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越前旅10 ~激闘の舞台・金ケ崎城址~

金ケ崎城

敦賀市北東、敦賀湾に面した標高86mの丘陵・
金ヶ崎山上に築かれた中世の山城

治承・寿永の乱(源平合戦)の際に
平清盛(たいらの きよもり)の甥・
平通盛
(たいらの みちもり)が
木曽義仲(きそ よしなか)との戦いに備えて築いた

都留賀城(つるがじょう。近世城郭の゛敦賀城″とは異なる)が
始まり。

その後の変遷は不明ながら鎌倉時代末には
氣比神宮の大宮司を務めた気比氏
居城として管理されていたようですが、

南北朝時代の1336(建武3/延元元)年、
鎌倉幕府打倒後の政治方針の違いや論功行賞の不満に
端を発した時の帝・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)と
有力武家・足利尊氏(あしかが たかうじ)の対立が
武力衝突に発展。

京を追われた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が
大和国(奈良県)吉野山に下り、
一方京へ入った尊氏が光明天皇(こうみょうてんのう)を
擁立したことで、

二つの王朝(北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)が並立して
互いの正当性を巡って争い合う、
南北朝時代が始まります。

各地の武家が「北朝」に付くか「南朝」に付くかで
割れる中、
気比氏当主・気比氏治(けひ うじはる)は
南朝方に付くこととして、

南朝方の領袖であった新田義貞(にった よしさだ)と、
義貞に伴われて京より逃れて来た
後醍醐帝の皇子・尊良親王(たかよししんのう)と
その弟の恒良親王(つねよししんのう。皇太子)を
金ケ崎城に迎え入れます。

これに対し幕府方はただちに城への攻撃を開始。
一度は新田・気比軍が勝利を収めたものの、
尊氏の命を受けた幕府重臣・
高師泰(こうの もろやす)を総大将とする
大軍が派遣されると、形勢は悪化。

新田義貞は城を脱し援軍を率いて
駆け付けたものの力及ばず(諸説アリ)、
半年ほどの攻防の末金ケ崎城は落城し、
尊良親王はじめ気比氏治・新田義顕(にった よしあき)ら
主だった武将は自害

城を脱した恒良親王も捕らえられ、
失意のうちに亡くなりました。
(その後新田勢の反攻により一時的に城は南朝方に
奪還されましたが、幕府軍に再度奪われ、
以後北朝方、そして越前守護代の城として
存続して行くこととなりました)


次にこの地が大きな戦いの舞台となったのは、
戦国末期・元亀元(1570)年のこと。

室町幕府将軍・足利義昭(あしかが よしあき)の命によって
若狭国(わかさのくに。福井県南西部)へと出兵した
織田・徳川連合軍。

若狭を実効支配していた武藤友益(むとう ともます)の
軍勢を破って順調に進軍を続けた織田軍は、
(理由は定かでないものの)越前方面へと転進し、
4月23日に若狭・敦賀国境を越えて
敦賀地域に着陣。

2日後の25日には金ケ崎城の支城・天筒山城(てづつやまじょう)を、
翌26日には金ケ崎城本城を落とし、
たちまち嶺南・嶺北を隔てる木ノ芽峠(きのめとうげ)に迫ります。

しかしここで同盟を結んでいた北近江(滋賀県北部)の領主・
浅井長政(あざい ながまさ)の裏切りに遭い
朝倉勢と挟撃される窮地に陥った織田信長は、
越前からの撤退を決断。

殿軍(でんぐん。殿(しんがり)とも。
撤退線の際に軍勢の最後尾に配置され、
敵の追撃を食い止め本隊を逃がす役割を担った)を務めた
木下藤吉郎(きのした とうきちろう。のちの豊臣秀吉)や
明智光秀(あけち みつひで)、池田勝正(いけだ かつまさ)らの奮戦、

近江国朽木谷(くつきだに)の領主・
朽木元網(くつき もとつな)の手引きもあって、
辛うじて窮地を脱することに成功しました。

この戦いはのちに金ケ崎の退き口と称され、
数多の激闘を繰り広げた信長公の生涯でも、
(本能寺を除いて)最大の危機とされる
重大な局面となりました。

(またこの時浅井長政の下に嫁いでいた信長公の妹・
お市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を届けて
兄の窮状を知らせたという逸話(創作の可能性大)は、
袋のネズミ(ハハッ♪)の語源として
語り継がれています)

今回はそんな歴史の舞台となった金ケ崎城址を歩き、
山中に残された遺構や展望所からの眺めを通して、
往時の戦いの様子や
「敦賀の要衝」の姿に想いを馳せて参ります。


現在金ケ崎全体の所有者となっている
恋の宮」・金崎宮への参拝を済ませた私。

ここから城址中心部へは敷地左手より
花換の小道」を抜けて時計回りに回るルートと
鳥居付近から山中に分け入り
反時計回りに回るルートの二通りがあるのですが・・・
金ケ崎 1
今回はこちらの細道から、
城郭主要部を目指します!
金ヶ崎 2
鬱蒼と木々が生い茂る山中へと分け入り、
つづら折りの山道を上って行くと・・・
金ヶ崎 3
わずかに平らになった場所に出て来ました。

ここは金ケ崎城防備の一端を担った防御施設・
二の木戸の跡。

南北朝時代、金ケ崎山の尾根に沿って
築かれた木戸の一つで、
お隣・天筒山(てづつやま)に面した東側の尾根から
「一の木戸」、「二の木戸」、「三の木戸」の順に
三つの木戸が築かれ、防衛線を構築。

幕府軍の攻撃を受けた南北朝期の戦いでは、
この付近で激戦が展開されたと言われています。
金ヶ崎 5
中世城郭特有の虎口(こぐち。郭の出入り口)や
横矢掛り(土塁や石垣に屈曲した部分を造り、
側面からの射撃・銃撃を可能とした防御機構)もなく、
どちらかと言えば簡素な印象を受ける「木戸」の
防衛設備ですが、

周囲には結構な規模の堀切(ほりきり)や
金ヶ崎 6
土塁らしきものが残されており、
山城の風情たっぷり!
金ヶ崎 7
ここから一旦東(「二の木戸」跡の写真で見ると、右側)へ移動。
尾根の下には、急峻な斜面が続きます。

このような山城を訪れるたびに思うのですが、
昔の人はよくこんなところを駆け上ったり、
斬り合いをしたり出来たものだ・・・
金ヶ崎 4
「二の木戸」跡から120メートルほど進むと、
金ケ崎城第一の防御設備・
一の木戸跡に到達。

この場所は三つの木戸の中で金ヶ崎山と隣り合う
天筒山に最も近く、
畿内より侵攻して来た軍勢が天筒山を占拠した場合、
真っ先に敵の攻撃を受ける場所に位置していました。

そのため「二の木戸」同様南北朝の戦いでは
ここで激戦が展開された他、
戦国期には朝倉氏も防御設備として活用していたそう。
(戦国時代の織田・徳川軍も天筒山に築かれていた
支城・天筒山城を先に落として
金ケ崎城攻略に着手していることから、
その折もこの付近で戦闘が行われたと
思われます)
金ヶ崎 21
「一の木戸」の周りにも、掘切が展開されています。

この先は金ケ崎城の支城であった
天筒山城(てづつやまじょう)に通じており、
戦国時代には二つの城がセットとなって
防衛線を構築。

敦賀地域の防衛と嶺南・嶺北の連絡、
北陸道敦賀湾(港)の監視を担っていました。
金ヶ崎 8
「一の木戸」跡から引き返し、城の西側へ。

「二の木戸」跡を過ぎた先に現れる平坦地は、
焼米石出土跡

朝倉氏統治下の戦国時代、
兵士の糧食を備蓄する兵糧庫
置かれていた場所で、
織田軍の攻撃で城もろとも焼け落ちて、
その跡から焼け焦げた米が出土したのだそう。

戦時において糧食の確保は゛超″重要課題。
その糧食を貯蔵する兵糧庫が落とされた地点で、
城の命運は決まってしまったのでしょう。
金ヶ崎 9
「焼米出土石跡」から少し下ったところ、
尾根の末端と郭(くるわ)への侵攻を妨げるように
立ちふさがるのが、
三つ設けられていた「木戸」の最後のひとつ、
三の木戸の跡。
金ヶ崎 10
ここまで敵が寄せて来たならば、
城の落城はほぼ不可避

城主たちが自刃、あるいは脱出するための時間を
稼ぐべく、
守兵たちは必死の防戦に努めたことでしょう。
(皇族を戴いていた南北朝時はともかく、
一日で織田軍に落とされていることから
戦国・朝倉軍の士気は゛推して知るべし″
といったところでしょうか)

また「三の木戸」の在ったあたりには
水の手という地名が付けられているのですが、
これはこの場所から兵糧と並んで籠城の際に欠かせない
飲み水が湧き出ていたことを
表しています。

「三の木戸」は、城にとって二重の意味
重要な場所だったのです。
金ヶ崎 11
「三の木戸」の周りにも、
当然のように堀切が設けられています。
金ヶ崎 12
ここから先ほど見えていた階段を上り・・・
金ヶ崎 13
開けた場所に出て来ました。

ここは月見御殿跡広場と呼ばれるところで、
金ヶ崎山の最高所(86m)から一段下がった場所に
設けられた広場。

この奥に南北朝時代の゛本丸″があることから、
それを守るための郭、
あるいは本丸の一部だったと思われます。
金ヶ崎 14
東屋が設けられ、
ちょっとした゛休憩スペース″となっている広場には、
南北朝時代の戦いを偲ぶ石碑や・・・
金ヶ崎 15
明治時代に発見された古墳(!)が残されています。
金ヶ崎 16
この「月見御殿広場」から階段を上がり・・・
金ヶ崎 17
月見御殿跡へ!

城の最奥、敦賀湾を背にした
金ヶ崎山最高地点(標高86メートル)に設けられた郭で、
南北朝時代にはここに本丸が置かれていた他、
戦国時代には武将たちが月見に興じたと
伝えられています。
(そこから「月見御殿」の名が付けられたのでしょう)

金ケ崎の退き口」から540年が過ぎた今では
戦いの痕や城の遺構は確認出来ませんが、
一段高くに設けられた展望広場からは・・・
金ヶ崎 18
波穏やかな敦賀湾の風景
金ヶ崎 19
沿海地区に広がる敦賀セメントのプラントや
北陸電力敦賀火力発電所
岸壁に繋がれた敦賀セメント所有の石灰石運搬船・
気比つるが丸の姿などが一望の下!

この眺望ならば確かに、
゛月見″には打って付けだったことでしょう!
金ヶ崎 20
そんな眺めが楽しめる「展望広場」の一角に
建てられた石碑。

表面には皇太子殿下臺(台)臨之跡
ありますが、
これは明治42(1909)年、皇太子時代の
大正天皇(たいしょうてんのう)が
北陸・岐阜県を巡啓なされた際、

ここ金ケ崎城月見御殿をお訪ねになられたことを
記念して造られたもの。

古くは尊良親王や恒良親王、
時が下って朝倉一門(ひょっとしたら織田信長や豊臣秀吉、
明智光秀に徳川家康も?)、
大正天皇といった偉人や貴人たちが
目にしてきたであろう景色・・・

(変容したとはいえ)歴史上の人物たちと
同じところに立って、同じ眺めを楽しむ・・・
なんだか感慨深い。
金ヶ崎 22
「月見御殿」を下り、ロマンチックな名前の
花換の小道」を通って金崎宮へ戻ります!

参考:攻城団
    街道歩きこぼれ話
    Wikipedia

「越前旅」編
1日目
第1回 第2回 第3回 第4回
2日目
第5回 第6回 第7回 第8回
3日目
第9回 ~「恋の宮」・金崎宮~

金ケ崎城址

拝観料
無料

アクセス
車の場合
北陸自動車道敦賀ICより 約10分

駐車場
金ケ崎公園駐車場
収容台数30台、バス5台(駐車料金無料)

公共交通機関の場合
JR敦賀駅から
松原線
「金崎宮口」バス停下車
ぐるっと敦賀周遊バス「金崎宮」バス停下車

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プロフィール

詞-Nori-

Author:詞-Nori-
旅行系ブロガー。
趣味は旅行、町歩き、食べ歩き、
鉄道等々。

目下地元・福岡県に戻り、
次なる行動に向けて準備中。