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湖北旅8 ~余呉湖畔を歩く~

賤ケ岳 3-6
激戦地・大岩山から湖北一望の賤ケ岳へ上り、
今度は賤ケ岳山頂から山道を下りて、
やって来ました・・・
余呉湖 1
余呉湖(よごこ)

滋賀県北部、賤ケ岳を挟んだ琵琶湖の北側に位置する湖で、
面積およそ1.8km、周囲約6.4km、
平均水深約7m、最大水深13m。

琵琶湖の一部として100万~200万年前頃に
形成されたものが約3万年前に分離して、
独立した湖沼になったとされています。

古くは大江(を(お)おうみ)と称された琵琶湖に対し
伊香の小江(いかのを(お)うみ)と呼ばれ、
穏やかに凪いだ湖面から、
現在では鏡湖という別名でも親しまれています。
余呉湖 2
この余呉湖を巡るエピソードとして著名なのが、
羽衣伝説(はごろもでんせつ)

その昔、湖畔に飛来して水遊びを楽しんでいた
8人姉妹の天女たちがいました。

無垢に遊ぶ彼女たちに恋心を抱いた地元の士・
伊香刀美(いかとみ)は、
飼い犬をけしかけて天女たちがまとっていた
羽衣一つを盗難

異変に気付いた天女たちが飛び立つ中、
羽衣を盗まれてしまった末妹は飛び立つことが出来ず、
天界への帰還を諦めて伊香刀美のとなり、
二男二女を設ける、というお話。

こうして伊香刀美と天女との間に生まれた子供たちが、
伊香地域を拓いた豪族・伊香連氏(いかごのむらじし)の
開祖とされています。
(恐らく名族としての権威付けをするために、
土着、あるいは外来の物語と結び付けた
説話と思われます)

最終的に天界への帰還を願いながら伊香刀美の妻として、
四子の母として暮らしていた天女は、
羽衣を見付けて天へと帰る
というのが物語の結末。

この話は奈良時代から語られていたそうで、
同種の逸話としては最古のものであるのだとか。

また別のお話として、
羽衣を盗んだのは桐畑太夫という漁師で、
古の説話と同じ結末を辿るのですが、
天女から産まれたのが
菅原道真(すがわらの みちざね)公である、
というものもあるそう。
(母のない幼き菅公を憐れんだ余呉町坂口・
菅山寺(かんざんじ)の僧・尊元阿闍梨(そんげんあじゃり)が
菅公を引き取って養育を施し、
この地を訪れた公家・菅原是善(すがわらの これよし)卿の
養子となって、やがて京師に名を轟かせる政治家・大学者となった、
というのが、「日本地誌大系」に語られる「道真誕生伝説」。)

この他湖畔には、人に生まれながら゛蛇体″となり、
自ら湖中に入った龍神・菊石姫伝説
残されており、
歴史と浪漫を感じる風土となっています。
余呉湖 3
余呉湖畔から見た、大岩山(右)と岩崎山(左)

豊富な水量と澄んだ水質から、
多くの動植物が棲まう命の水場でもある、余呉湖

余呉湖の特産物であり、ここと琵琶湖にのみ生息する固有種・
イワトコナマズをはじめ、
ワカサギ、フナ、コイ、ウナギ、ナマズなどの豊富な魚類に加え、
冬期には水鳥が飛来する姿も見られるそう。

また気軽に楽しめるワカサギ釣りも、
余呉湖の冬の風物詩だそう。
余呉湖 4
賤ケ岳から下って来た道の右手、
湖畔に広がる空き地は、
国民宿舎余呉湖荘の跡地。

眼前に余呉湖を望む好立地で、
昭和48(1973)年の開業以来宿泊客を迎え入れて
いましたが、施設の老朽化から
平成25(2013)年9月を以て閉館

昨年(令和2年)に建物は取り壊され、
今は更地と化しています。
余呉湖 5
賤ケ岳中腹から余呉湖畔へと続く、
飯浦越切通し(はんのうらごえきりとおし)

余呉湖畔から琵琶湖北岸・飯浦港への
通行路として開削された道(いわゆる「切り通し」)。

今日では散策路として親しまれている道ですが、
賤ケ岳の戦いではこの道も激戦地となり、
撤退を試みる柴田軍と追撃する羽柴軍との間で
死闘が繰り広げられました。

名高い「賤ケ岳の七本槍」(+2名)の面々も、
この飯浦越切通しで目覚ましい活躍を
見せています。
余呉湖 6
杉の木立桜の並木が並ぶ、湖畔の散策路。

今でこそ静かな風景が広がる余呉湖畔ですが、
合戦当時はこの付近も両軍入り乱れての
激闘の舞台であったそう。

この散策路(当時は湖畔の浜辺であったのでしょう)も、
合戦終結後は両軍の戦死者と負傷者で
死屍累々となっていたことでしょう。南無。
余呉湖 7
の樹上には、わずかに散り残った花も。
(注:4月中旬の訪問です)
余呉湖 9
余呉湖畔の楽しみは、もう一つ。

大岩山山麓で可憐な黄色い花を咲かせているのは・・・
余呉湖 10
キク科の植物、サワオグルマ

日当たりの良い湿地(条件ピッタリ!)、
田の畔(あぜ)などに群生する、
日本特有種

5~6月に掛けて黄色い花を咲かせる・・・そうなのですが、
訪問したのはまだ桜も残る4月中旬

季節の進みが早い今年ですが、
ここでも巻き気味な四季の移ろいを感じる。
余呉湖 11
せっせと花の蜜を集める、くん
余呉湖 12
しばらく散策路を歩くと、尾の呂が浜(おのろがはま)
と呼ばれる、湖畔の浜辺へ。

付近は公園となっており、桜の木が立ち並ぶ
のどかな風景が広がっていますが・・・
余呉湖 13
実はココ、賤ケ岳の戦い開戦の場

天正11(1583)年4月20日の早朝、
ここで馬を洗っていた中川清秀(大岩山砦守将)配下の
馬屋係二人が、来襲した佐久間盛政隊の
兵に切り殺されたことから、
戦端が開かれました。
余呉湖 14
尾の呂が浜に打ち寄せる

当日はこのような晴天ではなく
雨止みの天気だったそうですが、
襲われるとは露知らず、のんびり馬を洗う二人の姿と、
(おそらく)立ち込めた霧に紛れ、
息を潜めて近付く佐久間兵の緊張感が
伝わってくるようです。
余呉湖 15
尾の呂が浜(古戦場広場)に咲く、
八重桜
余呉湖 16
盛りは過ぎているようですが、
元気に咲き誇っていました♪
余呉湖 17
さらに進むと、道端に複数の大岩が出現。
これらは岩崎山の大岩と呼ばれる岩石群。

岩崎山と言えば、羽柴方の武将・
高山重友(右近)が守将を務めた
岩崎山砦の在った場所ですが、
かつてはこの岩崎山余呉湖畔いっぱいにまで
広がっていたのだそう。

しかしながらのちの道路拡張に際して山体の一部は
取り除かれてしまい、
こうして一部の岩が当時の名残りを留めている次第。
余呉湖 18
八重桜の木の半ばにも達しようかという巨岩が、ゴロゴロ。
余呉湖 19
咲き誇る菜の花を横目に・・・
余呉湖 20
余呉湖北端に到達!
穏やかな湖水の向こうには、賤ケ岳も見えています!
余呉湖 21
この日の散策はここまで!
余呉駅から米原・京都方面へ向かう新快速に乗り込み、
木之本宿へ戻ります!
余呉湖 22
宿に戻って頂いた、地元の特産物二点!
木ノ本駅内の物産店・「ふれあいステーションおかん」にて
購入した、和りんごサイダー
金のでっちようかん
余呉湖 23
エントリー№1、和りんごサイダーは、
一般的な「西洋りんご」とは異なる日本原産種・
和りんごを用いて作られた炭酸飲料。

その果実はとても小さく
大きくて甘い西洋りんごに押され、
ほとんど栽培されなくなったのだとか。

そんな「和りんご」でも、この「和りんごサイダー」には
長浜市小谷で栽培されたものが使われており、
かの戦国武将・浅井長政(あざい ながまさ)も
幼少期に好んで食べた品種だそう。

その味は広く流通している西洋りんごとは異なる
落ち着いた風味と甘味で、
炭酸飲料特有の「シュワシュワ感」の中にも、
品のある味わいに仕上がっています。
(長政公が食したのも、納得の味?)
余呉湖 24
もう一品は、木之本宿内に店を構える菓子舗・
菓匠 禄兵衛(かしょう ろくべえ)が製造・販売する、
金のでっちようかん

近江銘菓・でっち羊羹は、
砂糖と小豆、小麦粉を練り合わせた羊かんを
竹皮に包んで蒸しあげた、蒸し羊かん。

大坂や関東の商家へ奉公に出された
丁稚さん(見習い商人)達が
帰郷した際、奉公先のご主人や番頭さんへのお土産として
手頃な価格設定の蒸し羊かんを購入したことから、
いつしか「でっち羊羹」と呼ばれるようになったそう。

異説では菓子屋用語でこね合わせることをでっちると言い、
小麦粉と小豆餡を練り合わせる工程から
「でっちる羊羹」、
転じてでっち羊羹となった、
とも言われているそうな。
(木之本宿では丁稚さんが木之本に帰郷した際、
母親が手作りのお菓子をこしらえて、
奉公先へ戻る時のお土産として持たせたのが
由来、とされています)
余呉湖 25
「菓匠 禄兵衛」で販売されている
金のでっちようかんは、
そんな近江銘菓の高級ver.ともいえる一品で、
ベースとなる製法は一般品と同一ながら、
徳島県産の和三盆糖
良質で粒の大きい北海道十勝産小豆
特別な製法で作られたという国内産小麦といった
厳選素材を使用。
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それらの素材を丁寧に仕上げた一品は、
しっとりとした食感ときめ細かい口当たり、
和三盆糖の品のある甘さと
小豆の風味が後を引く、
名前に恥じない逸品でありました♪

参考:滋賀県観光情報 滋賀・びわ湖のすべてがわかる
    余呉観光情報
    大箕山菅山寺(たいきさん かんざんじ)
    和た与 公式ホームページ
    Wikipedia

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。