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湖北旅9 ~大名家のルーツと、重文・観音菩薩像~

4.13 Tuesday
黒田地区 1
湖北旅3日目。
この日もお宿(草野旅館)でゆっくり朝食を頂いてから・・・
黒田地区 2
いざ、散策!

この日は過去2日とは打って変わって
あいにくの雨模様となりましたが、
ちょっと足を延ばして木之本宿郊外へ!

前回記事にてご紹介した「天女伝説」の登場人物・
伊香刀美(いかとみ)その人を祀ったと言われる
「湖北の名社」・伊香神社(いかじんじゃ)を
目指します!
黒田地区 3
北陸本線を踏切で越えると、
なにやら趣のある集落へ。
黒田地区 4
藁ぶき屋根の古風な家屋
黒田地区 5
立派な土蔵
黒田地区 7.5
澄んだ水が流れ出る水路など、
やはり歴史在る集落の風景。ここの名前は・・・
黒田地区 6
長浜市木之本町 黒田地区

歴史好きの方ならば、ピンと来るかも知れません。
実はココ、戦国末期に天下人・羽柴(豊臣)秀吉の懐刀として
活躍した稀代の謀士・黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえ よしたか)を
輩出し、のちに筑前福岡52万余石を興した大名家・
黒田氏誕生の地なのです!
黒田地区 7
バス停や公共施設等も、名前は「黒田」。

元々黒田氏が播磨(兵庫県南西部)の豪族・
小寺氏に仕えていたことは知っていましたが、
そのルーツが近江だったとは・・・
オドロキ。
黒田地区 8
黒田氏のルーツがここである!
ということを示す証拠も、しっかりと残されています。

それが集落の中心・「黒田集会所」内に佇む・・・
黒田地区 9
黒田家始祖御廟所(くろだけしそごびょうしょ)
黒田地区 10
黒田氏は元々、近江国を本拠地とした有力氏族・
佐々木源氏の末裔で、
佐々木氏から枝分かれした氏族・京極氏出身の
源宗清(みなもとの むねきよ)公が
近江国黒田荘を拝領し、「黒田判官」を名乗ったのが
始まりとされています。

以後六代・二百年間をこの地で過ごした黒田氏でしたが、
六代・高政(たかまさ)の時、
京都で起こった足利将軍家と細川家の内紛・
船岡山合戦
主君・六角高頼(ろっかく たかより)の命に背いて
抜け駆けを敢行。

戦にこそ勝利しましたが、
これが将軍・足利義稙(あしかが よしたね)の不興を買い、
所領の黒田荘を取り上げられた上、
追放処分とされてしまいます。

以後備前国邑久郡(おくぐん)福岡
(現在の岡山県瀬戸内市)、
次いで七代重隆(しげたか)の代に
播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)に住み、
九代孝高(よしたか。「官兵衛」)の時に
羽柴秀吉の軍師として名を上げることとなりました。

そして十代・長政(ながまさ)が
関ヶ原の戦いで武功・調略両面で
多大な勲功を上げると、
一躍筑前福岡52万3,000余石の藩主にまで立身。

以後黒田氏は大藩の主として明治維新までのおよそ260年、
その地位を保つこととなりました。
黒田地区 11
御廟所右手に祀られた石塔は、
昭和48(1973)年に集会所を改築した際、
敷地内より出土したもの。

その表面に「源宗清」の名が確認できたことから、
黒田地区は黒田氏発祥の地であることが
確定しました。

石塔出土の翌年には末裔に当たる黒田家によって
石塔を覆う「覆屋」が建てられ、
「父祖の地」として大切に守られています。

ここからは予定を変更しまして、
「伊香神社」参拝から、黒田地区周辺の探索へとスイッチ!
黒田地区 13
集落の外に出ると、一面に広がるのどかな風景。

黒田氏の祖先に当たる人たちも
こんな景色の中で暮らしていたのかと思うと、
しみじみとした気持ちに。
黒田地区 12
穏やかに流れる余呉川を渡り・・・
黒田地区 14
これまた趣のある集落へ。
黒田地区 15
ご丁寧に案内板の貼られた土蔵を左に曲がって、
少し進むと・・・
黒田地区 16
水田の向こうに、赤屋根の建物が見えて来ました。
黒田地区 17
ここは黒田観音寺という
臨済宗妙心寺派に属する寺院で、
正式名は「霊応山観音寺」。

その由緒は古く、創立年は不明ながら、
奈良時代の神亀年間、諸国を巡礼していた
行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地に立ち寄った際、
人々に仏の教えを広めるため、自ら千手観音像を彫って
建立したお堂に納め、「三縁山観音寺」と号したのが
始まりとされています。

その後長い年月の中で火災戦火のために
寺は荒れ果ててしまいますが、
ある時(「重文観世音菩薩略記」に記された
黒田氏開祖との関りから、鎌倉時代末期と推察される)
巡錫の途上に在った臨済宗の高僧がこの地を訪れ、
荒廃した寺の様相とご本尊の美しき姿に驚き、
托鉢に回って浄財を得て寺を修復

現在の寺号である「霊応山観音寺」の名を付けました。
黒田地区 18
この際支援を申し出たのが、
この地を治めていた「保崎谷長者」こと
黒田氏の開祖・源(黒田)宗清公。

宗清公はこの僧侶の観音寺再興の試みを聞き、
自身も多額の浄財を寄進して
在郷の人々にも寺門に帰依するように勧めました。

本堂前に建てられた二基の石塔は、
宗清公の墓だと言われているそうな。
(意外なところで繋がりが!)


このお寺の目玉となるのが、
ご本尊である千手観世音菩薩像
行基作と伝わる逸品ですが、
推測される製作年代は、平安時代初期
あるそうな。

おそらく元の菩薩像はお寺の説明でも述べた通り
火災戦火で失われており、
その後何者かによって彫り直されたものと思われます。

いずれにしても歴史的・文化的価値に優れた
尊像であり、国の重要文化財指定を受けています。

もちろん拝観も可能ですが、
ご本尊を納めたお堂が一棟、
それに管理棟が寄り添うだけの小さなお寺。

本堂に貼り付けられた連絡先に電話を掛け、
待つこと十分・・・
黒田地区 21
ご本尊・千手観世音菩薩像と、ご対面!
(堂内撮影禁止のため、観光情報サイトより拝借)

厳重に施錠がなされた厨子。
その扉から現れたのは、ハッと息を呑むような、
神々しさを感じる立ち姿。
(この写真よりもずっと、威厳と荘厳さを感じました)

像高1m99cm、台座となっている蓮の花状の
「蓮台」を含めた高さは約3m。

左右合わせて十八(「千手」では無かった)取り付けられた
御手には、それぞれ法器( 仏事に用いる道具。仏具。法具)、
宝瓶、宝珠、宝剣、法蓮華経、蛇身宝塔など
多数の仏具を持ち、
一対の錫杖と三叉(さんさ)を携えています。

その表情はキリリと引き締まり、
切れ長の瞳が対坐する者を見定めているかのよう。

身にまとった衣は、写実的にして実に優美。
製作者の技巧と、御仏に対する思いが伝わって来る、
見事な逸品でありました。

お寺を管理する方から渡された説明文によりますと、
形式的には千手観音よりも、「諸仏・諸菩薩の母」と称される
准胝観音(じゅんていかんのん)に近いとする
見方もあるそうですが、
傍らに置かれた、兵火で焼かれた「仏像だったもの」と
この像の対照的な姿を見るに付け、
この地の人々によって大切に守り伝えられて来たことが
感じられました。
黒田地区 19

黒田地区 20
美しき観音像と対面を果たした後は、
のどかな黒田荘の風景を眺めながら、
木之本宿へと戻ります。

参考:黒田観音寺 重文観世音菩薩略記
    長浜・米原を楽しむ 観光情報サイト
    Wikipedia
    コトバンク

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。