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近江商人のふるさとを歩く 4 ~町のシンボル・八幡堀!~

いよいよ開幕致しました、東京オリンピック2020

4年に一度(延期により5年ぶりになってしまいましたが)の
スポーツの祭典、それも夏季大会としては
半世紀ぶりの日本開催!
ということで大いに盛り上がる・・・はずでしたが

昨年以降爆発的に拡大したコロナ禍によって、
国内はもとより、国際的にも「歓迎されざる」
祭典となってしまった感があります。

もっとも未だに終息の見通しが立たない
福島第一原子力発電所や未だに人の戻らない(もしくは戻れない)
土地が存在している以上、
復興五輪という偽りのスローガン
到底受け入れがたいものである上に、

コロナ禍突入以降(それ以前もか 笑)の民意を顧みず、
スポンサーや「お客さま」であるIOCの顔役たちにこびへつらって
開催ありきで突き進む政府与党の姿勢には、
疑問ばかりが浮かぶところ。

競技自体は3県5会場を除いて「無観客」に決まったとはいえ、
テレビの前では連日熱い応援合戦が繰り広げられることでしょう。
無事に「終演」を迎えるのか、
はたまたさらなる「どんでん返し」が待ち受けているのか。

オリンピックが奏でる狂騒曲から、
目が離せません!

さて、冒頭からを吐いてしまいましたが、
「近江商人のふるさとを歩く」編、
書き進めて参りましょう。
八幡堀 1
「近江商人」と近江八幡の
成り立ちと実態を知ることの出来る文化施設、
「郷土資料館」と「歴史民俗資料館」を見物した私。

今度は商業都市の面影を留める新町通りへ出て、
八幡山方面へと向かいます。
八幡堀 2
新町通りはかつての「目抜き通り」と言い得る
重要な路地。
それを表すかのように、通りの両側には豪商たちが建てた
邸宅が軒を連ねています。

その一つがこちらの森五郎兵衛邸
前回記事にてご紹介した「歴史民俗資料館」の建物を
「別宅」として所有していた商家で、
こちらはその主人と家族たちが居住した本邸に当たります。

初代の森五郎兵衛(もり ごろべえ)は、
はじめ伴傳兵衛(ばん でんべえ。初回・2回目の記事でご紹介した
「伴庄右衛門家」の本家筋)家に勤め、

「出店」での奉公と「在所登り制度」※を経て
独立を許され、初めはたばこや麻布、
のち呉服や太物(綿織物・麻織物)を取り扱い、
やがて江戸・日本橋や大坂本町にも出店するほどの
大店(おおだな)となりました。

※在所登り制度・・・故郷(近江国)から離れた場所に構えられた「出店」に
仕える「奉公人」に対し、
5~7年ごとに帰省(登り)を与えて国元(在所)に帰らせ、
勤め先に戻ってから昇進させるというシステム。
能力次第では自分の店を持つことも許された。

この「森五郎兵衛家」は今でも東京・日本橋にオフィスを構える
近三商事として健在であり、
屋号を「三左衛門」と変えながらも「お江戸」の一等地で
商いを続けています。(代表はもちろん「森さん」)
八幡堀 3
「森五郎兵衛邸」の隣は、西川庄六邸

初代「庄六(しょうろく)」は、向かいの「重要文化財 旧西川家住宅」の
土地を所有していた2代目西川利右衛門(にしかわ りうえもん)の子で、
分家を許されてからは蚊帳・綿・扇子・砂糖などを扱い、
3代目の頃には江戸・日本橋に出店して
島津家指定御用商人となるなど、

本家筋の「西川利右衛門」家に次ぐ
近江八幡を代表する豪商となりました。

この「西川庄六」家も食品や家具家電、インテリア、ファッション商品などを
幅広く取り扱うメルクロス株式会社として健在であり、
「西川さん」指揮の下、東京に本社を構え、
江戸時代そのままに大阪や京都にも店舗を展開しているそう。
(スゴ!)
八幡堀 4
広大な敷地を有する「西川庄六邸」。

主屋の他にも土蔵や「でみず間(おそらく風呂・雪隠(トイレ)・台所などの
水回りの設備を集めた建物)」や
「化粧間(身だしなみを整えるための部屋)」など
多数の部屋や建物が内包されています。
八幡堀 5
一方新町通りの反対側に門を構えているのが、
旧西川家住宅

近江八幡でも最大規模を誇った商家・
西川利右衛門(にしかわ りうえもん)家が
所有していた邸宅で、
現存する主屋は宝永3(1706)年の築。

西川利右衛門家は「西川庄六家」の本家筋に当たり、
屋号は大文字屋を称して
蚊帳や畳表で財を成し、近江八幡を代表する商家の一つと
なっていましたが、
昭和5(1930)年に11代目当主が亡くなったのを最後に断絶

土地と建物は分家の「西川庄六家」によって
近江八幡市に寄贈され、
現在は「郷土資料館」・「歴史民俗資料館」とともに
「近江八幡市立資料館」の一施設となっています。
(単館入館も可能)

昭和58(1983)年には主屋と天和年間(1681から1683年)築の
三階建ての土蔵(全国的にも珍しい形式だそう)が
重要文化財に指定され、
豪商の暮らしぶりと江戸時代の建築様式を今に伝えています。
(今回は時間(とカメラ)の都合により拝観はパス)
八幡堀 6
交差する大杉町通りを越えて、なおも直進。

八幡堀 7
路地の右手に現れた、地蔵堂。

中に収められている地蔵尊はお願い地蔵さまと呼ばれ、
その名の通り願いを叶えてくれるお地蔵さまなのだとか。
折角通りかかったので、お参り。

やがて通りの先に見えて来たのは・・・
八幡堀 8
近江八幡旧市街のシンボル・八幡堀

天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀次(はしば ひでつぐ)によって
八幡山城築城と同時に開削された、全長4,750mの水路。

と言えば本来城を防御するためのものですが、
秀次公は琵琶湖と町を繋ぐこの水路を
商業利用することを思い立ち、
湖上を航行する船を八幡堀を通して近江八幡の町へと寄港させ、

さらに城下に安土の町を引き継いだ楽市楽座
施行することで、
町に活気と富をもたらすことに成功しました。
八幡堀 9
5年ほどで秀次公が近江八幡を去り、城が廃城となった後も、
商業都市・近江八幡の要として、
琵琶湖の水運と町の経済を支え続けた八幡堀

しかし昭和30年代にはモータリゼーションの進展や
生活様式の変化により水運も衰え、
役目を失った堀は荒れ果てて、ゴミの不法投棄や公害の発生源となる
無用の長物と化してしまいます。

そんな状況の中で八幡堀の保存と環境保護を目的として立ち上がったのが、
近江八幡青年会議所

「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」
を合言葉に近江八幡市民に堀の浚渫と復元を呼びかけた彼らは、
昭和50年代になると「死に甲斐のあるまち」をコンセプトにした
活動を展開。

毎週日曜日になると会員自ら八幡堀へと入り、
自主的な清掃活動に励みました。

初めは心無い言葉を浴びせられることもあったそうですが、
彼らの熱心な活動はやがて市民たちの共感を呼び、
ついに計画されていた改修工事も中止されることに。

こうしてかつての姿を取り戻した八幡堀
江戸時代の商業都市の姿を留める財産となり、
平成4(1992)年には周囲の町並みや
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)境内地とともに
重要伝統的建造物群保存地区に、

次いで平成18(2006)年には長命寺川西の湖と合わせて
重要文化的景観として選定され、

今日では多数の観光客が訪れる近江八幡観光の目玉
なっている他、
江戸時代の風情を残す町並みから、
映画や時代劇の撮影場所としても重宝される
「愛されスポット」となっています。
(こうして気兼ねなく散策が楽しめるのも
草分けとなった「近江八幡青年会議所」を始めとした、
各種団体の方々による努力の賜物ですね!)
八幡堀 11
水辺に沿って散策路が設けられている、八幡堀

ここからは、お堀端での光景をお楽しみください。
八幡堀 12
お堀の情景にマッチする、和式の舟。
岸辺に並んでいるのは「願成就の舟」と名付けられた
手漕ぎの舟で、マップの紹介によれば
日本一遅い乗り物なのだとか。

往復1,000円(子供500円)、
30~40分掛けて、新町界隈の眺めをゆっくり楽しめるそう。
八幡堀 13
お堀越しに望む、八幡山(八幡山城跡)。

かつてはあの上に、三層の天守を戴く
城砦が築かれていました。
八幡堀 14

八幡堀 15
水辺では菖蒲が、黄色い花を咲かせます。
八幡堀 16
堀を渡る橋の一つ・明治橋

明治41(1908)年に架橋された、周囲の景観とマッチした橋ですが、
実はコンクリート製

橋台に石材を用いたり、橋体に木目調の装飾を施したり
欄干を置いたりして、
周囲の情景に溶け込む工夫が凝らされています。
八幡堀 17
堀の両側に、町家や土蔵が並びます。

参考:近三商事
    メルクロス株式会社 公式ホームページ
    近江八幡観光物産協会
    滋賀県観光情報 滋賀・びわ湖のすべてがわかる
    各所解説パネル 
    ニッポン旅マガジン
    時代劇ロケ地探訪
    Wikipedia

「近江商人のふるさとを歩く」編
第1回 ~「旧伴家住宅」その1~

第2回 ~「旧伴家住宅」その2~

第3回 ~近江八幡市立資料館~

八幡堀

アクセス

名神高速道路 竜王ICから30分
市営駐車場2カ所アリ

公共交通機関
JR琵琶湖線  近江八幡駅下車
近江鉄道バス「長命寺線」、「近江八幡市内線」 7分
大杉町バス停下車 徒歩5分

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。