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大津巡りagain 1 ~千古の名所・瀬田の唐橋~

瀬田の唐橋 22

2021年、G・W
序盤はに祟られてしまいましたが、
晴れ間が現れた5月3日(月)は湖西地方・高島市近郊の
高原リゾート・びわこ箱館山を訪問。

翌日(4日)は寮でゆっくり過ごし、迎えた5日(水)。
続く晴天を味方に、G・W2度目となるお出掛けを敢行!
向かうは1月以来となる滋賀県都・大津市!

今回は古代より交通の要衝として人々に親しまれて来た名所・
瀬田の唐橋を手始めに、
日帰りにて大津市内に残存する歴史スポットを巡って参ります!

5.5 Wednesday
瀬田の唐橋 1
2日前(3日)に続いてG・Wらしい爽やかな晴れ間が広がる、
連休6日目(私の職場は4月30日~)。

この日は居住地・竜王町の隣町、
滋賀県湖南市に在る最寄り駅の一つ、
草津線三雲駅からスタート!

まずは緑色の国鉄型電車・113系に揺られ、
琵琶湖線に接続する同線の終点・草津駅へ!
瀬田の唐橋 2
そこから琵琶湖線普通列車に乗り換え、
3駅・10分ほどで・・・
瀬田の唐橋 3
目的地に近い、石山駅に到着!

明治22(1889)年開業、古刹・石山寺参拝を意識して設けられたこの駅は、
市街地の拡張と琵琶湖線の複々線化による利便性の向上、
駅周辺の整備によって、
今では大津市西部の主要駅として発展。

京阪神地域へと直通する「西の韋駄天」・新快速
停車駅となっている他、
大津市街を南北に結ぶ京阪石山坂本線との
乗り継ぎ駅としても機能しています。
(京阪に乗り換えれば、石山寺の近傍までラクラク
アクセス出来ます!)
瀬田の唐橋 4
中世の「メインストリート」・東海道の隣という
要所に立地している、石山駅

駅前には、東海道を辿って大津に立ち寄った「俳聖」・
松尾芭蕉(まつお ばしょう)の銅像が建てられています!
瀬田の唐橋 5
有名な「おくのほそ道」に旅立つ4年前の貞享2(1685)年、
「野ざらし紀行」の途上で大津にやって来た、42歳の芭蕉。

この時芭蕉のもとに門弟たちが集まって結成されたのが、
近江蕉門(おうみしょうもん)と呼ばれる、
芭蕉を慕う膳所(ぜぜ)藩士や彦根藩士といった武士階級、
僧侶、商人、医師、農民といった幅広い層の人々によって形成された
俳句の一門。

彼らとの交流と大津の風土を好んだ芭蕉は、
近津尾神社(ちかつおじんじゃ、大津市国分)境内に営まれていた草庵・
「幻住庵(げんじゅうあん)」に滞在し、4ヶ月の居住と後年の再訪を通して、
生涯残した俳句のうち一割に当たる89首を大津の地で詠み、

五十一歳で亡くなった際には、遺言によって
現在の大津市馬場一丁目に門を構える
義仲寺(ぎちゅうじ。源平合戦で活躍した
「朝日将軍」・源(木曽)義仲の墓所でもあり、
芭蕉翁の墓は義仲公とその妻・巴御前と並んで建てられています)に
葬られました。
瀬田の唐橋 6
石山駅を出ると、早速東海道に遭遇。

古くは律令体制下で定められた五畿七道の一つに組み入れられ、
江戸時代以降は五街道として幕府によって整備・拡張されて
江戸・日本橋と京都・三条大橋を結んだ、
中世のメインストリート

大津市内には沿道に置かれた五十三の宿場町
(いわゆる「東海道五十三次」)の一つ、
大津宿(大津市御幸町付近)が設けられ、

京都を目指す旅人にとっての最後の休息所として、
あるいは京都を発った旅人が立ち寄る最初の中継地点として、
東海道最大規模の宿場町が
整備されていました。
瀬田の唐橋 9
石山駅以南では滋賀県道104号線に組み入れられ、
車両や人がひっきりなしに行き交う東海道ですが・・・

屈曲(クランク)の面影を感じさせるカーブや
瀬田の唐橋 10
趣のある寺院
瀬田の唐橋 11
町家なども残されており、街道の面影を感じさせます。
瀬田の唐橋 12
んで、この日最初の目的地は、東海道が県道2号線に「化ける」
唐橋西詰交差点の先に在る・・・
瀬田の唐橋 13
瀬田の唐橋(せたのからはし)

琵琶湖から流れ出る唯一の河川
瀬田川に古来より架けられていた橋で、

京都府京都市・宇治川に架かる宇治橋
京都府大山崎町・淀川にかつて架かっていた
山崎橋と並び、
日本三名橋・日本三古橋のひとつとされ、
日本の道100選にも選ばれている、大変由緒のある名橋。

最初にここに架橋されたのは天智天皇(てんじてんのう)が
大津京に都を遷した7世紀中期~後期頃。

最初の橋は天智天皇の嫡子・
大友皇子(おおとものみこ。弘文天皇)と
天智帝の弟・大海人皇子(おおあまのみこ。のちの天武天皇)が
皇位を争った壬申の乱(じんしんのらん)で
焼け落ちてしまいましたが、

畿内(近畿地方)と東国を繋ぐ要所として、
また防衛上瀬田川に架橋を許された唯一の橋として、
唐橋を制する者は天下を制すると言われるほど
重要視されていました。

そのため壬申の乱以後もたびたび瀬田や瀬田橋が戦場となり、
奈良時代の天平宝字8(764)年には、
朝廷に反旗を翻した藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ、恵美押勝とも)率いる
軍勢に対し、
孝謙上皇(こうけんじょうこう)擁する朝廷軍は瀬田の橋を焼いて
東山道(東海道)の陸上路を封鎖

近江・越前国境や湖西地方での戦いの中で、
首謀者・藤原仲麻呂は朝廷軍によって討ち取られました。
(藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱)

時代が下って治承・寿永の乱(源平合戦)でも
平氏とそれを都から追い落とさんとする源(木曽)義仲軍、
さらにその後義仲追討の命を受けた源義経(みなもとの よしつね)率いる
頼朝軍と義仲軍との間で戦いになったり、

承久の乱(じょうきゅうのらん)、建武の戦い
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)等
数多の戦乱の舞台となった瀬田橋は、その度に焼失

しかし交通・軍事両面での重要性からその都度再建され、
現在までの架橋回数はとんでもないことになっているようです。
(さらに火災で焼け落ちることもしばしばだったとか)
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古式ゆかしく、擬宝珠(ぎぼし)と高欄(こうらん)を戴いた
現在の唐橋。

そんな瀬田川に本格的な唐橋を架けたのは、
畿内を中心に勢力基盤を固めつつあった、
織田信長(おだ のぶなが)

゛天下人″のお膝元となる南近江の交通の便を図るべく、
瀬田城主・山岡景隆(やまおか かげたか)らが架橋奉行を務め、
大小2つの橋と擬宝珠・高欄を戴いた現在のものに近い
橋が完成したそう。

しかしながら信長公の架けた唐橋は本能寺の変後、
明智勢の安土侵攻を阻止するため、
架橋奉行であった山岡景隆が自ら放火
初代「唐橋」は灰燼に帰してしまいました。

(しかし明智軍の足止めには成功しており、
仮橋を架けるのに3日を要したため明智方の近江侵攻は遅れ、
体勢の整わないうちに羽柴軍の反転攻勢を受けることとなりました)

明智光秀追討後は一躍信長公の゛後継者″となった豊臣秀吉が、
信長時代の様式に則って橋を再建。

江戸時代に入ると膳所藩(ぜぜはん)本多氏が唐橋を管理し、
橋には東西の都(江戸と京都)を結ぶ東海道が通され、
琵琶湖南岸唯一の陸路として、
多くの旅人で賑わいました。
瀬田の唐橋 26
高欄の上に青銅製の擬宝珠を戴く、瀬田の唐橋

唐橋には現在大橋三十四個、小橋十二個、計四十六個の
擬宝珠が取り付けられ、
高欄とともに和様の外観の形成に寄与。

昭和59(1979)年の架け替えの際に旧橋の三十四個から
増設されましたが、その際修理不能なものを除いた
二十七個の擬宝珠が修復の上継承されています。

そのため擬宝珠の中には文政年間(江戸時代後期)や明治期のものも
残されていのだとか。
(じっくり見るんだった!)

また「唐橋の擬宝珠」にまつわる逸話として、
戦国末期~江戸初期に活躍した武将で、
「利休七哲」の一人として豊臣秀吉や徳川家康といった天下人にも
一目置かれた「茶人大名」、

織部(おりべ)の名で知られる
古田重然(ふるた しげなり)のお話が伝わっています。

ある時「わび茶」を成した茶の湯の第一人者・
千利休(せんの りきゅう)とその弟子たちが集まった席で、
利休が「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものがふたつあるが、
見わけられる人はいないものか?」と尋ねたところ、

一座に加わっていた織部は急に中座し、
夕方になって戻って来た。

利休が何をしていたのか訊ねたところ、
「例の擬宝珠を見わけてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。
さて、ふたつの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答え、
その執念に利休はじめ一同皆織部の執念に感心した、というもの。

瀬田までの距離と「夕刻までに往復」という行程から、
この集会は京都市内かその近郊で開かれたと思われますが、
思い付きで隣国まで出掛けてしまう行動力と好奇心・・・
確かにビックリ!
瀬田の唐橋 15
橋の上から眺めた瀬田川

宇治川淀川と名を変えながら二府一県、
75kmを経て大阪湾へと注ぎ込む、西日本有数の大河。

まるで河口のような広々とした川幅ですが、
川の起点は画面のずっと向こうに広がる琵琶湖
そこから数キロ(4kmくらい?)ほどしか離れていない唐橋は、
その最上流部に当たります。
瀬田の唐橋 15.5
好天の下、熱心にボートの練習に励む学生クン。
(青春だぁ・・・!)
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上流のような見た目の「下流側」。
画面奥に見える高架橋の上を・・・
瀬田の唐橋 17
「日本の大動脈」・東海道新幹線が駆け抜けます!
瀬田の唐橋
対岸に渡りまして、大橋部分を外から観察。

現在の「唐橋」は昭和54(1979)年に架け替えられたもので、
長さは大橋172メートル、小橋51.75メートル(計223.75メートル)、
横幅12メートル。

これを大橋部分は五連、小橋部分を三連とした脚柱と、
鉄筋コンクリートを景観保護のための石積みで覆った
橋台が支えています。

橋体は膨大な交通量と大小各種の車両の重量を支え得る
鉄筋コンクリート造で、歴史的・文化的背景と景観への配慮から、
前述の通り橋全体に高欄と擬宝珠が配された
和様の装いとなっています。
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橋桁の裏側は、こんな感じ。
趣ある外観とは異なり、思いっきり現代的(笑)
瀬田の唐橋 20
瀬田川の畔に下りてみました。
瀬田の唐橋 21
瀬田川沿いから見た、唐橋(大橋部分)。

緩やかな放物線を描く橋体部分には
6%の縦断勾配※が付けられており、
中世以前の木造橋そのままの構造美を継承。

その優美な姿は文学や美術の題材としても度々使われており、
平安時代には歌枕として瀬田の長橋と称されて
長いものの例えとなっていた他、

近江国(滋賀県)の優れた情景を選んだ近江八景の一つ、
勢多(瀬田)夕照(せた ゆうしょう)として、
「東海道五十三次」の作者として名高い浮世絵師・
歌川広重(うたがわ ひろしげ)の連作にも登場しています。

また東国から京都へ上る際、近道ではあるものの
天候の影響を受けやすい水上交通よりも
陸路の唐橋を渡ったほうがより確実である、ということから
急がば回れの語源となるなど、

近江を代表する名所として、また風光明媚な美観を誇る場所として、
人々に親しまれていたことが分かります。

古くより幾多の攻防の舞台となり、
数多の旅人たちが踏みしめた名橋を歩き、
こうして眺めている・・・実に感無量。

※縦断勾配・・・物理的地勢や地理学的地形、あるいは建築物において、
水平面 に対する面の傾斜具合を表す言葉
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こんなイメージ
瀬田の唐橋 27
そんな唐橋には、゛当然″「俳聖」・松尾芭蕉の足跡も残されています。

こちらの句碑に刻まれた「五月雨(さみだれ)に 隠れぬものや
瀬田の橋」の句は、貞享5(1688)年、
伊勢参詣の復路、江戸へ戻る途上に作られたもので、
五月雨に霞む情景の中でも隠れることのない、
唐橋の姿を読み上げています。
瀬田の唐橋 22
そしてもう一人、「伝説上」のものではありますが、
ここ唐橋と関わりのある人物が。

それは大橋を見下ろす中洲に銅像が建てられている・・・
瀬田の唐橋 23
藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)公。

平安時代中頃の貴族・豪族であり、
平将門(たいらの まさかど)討伐に功を上げた、
伝説的な武人

あるいは俵藤太(たわらの とうた)という異名の方が、
通りがいいかも知れませんね。
その「俵藤太」の逸話として知られているのが・・・
瀬田の唐橋 24
むかで退治

その昔、琵琶湖南岸の交通の要である瀬田橋
六十六メートルにも及ぶ大蛇が住み着き、
市井の人々は橋に近寄ることが出来なかった。

ある日秀郷公がその大蛇の背を踏み越えたところ、
大蛇は老人に変化。

聞けば三上山(近江富士)に棲まう大ムカデ
琵琶湖の魚を食い尽くし、人々を困らせているため、
ムカデ退治を買って出てくれる猛者を探していたという。

この大蛇の頼みを引き受けた秀郷公は
ただちに三上山へ向かい、大ムカデを見事退治

秀郷公の武勇を讃えた老人(大蛇)は、
瀬田橋の下に在る(!)竜宮へ秀郷公をご招待!

実はこの大蛇、一千年も昔から琵琶湖に根を張る
漁民の暮らしや大地の恵みを見守って来た
良い蛇(おそらく神様)であり、
お礼として秀郷公は一生食べきれないほどの米俵を
受け取ったのだそう。

これが彼の武勇を表す大ムカデ退治のいきさつであり、
名高い異名である俵藤太の由来となっています。
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俵藤太像の傍らに建つ、「明治天皇御霊蹟(ごれいせき)」の碑。

瀬田の唐橋、実に先人たちの逸話や事績に事欠かない場所である。

参考:攻城団
    各所解説パネル
    Wikipedia
    滋賀県観光情報 滋賀・びわ湖のすべてがわかる

今回訪問した場所

アクセス

公共交通機関
京阪電鉄石山坂本線 唐橋前駅 下車 徒歩 5分
自家用車
名神瀬田西・東ICから5分
(周辺は交通量が多く、曜日や時間帯によっては混雑も予想されるため、
ご訪問の際はくれぐれもご注意ください)

お問い合わせ
TEL 077-528-2772
FAX 077-521-7330

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。