当。

柴田軍の攻撃を受けた際には「官兵衛」こと
黒田孝高(くろだ よしたか)も駆けつけ、
防戦に成功しています。

そして左手に見える小高い山・茂山(しげやま)は、
のちの「加賀百万石」の開祖で、
能登と越前府中(現在の福井県武生市)の領主であった、
前田利家(まえだ としいえ)とその嫡子・
利長(としなが)の陣所跡。

柴田勝家の与力(配下)として北陸平定に従事し、
賤ケ岳の戦いでも柴田方諸将に
恃みとされていた前田勢。

しかし両軍入り乱れての激闘の最中、
友軍の撤退を援護すべき位置にいた前田勢は、
突如として戦線を放棄し、
越前府中城へと撤退

これにより士気が低下し動揺が広がった柴田軍は、
戦線を支えきれずに壊滅
戦いは羽柴軍の勝利に終わりました。
(追うように戦場を離脱した金森長近(かなもり ながちか)、
不破勝光(ふわ かつみつ)ともども、
当初より秀吉に通じていたと考えられます)
賤ケ岳 2-21
柴田軍総大将・柴田勝家は、
余呉町柳ケ瀬付近に築かれた
玄蕃尾城(げんばおじょう)に着陣し、
合戦を指揮。

前田隊などの撤退と佐久間・
柴田勝政(しばた かつまさ。勝家の甥)隊などの壊滅により
自軍の敗戦が決定的となると、
身代わりを申し出た毛受(めんじゅ)兄弟に
自身の馬印(大将の存在を示すために掲げた印)を託し、
撤退を開始。

羽柴軍の追撃を振り切り、栃ノ木峠から国境を越え、
越前・北ノ庄城への逃亡に成功します。

しかしながら戦勝に乗じた秀吉の追撃は厳しく、
わずか4日後の4月25日、
本拠・北ノ庄城にて妻・お市の方とともに自害

これにより畿内に加えて美濃・伊勢、
さらに北陸西部までも勢力下に加えた秀吉は、
天下統一への道を邁進して行くこととなりました。
賤ケ岳 3-1
北近江一望の絶景が楽しめる、賤ケ岳。
次回はここが戦略上重要であったことを示す、
要塞としての痕跡を探します。

参考:滋賀県長浜市 観光パンフレット
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。